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未来世紀を生きる私たち

まさか自分が生きているうちに、21世紀最大と言われるような侵略戦争が起こるとは。

SNSでは連日、ウクライナ侵攻の話題で持ちきりで、加えて新型コロナウイルスも未だに猛威を奮っている。

アンブローズ・ビアスは、著書『悪魔の辞典』で、戦争(War)[名詞]について、次のように述べた。

平和の技術が生み出す副産物。政治情勢が最大の危機に直面するのは、国際親善の時期である。したがって、歴史の研究家で予期せぬものを予期せよと教わっていない者は、光明を全然受けつけようとしない自分を、得意に思って然るべきである。「治に居て乱を忘れず」という言葉は、普通に認められている以上に深い意味を持っている。つまり、この世のものにはすべて終りがある―変化こそ唯一の永久不変の法則であるというだけでなく、平和の土壌は、戦争の種子が厚く一面に蒔かれていて、その蒔かれた種子が芽を出し成長して行くのに、この上なく適していることを意味している。

平易な文章ではないため、少々難解に感じるかもしれないが、平和(Peace)[名詞]についてのビアスの定義を見れば、意味が分かるはずだ。

国際関係について、2つの戦争の時期の間に介入するだまだまし合いの時期を指して言う。

100年以上前に書かれたとは到底思えない。今の世相を反映したかのようで、アイロニーに満ちている。

誰も、2022年の世界情勢が20世紀前半のようになるとは予測できなかっただろう。しかし、常にそういった危機感を持って我々は生きなければならないのだ。勿論それが杞憂に終わるに越したことはないが。

ウクライナ侵攻に関して特に驚くのは、戦争の様子が、SNSにあがった映像を通して誰でも見ることができるという状況だ。ほぼ全ての人がインターネットに繋がった高性能カメラをもっており、それが全世界に発信される。マスメディアが映すものは、特殊技能を持った人しか得られない魔法のようなものから、失墜したということだ。まさに『映像の世紀』である。

しかし、ロシア国内で情報統制が強化されたという話もある。まるでSFの話のような情報戦が現実で巻き起こっている。SNSを日常的に利用する私たちも、フェイクニュースの拡散など、戦争の道具になりかねない状況であり、ただの傍観者の立ち位置ではないのだ。

こうした世界情勢の中、ロシア文化を排除する動きもある。

これは一例に過ぎない。
「政治と文化は別」という至極当たり前の発想ができない人がこの世にはいるのだ。「文化に救われる」といった経験のない人がこうしたキャンセルカルチャーに加担するのであろうか?今、こうした閉塞感漂う世の中でこそ、文化を尊重すべきである。

私の好きな映画に『未来世紀ブラジル』(1985)といった作品がある。監督は、モンティ・パイソンのメンバーでもある、鬼才テリー・ギリアム。情報統制がなされた「20世紀のどこかの国」が舞台の所謂ディストピア映画だ。まさに、今の現状を映したかのような作品である。

この作品には、夢と現実の狭間を描いたような不条理さも感じるが、そこに、一種の希望を見出すことができる。現実の絶望と自由な夢の対比。この映画を見ると、イマジネーション豊かなギリアムが描くレトロフューチャーなSF感も相まって、自分も仮想現実にいるかのように夢想するのだ。裏を返せば、そのチープさ、滑稽さをメタ的に楽しめる人でないとこの映画の面白さには到達しない。

ここで、1つの動画を見て欲しい。

この動画に映る男性は、10代の若いロシア兵捕虜だ。ウクライナ人から温かいお茶と食べ物をもらい母親にテレビ電話をし、涙を流している。兵士はここに来た目的も知らず、古い地図を持って、道に迷っていたそうだ。

この動画も、全体主義国家に統治された『未来世紀ブラジル』の世界観と重なる。上からの命令は絶対であり、自分がした仕事が何のためになるかなど、下の者は知るよしもないのだ。

映画(これも1つの文化であろう)は、様々なことを我々に教授してくれる。

映画が描く近未来は、決して非現実的なものではない。現状、私たちはウクライナに対して祈ることしかできないが、近隣の国が引き起こした戦争に、いつ我が国が巻き込まれるかわからない。私たちはギリアムが描いたディストピア「未来世紀」に生きており、常に思考しなければならないのだ。そうしたフェーズにもう来ている。

決して他人事とは思わないで欲しい。



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