五感のヌーディストビーチ

言葉で見栄を張れるとおもってるうちはだめなのよ。言葉でハッタリをかませてそれが通るとおもっているうちは甘いのよ。いいえ、局アナも新聞記者も政治家も学者も平気で自分を偽ることができますね。理由はそれらがポジショントークであり、党派的ステートメントだから。次に、学者が好きな観念的な話題においては、最初の一行さえ書いてしまえば、おのずと論理展開がはじまって結論までたどりつけてしまうという事情もある。たとえ心にもない結論になってしまったとしても文章は成立します、観念的な話題においては。


それに対して、ファッション、料理、音楽、絵画、デザイン、小説、映画のような自分の五感を込みで話すしかない対象においては、けっしてそうはゆきません。これらの対象について語るとき、たとえ人が自分を通に見せようとか、見栄を張ろうとか、そんな悪心を抱いたところで、それができるかもしれないのはせいぜい30秒150字までのこと。それを越えればもう騙せない。


よく見かける失敗例は、知識を収集して通人ぶろうという戦略です。なるほど、どんなジャンルにも知るべき教養の水準はあるもの。ただし、それはあたりまえのこと、大事なのはけっして教養じゃない。むしろその服を見て触って(他のアイテムと併せて)着てみて、その料理の匂いにそそられ口に運んで噛んで味わって飲み込んで、その曲を聴いて感じて、目を輝かせ、おもわず体が動きだすのを感じて、その絵を見て一枚の絵のなかを視線をさまよわせ、そのとき自分の五感がどう動いたのか。それがいちばん大事なこと。それを言葉にする。もしも言葉にするならばそこを言葉にするしかない。ここまで踏み込むと、人の感受性は丸裸同然です。つまり、ぼくを含めこの手の話題が好きな人たちは、喩えるならば五感のヌーディストビーチの人たちなんだ。言葉で見栄を張れるとおもってるうちはだめなのよ。


さて、この文章にどんなオチをつけましょう。先日ぼくがリデザインした黒の膝丈スモックコートを着たぼくを被写体とした写真をご披露しましょう。これはかなり詐欺的イケメン写真で、じっさいのぼく自身をほとんど反映していません。つまり写真ではかなり嘘がつける場合もあるというお話です。


詐欺画像としてのジュリアス・スージー



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