制度からの逃亡①―レティシア・コロンバニ『三つ編み』

レティシア・コロンバニ『三つ編み』。齋藤可津子訳。2019年、早川書房。

フランスの本。

三人の女性の物語が同時進行する。インドのカースト最下位の女性、イタリアの工房の娘、カナダのキャリアウーマン、それぞれの話。

バラバラに進んでいた話が、最後に、気持ちよいほどぱたぱたとまとまっていく。その構造の美しさ。

そのうちのひとつ、カースト最下位、スミタのお話。娘を何とかしてこの状況から逃れさせたいという話。

数年前に私は仕事でインドに行った。

そのときにびっくりしたのは、カースト制。

インドでは教員という仕事はカーストでも上の方らしく、私たちはゲストだったため、さらに上として扱われた。私たちを招いてくれた二人の先生は女性で、いずれも豊かな身体で、きれいな衣服を身につけて、高級な車に乗って、すてきなお家に住んでいた。

学校では、ギンガムチェックの服の少女たちが、掃除をしていた。彼女たちがチャイを手渡してくれたり、皿を下げたりしてくれる。「ありがとう」といちいち言っていたのだが、先生たちは何も言わず、当然という顔をしていることにすぐに気がついた。すごく偉そうに振る舞っている。

先生は町中で車を走らせる。赤信号で止まったら、こつこつと窓ガラスを叩く少年がいる。先生は無視をする。少年が撥ねられやしまいかというスピードで走り去る。少年は、またすぐに次の車にトライする。

スラム街がある。痩せた人たちがたくさんいる。戦後のバラックのような小さな簡易な小屋が建ち並ぶ、茶色の町。彼ら彼女らは、私たちの方を見ている。先生は無視をして車を走らせる。

そして、先生は、私たちが泊まる、天国のような五つ星ホテルに車を停める。

やがて、私は、ギンガムチェックの少女たちに「ありがとう」と言わないことに抵抗がなくなった。窓ガラスを叩く少年を無視することにも慣れた。スラム街は単なる景色となった。

インドでは、すべてを誰かがやってくれており、非常に快適だった。「マダム」と呼びかけられ、とても丁寧に扱われた。繰り返す。非常に快適だった。カースト上位の私は。

最終日、オールドデリー。脚の半分ない人がいる、おなかの膨れた痩せたおじいさんが寝ている、そんなのはただの風景となっていた。旅の始めは、そんな人たちの中をおっかなびっくり歩いていたのに。デリーからタージマハルのあるアグラに向かう駅には、朝一番の電車の出発のために、多くの人たちがびっしりと隙間もないほどに寝ていた。駅前には、身体の一部がない人たちが大勢いて、私たちに手を差し出す。通訳の人は、駅前の、おじさん達が群がるチャイ屋のチャイが一番美味しいんだと言って、飲ませてくれた。たしかに、人生で一番美味しいチャイだった。でも、あのチャイを飲めるのは、お金を持つ人だけ。

日本に帰った後、しばらく、しんどかった。荷物は自分で持たなければいけないし、ドアは自分で開けなければならない。

慣れてしまえば、麻痺する。

インドの学校では、いつでもたっぷりの食事が提供された。一日に五回。チャバタやサモサが美味しかったこともあるけれど、私は出されたら出されただけ食べようとした。でも、途中で、はたと気づいた。こんなにたくさん、食べきれない量の食事が提供されるのは、残した分を食べる人たちがいるからではないのか。

インドでは、自動ドアがなかった。あってはいけないのだ。「ドアを開ける係」の人がいるから。彼らがドアを開けるのだから。

そういえば、ギンガムチェックの少女たちのうち、箒を持っている子は、一日中箒でどこかを掃いていた。ルンバを使えば?と考えてはいけない。掃除機を使えば?というのも考えてはいけない。彼女たちは、掃除を箒で一日中するのだ。たとえ、床が汚れていようと汚れてなかろうと、それが彼女たちの仕事だから。

インドの既婚女性は、太らなければならないそうだ。それが、カースト上位の証だから。おなかいっぱい食べている、ということを象徴するから。無理して太っている女性もたくさんいることだろう。

この近代化の流れの中で、インドのカースト制は不自然だ。だからといって、自動ドアを導入して、ルンバを導入して、全員自分の持って生まれた体型や健康上心地よいと思える体型をして、ということが許されるのか?

