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朝からドーナツ屋の列に並んではいけません。【ショートショート】

朝からドーナツ屋の屋台の列に並んでいた。
明らかに出勤前とわかるスーツ姿の人たちが、
何人も大人しく立って待っている。
私もその列に加わったのだった。

みんな朝食がわりにドーナツを食べるらしかった。
自分の順番がくると
小声でぼそぼそとドーナツの名前を言い、
砂糖をまぶした赤茶色の輪っかを受け取っている。
ドーナツを包む紙に油染みが浮かんで
半透明になっているのも気にせず、
誰もが足速に駅へ向かいながら
ドーナツをかじっていた。

いよいよ私の番がきた。
みんなと同じものを頼もうと思うのだが、
そのドーナツの名前を知らなかった。
仕方なく

「さっきの人が頼んだ
砂糖のかかったやつをひとつください」

と言うと、
それは今切らしている、と店員は言った。

「揚げるのに少し時間がかかりますけれど、
どうしますか」

私は、少しなら待ちます、と返事をした。
私の後ろに並んでいた人たちは、
次々とドーナツを受け取って列から外れてゆく。
おかしいな。
みんな砂糖のかかったドーナツを
買っているではないか。
私の前の人もあのドーナツを買っていたはずだ。
誰も違うドーナツを買ったりしていないように見えた。
私のドーナツはまだ。
どうしてだ?
出勤時間に間に合うのだろうか。
私は少しやきもきし始めた。

「お待たせしました」

ようやく店員が笑顔を添えて差し出してきたドーナツを見ると、私が思い描いていたものとは違っていた。

「これ、ですか?」

「そうですよ。だってフレンチクルーラーでしょ?」

私はみんなと同じ
プレーンなシュガードーナツを食べたかったのだ。
どうして砂糖がけのフレンチクルーラーに
なってしまったのだろう。
腑に落ちなかったけれど
職場に遅刻してはいけないので、
代金を払うと広い通りを小走りに渡った。
ここじゃない。
急ぐあまり、私は道を間違えたようだ。
ビルの横の細い脇道へ入り
近道をしようとした。
あれ、またしても違うところに出てしまった。
私は元の道へと戻り、今度は大通りに沿って走った。
ドーナツの砂糖がぱらぱら落ちて、
私のジャケットにかかった。
後でベタつくのだろうな、
でも今はそれどころじゃないや。
沢山の人が行き交う道を、
悪目立ちするくらいの勢いで走る。
なぜドーナツ屋の列に並んだりしたのだろう。
おかげでこんな緊急事態だ。
みんなと同じドーナツを買えなかったし。
だいいちフレンチクルーラーに
砂糖なんかいらない。
グレイズドなら好きだけれど。
いや、あれも砂糖水か。
そんなことはもうどうでもいい。
なぜこうなった。
仕事に間に合うのか。
駅はどこだ。
ここはどこだ?
焦るほどに見失う。
朝だというのに薄暗い街で、
指の跡が残るくらい
ぎぃっとドーナツを握りしめながら、
食べることも忘れて
私の行くべき場所を探していた。




出勤前にドーナツ屋の列に並ぶことだけは
やめておこう。
そう肝に銘じた。
寝汗をかいた布団の上で浅く呼吸をしながら、
今見た夢を思い返している。
悪い夢はバクに食べさせるといいと、
祖母から聞いたことがある。
バクはドーナツ型の夢を
両手で持ってむしゃむしゃ食べてくれると思う。
ぎしぎしと軋む体を伸ばして今日も仕事へ行く。
食卓の上のドーナツには
手を伸ばさないでおくのが賢明だ。


文章を書いて生きていきたい。 ✳︎ 紙媒体の本を創りたい。という目標があります。