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ラン・安珍・ラン

 俺は走っていた。
 なぜ走っているのか。修行でもないのに。
 心臓が狂ったように脈打っている。肺が割れそうに膨らんでいる。全身の筋肉が悲鳴を上げている。血管と言う血管が酸素を必要としている。喉が渇いた。舌が顎に張り付いている。目が痛い。汗が飛び散る。鼻水が出る。
 俺は走っている。
 女に追われている。
 名を清姫と言う。
 俺は清姫から走って逃げている。
 高下駄はとうに脱ぎ捨てて剥きだしの足に小石が刺さる。爪は剥がれている。痛みはとうの昔に感じなくなっている。いまにも絡まりそうな足をどうにか前に送る。南蛮由来の走り方で手足を動かして速度を稼いではいるが体力が保持ちそうにない。
 ちらと振り向く。清姫は難波走りで迫ってくる。先に体力を尽かせてしまえば追いつかれる。そこまで考慮しているのか。いや、無知な娘だ。そんな訳がない。
 前を向いて走り続ける。美しくはある。そう、美しくはある。
 女は俺が脱ぎ捨てた白装束を羽織っている。汗を含んで重くなっているだろうに。再びちらと振り向く。俺の白装束を食み、汗を啜っている。
 気味の悪い女だ。
 俺が脱いだ下駄を手に持ち、俺が投げ捨てた頭巾と法螺貝を結び付けた螺緒を胸に巻いていた。首に下げた最多角念珠が後ろにたなびいている。俺の死に装束を拾い集めたその女は、だが目を燃え滾るように輝かせて迫ってきている。
 何故そうまでして俺を追うのか。
 確かに俺は「また来る」と言ったのかも知れない。言ったつもりはない。だがそう言ったと清姫は言う。嘘だ。俺はそんな事を言わない。俺は修行中の身だ。彼女の勘違いだ。だが彼女自身は俺が言ったと信じている。冗談じゃあない。彼女の妄想で俺はここまで追われて褌一枚の姿になって走っている。
 全てあの女が悪い。
 俺がこんな目に合っているのもあの女の所為だ。
 褌の紐が緩む。ついに褌まで脱げそうだ。だがそれをあの女は拾うだろう。その分すこしは時間が稼げるかも知れない。一歩でも遠くへ行きたい。
 だが褌が脱げればもうそれが最期だ。時間を稼げるものは俺に何もない。用を足すこと以外に使えない陰茎がむしろ邪魔になるだろう。千切って捨てればまたあの女はそれを拾うだろう。だがその時に俺は生きていまい。いや、いっそそこで死ぬべきかも知れない。
 不能者の陰茎などを持って何をしようと言うのだ。いや、そんなものは拾ったあの女にしか分からない。実際にあの女だって何かを考えて拾う訳ではあるまい。だいたい不能者の陰茎だなんて知りもしないはずだ。そうだ、俺はそのことをあの女に告げてはいない。だから二度と会う事は無いと思ったのだ。そんなだから修行の道に入ったのだと思われたくない。おまえに春情を抱かなかったのは修行の身だからであって不能者だからじゃない。俺はおまえの事なぞ知らない。おまえは誰だ。
 俺は。俺は、誰だ?あぁ、俺は安珍だ。山伏の修行に身を置く男だ。
 金剛棒で打ち据えた時に見た清姫の表情が脳裏に浮かぶ。汗で額に張り付いた前髪。上気した赤い頬。まるで湯の様に熱い吐息。どろりとした目は潤光を放ち、会陰から迸ったものが太ももを濡らしていた。
 あの瞬間に俺は稲妻に打たれたような感覚に陥った。ここで白装束を脱ぎおまえと暮らす事も考えた。そうだ。打ち据えたおまえの白い肌に浮かぶ青い痣を撫でたい。湯に浸かり苦悶の表情を浮かべるおまえを見たい。そう思った。
 おまえの所為だ。全ておまえの所為だ。おまえが悪い。おまえが俺にそうさせたのだ。俺がした事はない。おまえがさせた。おまえが修行として俺におまえを打たせたのだ。うけたもう、と叫びながら俺は清姫を打ち据えた。その度に清姫は身を捩って悦んだ。
 そうだ。おまえは悦んでいただろう。それなのに何故だ。
 俺は愉しくなんかなかった。厭だった。何度も何度も打ち据えさせられた。それなのにあの女は何度も頼み、だから俺は何度も打ち据えた。女は何度も悦んだ。気を遣り、目を覚まし、そしてまた打ってくださいと頼んだのだ。あの目はそう言っている目だった。
 俺は手が痺れるまであの女を打った。
 満足した俺はその晩よく眠った。
 修行に入って初めてのことだ。
 ちらと振り向く。女が先刻より近づいて見える。
 呼吸の音が聞こえる気がする。
 悲鳴の様な音を立てて俺の肺が収縮する。清姫の呼吸も悲鳴に似た音を立てているのだろうか。そんなに頑丈な身体でも無いはずだが大丈夫だろうか。俺が打った部分は痛んでないだろうか。熱を持っているだろう。早く冷やさねばなるまい。美しい身体が駄目になってしまう。あの白い肌に黒い跡が遺るのを想像すると気が狂いそうになる。
 あの肌に再び触れられるのならここで足を止めてしまうのも悪くない。何処ぞに棄てた金剛棒の代わりに手頃な木の枝で以て打ち据えたい。あの肉を叩く感触を手にしたい。背骨を蟲が駆け上がるようなあの快感に身を委ねたい。
 いや、違う。俺は修行をしている身だ。あの女は魍魎の類だ。俺をどうにか狂わせる為に現れたのだ。俺が堕落しかけたのはあの女の所為だ。やはりあの女が悪いのだ。俺は立派な修行を積んだ山伏としていくつもの山々を駆け巡るのだ。千日回峰行を終えた阿闍梨なんて足元にも及ばぬ程の山伏になるのだ。いや、そうであるべきだ。俺はそういう人間なのだ。俺は強く俺は美しい。俺は完璧な山伏なのだ。一点の曇りや穢れもない。その証拠にあの女を、あの魍魎を打ち据えて逃げている。そうだ。俺は完璧な山伏なのだ。だからこうして走っているのだ。
 見た事か。前方に山寺が見える。あそこまで逃げ切ればもう大丈夫だろう。あの魍魎は入ってこられまい。あの様を見ろ。もはや吐く息に血が混じり赤くなっているではないか。肌は乾燥でひび割れて鱗の様になっている。もう限界だろう。耳元まで裂けた口から見える舌も割れそうではないか。
 そうだ。俺は正しい。正しいからこそ救われる。正しいからだ。
 愚かな魍魎よ、識るが良い。おまえは邪悪なのだ。
 俺が入ったら坊主どもに頼んで鐘を落としてもらおう。
 これで俺が証明されるのだ。



