見出し画像

頭の良さと性格の良さは、ある程度比例する。

私は高校時代、進学校に通っていた。どんな高校だったかというと、週に3回必ず下校前に小テストが行われ、合格点を取れないと次の日居残りをさせられるくらいには厳しい進学校だった。しかも居残りの際には、再試験の問題を全問正解しないと、帰らせてもらえないのだ。数学が苦手だった私は毎週居残りをさせられ、学年のなかで最後の1人になるまで追い詰められ、半泣きになりながら再試験を受けていた。

そんな軍隊のような高校に通ったせいで私は16歳にして鬱病になり、最悪な3年間を送った。だから私はあの高校を恨んでいる。15歳前後の子供を鬱病にまで追い詰めた学校だ。許せる訳がない。私はあの高校が嫌いだ。

だけど1点だけ、あの高校を嫌いになれない部分がある。

それは、"生徒たちの性格の良さ"だった。

3年間、あの高校で"いじめ"という言葉を聞いたことが1度も無かった。なぜなら、いじめなんて馬鹿らしいことを、頭の良い人たちはわざわざしないからである。そんな馬鹿みたいなことに時間をかけるよりは、自分の目の前の人を大切にして、嫌いな人や苦手な人には極力触れないように、当たり障りなくやり過ごすのが正解なのだと、みんなよく分かっていたのである。

いじめどころか、誰かの悪口を言っているところすら見たことがなかった。中学時代は、授業中にこそこそと手紙を回して誰かをからかったり、下品な発言で笑いを取ったりするような生徒がまわりにいたけれど、あの高校ではそんな生徒は1人もいなかった。男子生徒も女子生徒も、ちゃんと他人と自分の間にラインがあって、それを踏み越えないようにバランスを取りながら過ごしていた。それが進学校の生徒の性格の良さだと思った。

鬱病に悩まされ、学校を休みがちになった私であったが、友達だけは変わらずにそこにいてくれた。「おはよう」「最近はどう?」と何気なく聞いてくれて、でもズカズカと踏み込んでは来ない位置で優しく見守ってくれて、卒業する頃にはボロボロだった私のことを見放さずにいてくれた。そんな人たちと友達になれたのは、あの高校だったからこそだと思う。

もちろん、"頭の良い人=性格の良い人"という方程式が成り立たない時もある。自分の頭の良さをひけらかす人や、自分より下の人を見下すような人もいた。だけどそういう人たちにはどこか陰りがあるように見えた。明るい日向にいる人たちは基本的にみんな良い人で優しかった。

進学校で落ちこぼれて鬱病になった私からすると、「学力に背伸びしてでも進学校に行け!」と勧める気にはならないが、「自分のレベルに合うのなら進学校に行くといいよ」と勧めるかもしれない。

頭の良さと性格の良さは、ある程度比例するから。自分と同じくらいの学力の生徒とは、不思議と話すテンポも同じだし、言葉に棘が無くてみんな優しかった。まるで自分を鏡に写したように、自分と雰囲気が似ている人が多かった。

高校時代の友達とは、今でも定期的に会っている。思い出話に花を咲かせる時、私たちはよくこう言う。

「いやぁ、あの高校に戻りたいとは思わないし、選べるのならもっと楽しい高校に行くけどさぁ、でもあの高校、人だけは良かったよねぇ」と。

頑張っている人の近くには、頑張っている人が寄ってくる。あの高校の生徒たちの、真面目で努力家で、優しくて温かいところが、私の辛かった高校時代の唯一の良かった思い出である。

あんな高校、行かなければ良かった。

だけどあの高校に行ったから、あなたたちと出会えたんだね。だったらあの高校に行って良かったと、少しは思うことができるよ。


自分の書いた言葉を本にするのがずっと夢です。