成果とスコアの違い


10代の卒業したての若者を観た。
最初はまぁオロオロと躊躇して固まって何もできなかった。
彼には仕事なんて到底無理だと思われた。

ところが半年、ちゃんと意味のあるダブスタにならない評価を与え、
しっかり方向性を明確に導けば、見違える様に動けるように成長した。
自信を持ち、未来に希望を抱いて、車を買うという目的を持った。

おいおい・・「何年学校で時間を無駄にして来た?」


たった半年で人間はこれだけ変わる事が出来る。
ポンコツがあっという間に働き者になる。
自分の行動に伴った報酬が、大人からの正しい評価が成果に直結する。
そう、ロジックが発生し、自分の中に軸が出来たのだ。
無能だったのが、たった半年で人材に変わった。

これを目の当たりにすれば、もう学校のスコアに価値を見出すのは無理だ。
アレは相対的評価、見栄を張りたい、威張りたい人間にしか意味が無い。
身近な誰かを見下したい人間なら、学校のスコアに価値を見出せるだろう。
比べる人種の選別でしかない。

マウント人間にとっては、スコアは垂涎のエサになる筈だろう。
しかしスコアなんて威張りたい人間にしか価値が発生しない。
まるで「ときめきメモリアル」のゲームシステムだ。
相対化してようやく意味が発生する、誰かに対する当てつけがスコアだ。
そしてそれはリアルな成果とは直結しないという事。
本質的には一体何の意味があるのだろうと。

人を育てるならちゃんとした場所で数時間働かせて、報酬を与えればいい。
身になる、実感する、ロジックが生まれる、努力に意味が発生する。

上っ面のプライドだけの愚者を育てたって、宮崎勤が出来るだけ。
学歴主義、権威主義者なんて全員宮崎勤の同類だ。
単に世間体の為に幼女を狙わないだけ、法によって犯罪を犯さないだけ。
それが宮崎が「自分は優しい人間だ」という言葉に集約されている。
彼は「周りと同じ事をやっただけ」だと思っていただろう。
ランカーとして普通の事をしただけ、みんなと何も変わらないと。

政治、医療、大企業。
人間が表にでなけりゃどんな事だってやるのがもう判るだろう。
多くの人間がランカー、相対的強者であり、宮崎勤の同類なのだ。
学校で学んだ「他人を見下す事」は搾取と直結する。
ルールが変われば誰もが弱者を観た時、簡単に勤とおなじ事をする。
法の縛りが緩み次第、喜んで倫理を放棄するハズだ。

潜在的にキャットキラー、幼児虐待をする人種は数割いる。
彼等は普通に一般人として暮らしている。
スコアを得るモチベーションは他人を見下す事、貶める事。
そんな人種を高く評価してきたツケが今発生している。

旭川のイジメ被害者はランカーというカルトに従わなかっただけだろう。
悪魔のルールに乗らなかった、洗脳されなかっただけ。
自分に主体があったから、主体の無いランカーに食われた。
惨めな愚者によるマウントの為に命を奪われたのだ。

一体、スパルタ教育、学歴主義で何かが良くなっただろうか?
もういい加減、こんな呪いを放置するのはやめた方がいい。
もういい加減、ウソを刷り込むな。
もういい加減、若者を騙すな。

そういう話。

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