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「体罰」という人類の叡智

「イチローも警鐘を鳴らした…「大人に叱ってもらえない」Z世代が直面する「やさしさという残酷」」
(現代ビジネス/御田寺圭)


 引用した記事だが、少々「甘い」部分が見受けられるけれども、概ね良い記事だと思う。
 まぁ、私の様に匿名で暇潰しと称して好き勝手に書くのと違い、書く事を生業とする立場からすれば、事実を事実として発信するだけでも大バッシングが始まりかねないご時世である(※補足①)。「甘く」なるのは致し方無しと言えよう。
 本投稿は、匿名で暇潰しと称して好き勝手に書いている私が、その「甘さ」を排除し、事実を事実として詳らかにしようというものである。


 私からすれば、イチロー氏の様な方にはもっと踏み込んで言及して欲しい気持ちはあるが、それでも氏が述べた見解は有用である。
 抜粋してみよう。

 自分で自分に厳しくなるしか無い。
 昔は指導者が厳しくしてくれていた。
 今はそれで社会的に批判を受けてしまう。
 それでも厳しく指導出来る人は極小数。
 厳しさを捨てた方が指導者としては安全。
 厳しい環境に身を置く場合とそうで無い場合、前者の方が明らかに能力向上を図れる。
 自分で自分を厳しくするのは困難。
 一部の「それ」を出来る者だけが実力を伸ばし、「それ」が出来ない者は置いていかれるのみ。

出典:引用した記事から筆者なりに解釈

 置いていかれた事に気付き、「何で厳しく指導してくれなかった!」などと言ってももう遅い。
 親が出張ってきて、「カネを払っている以上は置いていかれない様にするのが仕事だろう!」などと喚いても無駄。
 「必要な事は伝えた。自らの努力が必要な事も伝えた。どの様な努力が必要かも伝えた。望む者には厳しい指導を施す用意がある事も伝えた(これは用意の無い人もいるだろうが)。でも、本人の自主性を尊重しろというのが昨今の教育における命題なので、こちらからは強要出来ません。」
 「お子さんの意見は聞きましたし、お子さんに計画を立てさせましたし、人に教えたくなる(実践したくなる)知識(刺激)も提供しましたし、やりたいことや自分のことは自分でさせる様にしましたし、個性を尊重して当たってきました。今はこの様に指導しなければ職を失いかねません。ですので、結果については自己責任となります。」
 この様に言われるだけである。

 「そうしながら結果を出すのがお前の仕事だ!」と叫んだところで、「では、今回はお子さんの立てられた計画が間違っていたという結果が得られた訳ですから、それを踏まえて次に生かされてはどうですか。」と返されれる。
 「そんな事は言っていない! 今回で結果を出さなければ意味が無い!」と食い下がっても、「ですが、それだと厳しく指導するしかありません。」と突っぱねられる。
 「厳しい指導無くして結果を出すのが教育者の責務!」と逆ギレした日には、「であれば他を当たって下さい」と捨てられる。

 長々と書いたが、能力向上に当たって血の滲むような努力は不可欠である。自分で「血を滲ませる」か、他人に「血を滲まされる」か、何方を選ぶかに過ぎない。
 ところが、昨今は後者に対する風当たりが強い。いや、「風当たり」などという島国的な話では無い。「攻撃」と表すべき苛烈さである。
 攻撃するのが左翼。攻撃を受けるのは体罰に代表される正しき指導である。


 日本において「体罰防止法」なる悪法が布かれたのは2020年4月1日からであるが、「セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン」なる極悪集団は、以下の様に騙っている。(“語る”の誤変換では無く、事実に即してこの様に書いた。)

 この法改正は体罰をした人を罰することではなく、体罰によらない子育てを社会全体で推進することを目的としたものです。

出典:セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンHPより

 「体罰によらない子育てを社会全体で推進」などと、一体何処の何奴が頼んだというのか。
 そんな事を言う親が居たら、其奴は親失格だから相手にしなくて良い。
 それを言ったのが子供だとすれば、「甘ったれるんじゃあ無い!」と一喝せねばならない。
 体罰と暴力は全くの別物だが、これらを同一視させんとするプロパガンダが展開されており、引き合いに出したセーブなんたらジャパンもその一派である。

 第一に、子供はそもそも精神的に未熟であり、経験も少ない。大人よりも子供の方が自制心を欠くのはそういう事である。

 今ここで頑張らなければならないのに、精神が未熟だから我慢が出来ないし、頑張らなければならない理由も理解していない。だから怠ける。
 精神が未熟であるが故につい嘘を吐いてしまう。それを繰り返すと嘘が常態化し、いずれ大きな間違いに繋がるものであるが、経験の無さ故にそうと気付かない。
 努力して得るよりも、盗む方が一見すると簡単である。その様な行為に走るのは精神が未熟だからであり、罰せられた経験が浅いからに他ならない。
 困っている他人を助けるに当たり損得勘定を持ち出す。では自分が助けて欲しい時に、周囲が皆損得でしか動いてくれなければどうするのか。
 好きなものだけを食べ、嫌いなものを残す。“食べられる事“への感謝に欠く行為もまた、精神と経験の不足故である。

 子供は先ず第一に、社会性を身につけねばならない。その為に必要な一要素として、道徳を例に取ってみよう。
 道徳とは、時に極めて非論理的である。
 目の前に1億円入りのキャリーケースがあり、盗んでも絶対にバレない状況だったとする。ここで“敢えて”盗まないという選択をするのは論理では無い。
 道徳とは、自由で民主的な資本主義社会を構築する上で、最も重要な要素である。