 寺の和尚は一息に話すと、すっかり冷めた茶をひとくち飲んだ。
「ま、こんなところですわ」
 ひとを小馬鹿にしたような笑みを頬に浮かべている。
「まるで見てきたかの様に話しますな」
「それが仕事ですからの、説教とはそういうものですじゃ」
 笑ってはいるが、薄い目の奥に潜む鋭い光は、やはりわたしを馬鹿にしている。
「それで、最後は」
「聞いた事が、ありますじゃろ」
「本当に女が龍になり火を噴いて鐘ごとその山伏を焼き殺したと?」
「はは、火を噴く蛇なんてのは、おりゃしませんて」
「しかし……」
「お主も、誰かの為に、走ってみれば良かろうて」
「……」
「まぁ、そんな根性がありそうにも見えぬ、綺麗な手足をしておる」
 咄嗟に手足を隠そうとしたが遅かった。
「愧じるくらいなら、少し修行でもしていくか」
「いえ、結構」
「ほほ、そうじゃろう」
 和尚は煙管に丸めた葉を詰めた。表面には赤い髭が生えている。火鉢に寄せて火をつけると、少し肺に溜め込んでからゆっくりと煙を吐いた。独特の臭いが広がる。
「ま、往くも修羅道。逝くも修羅道。どの道、厳しかろうな」
「……は?」
「いやいや、老いぼれの独り言よ」
 和尚の目の先には真新しい無縁仏が並んでいた。
「あれは?」
「さて、誰かのう」
「清姫と安珍、その二人では?」
「ならば、無縁仏でもあるまいて」
 相変わらずひとを馬鹿にした笑みを浮かべたまま、和尚は煙を吐いた。
「……お話をお聞かせ下さり、ありがとうございました」
「ほほ、気にする事でもない。いつでも修行においでなさい」
 今度は手足を隠す必要が無かった。
 慣れない山歩きで生傷だらけになった足で、よく磨かれた寺の廊下を歩いた。
「まだ、足りぬか」
「は?」
「追うのじゃろ。儂の話を、全く信じとらん目をしておる」
「えぇ、そうですよ」
「若いの、今からでは、走ったところで、もう間に合わんよ」
「さあ、それはどうでしょう。動かないのであれば、いつかは」
「はは、そうか」
 和尚は欄干に煙管を叩きつけて中の灰を落とした。その音はとても良い音に聞こえた。わたしも少し、煙に酔ったのかも知れない。

 山寺を出た。蝉が競い合う様に啼いている。
あの二人はどこに消えたのか。調べて来いとの密命を受けて歩き回っているが、正直なところもう結論は見えているし、そうなると疲れたと言う思いが足を引っ張る。
 振り返ると山寺は思った以上に大きかった。
帰りには、ここで修行するのも悪くないと思った。

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