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何を削り出して、人は言葉あるいは表現を編み出しているのか(についての走り書き)

投票は期日前に行けても原稿は一向に期日前に出せるようにもならない。

石田衣良原作の映画「娼年」の撮影について主演の松坂桃李が「精神的に追い込まれ、終わった後は矢吹丈のようだった」とツイートしている(>下記リンク)

https://twitter.com/MToriofficial/status/920653742629720064

私も、いつも原稿仕上げた後、何か自分の一部を明らかに削り出したようなジョー感を味わう。
書くという作業、現状の自分の場合は追い込み自分から削り出しての繰り返しなので、これとただ無防備に戦う態勢は、持続可能性が低い。届いた時には何より嬉しく思うが、日常的には辛いことでもある。現状どうしても文章を書く作業が多くなりがちだがアウトプットの方法をより調整しよう、というお話。

それでも、随分自分が生きることを楽に感じられるようになったのは、この2年半、ひとりで仕事を受けさせてもらい、インタビューもたくさんさせていただき、それを主に書き表すことで、表現や、伝えることについて昇華できたものが莫大だったから、というのも事実だ。

「生きることが楽に」とか書くと大袈裟にとらえられてしまうかもしれないが。単純に、卑下するでも誇張するでもなく、そこに自分があっていいという、変な焦りの無い、ノーマルな人間としての肯定感を、徐々に得てこれた、という意味です。

おそらくこれは、ナタリーゴールドバーグが書いているところの「クリエイティヴ・ライティング(魂の文章術)」や以前にSpectatorで特集していた「クリエイティブ文章術」あとは、アートや音楽について書くクリティカルライティングの効用、というこのなんだろうな と思っています。

書くこと、言葉を紡ぐことについて。そして編集という作業でこれまでの編集者が行ってきたこと、と同時にこれからの「編集」という概念が必要とされる領域の広がりについて。最近いろいろ考えているので、ちょっと書き留めておきました。


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