 子供に道徳を与える行為。これが躾けである。
 子供というのは言語能力が未熟であり、経験も少ない。懇切丁寧に説明しても理解出来ない場合がある。理解せず、道徳に反した行動をとる事もある。
 ここで必要なのが、適切な強度の罰である。
 優しく叱るだけで良いのか。厳しく叱り付けねばならんのか。それこそ怒鳴りつける必要があるのか。或いは、夕食に好きなものを出す予定だったが、献立を変えるという方法が良いのか。軽い平手打ちくらいは必要なのか。それとも、父親が拳骨を叩き込み、母親が落ち着いた頃合いを見計らって言い聞かせるという手順が必要なのか。
 セーブなんとかいう極悪集団のHPでは、次の様に”騙って“いる。

 しつけとは、子どもの人格や才能等を伸ばし、社会において自律した生活を送れるようにすること等の目的から、子どもをサポートして社会性を育む行為です。
 子どもと向き合い、社会生活をしていく上で必要なことを、しっかりと教え伝えていくことも必要です。子どもにしつけをするときには、子どもの発達しつつある能力に合う方法で行う必要があり、体罰でおさえるしつけは、この目的に見合うものではなく、許されません。
 どうすればよいのかを言葉や見本を示す等の本人が理解できる方法で伝える必要があります。

出典:セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンHPより

 「体罰でおさえつけるしつけは目的に見合わない」と“騙って”いるが、その根拠は何なのか。
 言葉や見本、その他諸々の(体罰を除く)手法で理解出来るとすれば、その子は既にそれ相応の精神性を身に付けており、与えられた情報から答えを想像出来得る経験をしているからに他ならない。
 だが、躾けというのはそもそも、そういった精神性を育み、経験する場を与える過程を言うのである。
 同じ人間でも社会人とただの人間とは違う。子供というのは最初、ただ単に人間というだけに過ぎない。単なる人間というのを極論すれば、それは原始人である。原始人が理解するのは言葉や論理よりも先ず真っ先に、身体に対する苦痛である。

 人は、長い時間を掛けて歴史を紡ぎ文化を育んできた。
 良き歴史、良き文化を築いてきた社会には道徳が浸透している。そして、その道徳を時代に継承する重要性を大勢が理解している。
 体罰とは、そういった「身に付けねばならないもの」を時代に継承する上で培われてきた、極めて論理的且つ文明的な教育方法である。


 体罰とは、この世で最も文明的且つ倫理的な教育方法であり、無謬の愛をもって行使されるものである。
 スポーツの世界で言うと、この様になる。

〜CASE.1〜 体罰有り

 怠けると監督にブッ飛ばされるので、軽々に怠けられない。
 そうすると、見えないところで上手く手を抜いたとしても、相応の能力向上が図られる。
 プロにはなれなかったとしても、そういった環境に身を置いたという経験はその子にとって大きな自信となる筈であり、その中で自分よりも努力してプロになった同期を目の当たりにする事で、努力無くして成功は無いという現実をも理解する事が出来る。

〜CASE.2〜 体罰無し

 怠け放題である。
 怠けるとどうなるか、経験の未熟な子供にはどの様な説明を受けても理解出来ず、大した努力で無くとも「大変な努力をした」気になったり、最悪の場合ただ怠け続ける。
 得られるのは自信では無く勘違いである。
 自分で自分を追い込める同期が成功を収めても、言い訳をし、怠け仲間と陰口を叩くのみ。
 図体だけデカくなったガキの完成である。

 後者の「図体だけデカくなったガキ」に待っているのは不幸である。
 いざ社会に出てみれば、自分を指導してくれる者はいない。一応、最近の企業は「新入社員教育を充実させている」と言うが、それは嘘である。
 「充実させている」のでは無い。「充実させられている」だけなのだから嘘と解釈すべきで、教科書的な事は教えてくれても、怠けている事に対して叱咤してくれる事など有り得ない。
 偶に教育好きの熱い人も居るが、直ぐにパワハラ呼ばわりされるので諦め気味である。

 結果、価値のある仕事が出来ず評価されない。給料が上がらない。閑職に飛ばされる。最悪クビになる。
 文句を言ったところでどうにもならない。負け犬の遠吠えである。
 社会人になって、「図体だけデカくなったガキ」と根気強く付き合ってくれる人は希少であり、出会えたらそれは奇跡の様なものである。
 最近はバカどもが奇跡を常態化せよと騒ぎ、左翼政府が企業に奇跡を強いる為の規制を布き(働き方改革など)、左翼メディアがもっとやれと煽るが、その様な状況が浸透すればする程に社会的コストが増大し、生産性が下がる。
 要するに、今の日本である。

 極少数が体罰をも辞さない教育を受けられず、「図体だけデカくなったガキ」と化す社会において、不幸になるのは其奴のみである。
 しかし、体罰を法的に禁じられた社会において、「図体だけデカくなったガキ」は極少数では済まない。其処彼処に溢れる。
 そうするとどうなるか、以下に一例を示す。
 「図体だけデカくなったガキ」が選挙権を持つ。其奴らが「図体だけデカくなったガキを優遇する詐欺」をやらかそうとする左翼、或いは日本を破壊せんとする反日主義者に投票する。
 結果、詐欺師や反日が当選する。
 我々日本国民は、体罰を守らなければならない。


※補足①:事実なのに言ったらバッシングされる

 以下にその一例を挙げよう。
1.気候変動人為説は嘘
2.LGBTは精神疾患
3.北方領土返還に必要なのは武力
4.拉致被害者返還に必要なのも武力
5.中絶は殺人
6.占領されたのはイスラエルの方
7.イスラム教はカルト宗教
8.昆虫食推進は一般大衆への食事制限
9.安楽死は自殺幇助
 そして、本投稿でも触れているのがコレ。
10.体罰は暴力では無い

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