日本は、「平等」だ。どんな生まれでも、たとえば東京大学医学部に行きたいと思ったら、お金を払えば行ける。たとえその先にどんな苦労が待ち受けていようとも、本人にその苦労を引き受ける覚悟と気概があれば、なんとかなる。しかも、戦後から高度経済成長期を経て、世代ごとに、学歴や職業を巡る考え方は変化している。少なくとも、カースト制よりはよっぽど「平等」。

でも、日本でも、自分の家庭環境やそれまで暮らしていた環境から脱するのは、非常に厳しい。日本の中学高校が進路指導をするのは、正しい。だって、その子たちの個々の置かれた環境を無視して、一般のこととして進路を話して指導するから。その子たちが、個々の置かれた環境によって指導された進路から外れなければならないとしても、「平等性」の担保として、進路指導は必要だ。「よい大学」「よい就職先」「よい結婚」を目標にして教育をして、それで日本は成長してきた。全員が「よい」進路をとるべき、として、教育してきた。

インドでは、そんなことはできない。カーストを変えることはできない。たとえ、どんなにひどい仕打ちを受けていても。たとえ、その人にものすごい才能があったとしても。たとえ、身分違いの人が運命の恋の相手だったとしても。それは、「不平等」だ。でも、自分が「よい」進路を探し、それを目指してがんばらなくてもよいという楽さもある。親から受け継いだ仕事をし、一定の決まった範囲から伴侶を探し、社会的に適切とされた年齢で結婚する。決まり切ったことを、決まり切ったようにすることは、楽だ。

だって、私はどうしよう?と考えることはしんどい。

だって、私は理想にはるか及ばないんだけれどなんでだろう?と悩むのはしんどい。

だって、私はいつになったら正社員になれるんだろう?と進路を考え続けるのはしんどい。

だって、私はこのまま独身で、一生よいパートナーに巡り会えないのかしら?とぐちぐちしているのはしんどい。

だって、もうちょっと努力していれば、自分の人生もうちょっとましだったかも、と後悔するのは、しんどい。

カースト制は、楽だ。上の人にとっても、下の人にとっても。

なんで?と考えてしまって、疑問を持つことの方が、不幸だ。

でも、でも。

自動ドアもある。ルンバもある。体型の個性が認められるようになっている。その現代に、カースト制は、合わない。矛盾はどんどん膨らんでいく。

でも、背景を持って長い年月をかけて膨らみ続けた矛盾を、一気に解決することなんて、できない。

どうすればいいのかなんて、私にはわからない。

カースト制を、楽だと思ってしまったから。自分の今を、「平等」な日本にいる自分がとった進路を、しんどいと感じてしまうことがあるから。何も考えず、決められたとおりに生きることも楽なのよと思ってしまうから。

どうしても、きれいな言葉でまとめることができない。スミタの場合は、カースト制に疑問を持ってしまった人の不幸としか思えない。でも、誰かが疑問を持たないと、何もないままだ。その疑問が積み重ならないと、何にもならない。

お話自体は、ぱたぱたと閉じられて美しく終わるけれど、心の中のもやもやは消えない。カナダのキャリアウーマンも、たくさん考えさせられたけれど、やはり私の中で最も印象に残るのは、カースト最下位の中で生きてきたスミタの、せめて娘だけでも守ってやりたいと思う気持ちと、娘を守ることで自分を救いたいと思う気持ちだ。