生きることへの執着

「ネットで故人の声を聴け」といつ東洋経済オンラインの連載を読んでいる。きっかけは、Twitterでこの中の1記事が話題になっていたから。

その記事は、2000年代前半に亡くなった「41才の肺がん医師」のブログが今も残っているという内容だった。

その医師には、奥さんと2人の子どもがいる。
ブログの中身は医師としての「理知性」と、他人の夫・父としての「情」が混在しており、それでも医師としての要素の方が強い印象を受けた。

故人の声を残すことに関する話は、東洋経済の筆者に任せる。

私が感じたのは、その医師が抱いていた「生」への欲望について。

その医師は、日航機墜落事故の犠牲者を引き合いに出した。事故の犠牲者がもう間もなく訪れるであろう自身の死を予期し咄嗟に遺言のメモを残したことを受け、この人よりはまだ自分に生きる時間があると思ったそうだ。

対照的だと思った。生への執着が皆無である自分とは。

私は、劣等生である。
何かを覚え、遂行することが人の何倍もかかる。

そんなとき、己の能力の低さのせいにされ、周りから冷たいまなざしを浴び、他の人と露骨に比較されてしんどい思いをする。

だから、生きづらい。

生まれ持った何か1つ才能があれば良いのだが、残念ながらそんなものも持ち合わせていない。
良いところがなく、自己肯定感がなく、生きづらい。だから、いなくなりたい。

終始、死に関する曲を聴き続けていた。

そしてそんな中、あの事件が起きた。
大阪の有名な某ビルから、未成年の子が飛び降りた。

あろうことか、それが下を歩いていた人に当たってしまった。

最悪なことに、2人とも亡くなってしまった。

関係のない人を巻添えにすることが悪いというのは頭では分かっているし、巻き込まれた人の気持ちを考えると、無念でならない。

それでも、どうしても飛び降りた子の気持ちもわかってしまった。
人生に行き詰って、誰も助けてくれなくて、もしくは助けてくれても自分の心のリカバーができなくて、こんなことしちゃったんだろうか。

せめて私だけでもその子が生きた証を認識し、追悼してあげたい。
すぐにそんな気持ちが強く湧いてきた。

事件の翌日現場の近くに用事があったため、帰りにその現場へ行ってみた。

そこは跡形もなく片付けられており、人の往来もいつもと変わらない。まだ事件から1日しか経っていないのに、その子が生きた証が、無い。

そのあとビルの周りを一周歩いた。顔を知らないその子を想って。

次の用事まで時間があったので、もやもやしたままカフェへ入った。

相変わらずパスタもコーヒーもケーキも美味しかったが、気分はもやもやしたままだった。

気分転換にTwitterを開いた。
そして冒頭の東洋経済の記事を見つけた。

記事に登場する医師が飛行機事故を引き合いに出したこと・・・
人は追い詰められると他人と比較し、安心しようとする。そして周りの大切な人のことを考え、自分がもうすぐこの世からいなくなることを憂う。「生きたい」と願う。

この世からいなくなりたいと思っていた私が思わぬところでこの連載に出会った。奇遇だなあ。という話でした。

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