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「尊い」はもはや尊くない

「尊い」という言葉が嫌い。

厳密に言えば、巷でよく言われる「〇〇さん尊い」、「〇×〇尊い」、「推しが尊い」とかいう、いわば用法が嫌い。(推しという言葉も嫌い。)

尊いとはそんな軽いものだろうか?
尊い日々、尊い過去、尊い仲間とかもっと普遍的で美しいものを称える言葉じゃないか?
まぁ、当方言語学者でも国語教師でもないので正しいのかどうかなんてわからないが…

詩人の萩原朔太郎が著書「靑猫」の序文でこう述べている。

…然るにその後『憂鬱なる××』といふ題の小説が現はれたり、同じやうな書銘の詩集が出版されたりして、この「憂鬱」といふ語句の官能的にきらびやかな觸感が、當初に發見された時分の鮮新な香氣を稀薄にしてしまつた。…※1

萩原朔太郎の場合は、「憂鬱」という文字についてだが、これが「尊い」にも起きているのではないかと感じる。
いや、そもそも現在の「尊い」の用法が合っているのかもわからないので、厳密には違うかもしれない。
ただ、「尊い」が安売りされることで朔太郎の言う、「鮮新な香氣を稀薄にしてしまつた。」という面においては共通していると思う。

こうして、本来の尊厳をなくした言葉がその地位を下げられる様子に私は言葉にし難い憤りを感じていたのではないかと、朔太郎の文を読み思った次第である。

言霊、つまり言葉を力を持っていると聞いたことがあると思うが、「尊い」のようにその尊厳が失われた言葉はその力も失われるのだろうか、そうであれば少しだけ悲しいなと思い、また他のことに関して思索に耽るのである。

※1 萩原朔太郎 「靑猫」 青空文庫webページ 2005年6月14日作成
2018年12月14日修正



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