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介護労働Ⅲ-2.資本主義と介護労働-魂の包摂


5.労働者の資本家気分・コスパ思考

cost performance

① コスパ思考

 資本主義社会で生きる人々は「使用価値」を蔑ろにする「価値の論理」を内面化しています。いわゆるコスパ[1]思考です。

 斎藤幸平さんによれば、このコスパ思考とは、「あらゆることのリターンを見積もり、それに合わせて効率化を行っていく態度。」としています。

 また、同氏はコスパ思考の行きつく社会は次のようなものになると指摘しています。

「コスパを徹底し、時間を節約しても人生は豊かになりません。むしろ、ますます余暇が減っていき、家族や隣人とのコミュニケーションの余裕もなくなっていく。そして、少しのムダも許容できないイライラした人間ばかりの社会になっていったのです。」

参照:斎藤幸平 2023「ゼロからの『資本論』NHK出版新書」P52,53,54

 まるで、『モモ』(ミヒャエル・エンデ著)に出てくる灰色の男たちに時間を奪われた人々のようですね。
 人間関係にコスパ思考を持ち込めば殺伐とした関係性しか築けません。介護現場でもコスパ思考を基にした効率化は当事者(お年寄り)との相互関係である介護をないがしろにし、おとしめていく可能性があります。

② コスパ思考と手抜き

 資本主義の論理であるコスパ思考を内面化した介護労働者は効率化を追い求めるようになり、面倒な相互作用としての介護を避けるようになってしまいます。コスパ思考により当事者の(入居者)訴えへの応答をしなくなります。
 なぜなら、基本的に労働者は時給にしても月給にしても、貰える給与(リターン)は一定です。頻回に当事者の面倒な訴えに応答しても給与は変わりません。ですから、コスパ的には当事者の訴えに応答しない方が合理的ということになります。
 さらに、介護施設ですと集団で介護しているので「自分がやらなくても誰かがやるだろう」とコスパ思考のできる者は上手に手を抜くことも可能です。
 資本主義社会に適合したコスパ思考に優れた労働者は手を抜いて楽ができますが、コスパ思考のできない良心的で実直な労働者は苦労します。そして、このまともな労働者は要領が悪い、仕事が遅いと言われさげすまれていく、そんな介護施設もあります。

③ コスパ思考と経営者マインド

 資本主義体制の中では労働者自身も資本家マインド・経営者マインドに染まってしまい、コスパ思考を徹底していきます。

 経営側も、介護労働者に経営者視点を持つことを推奨し、経営者の立場に立って効率化・合理化を目指して行動することを期待し「もっと経営のことを考えろ」と職員教育している介護事業所も多いのです。
 このような事業所では介護労働者が当事者目線(お年寄りの視線)ではなく、経営者目線に立って、オムツやディスポの手袋、入居者用ティシュ等々の経費節約を自ら進んで発案し、実行していきます。
 その結果、当事者は貧相な生活を強いられていくことになるのです。
 さらに、介護業務で生産性を上げるために、当事者の訴えなどを無視し、日課や週課を中心とした生産計画とおりに業務を遂行しようとします。
 これを業務計画至上主義と私は呼んでいますが、この業務計画至上主義には資本の論理が貫徹しているのです。

④ 名ばかり管理職

 さらに、資本家マインドが浸透した結果、介護リーダーや介護主任たちは、自分は管理者だから残業とか休日出勤等は関係ない。
 管理職だから残業手当がなくても当たり前と勘違いしてしまっていることも多いのです。

 しかし、彼ら・彼女らは労働基準法でいう管理監督者ではないのです。
 彼らはかつて話題になった「名ばかり管理職」なのですが、彼らは資本家、経営者のメンタリティ(mentality:心的状態)をすっかり内面化してしまっています。

 「名ばかり管理職」についての判例は以下のサイトがとても参考になります。

https://legalet.net/management-position-in-name-only-judicial-precedent/

6.包摂とは

① 包摂の深化

 斎藤幸平さんは、白井聡(政治学者・京都精華大学准教授)さんの説く魂の包摂ほうせつ(subsumption)について次のように紹介しています。

「“資本家にとって都合のいい”メンタリティを、労働者が自ら内面化することで、資本の論理に取り込まれていく。政治学者の白井聡は、これを「魂の包摂」と呼んでいます。」

引用:斎藤幸平 2023「ゼロからの『資本論』NHK出版新書」P80

② 形式的包摂と実質的包摂 

 包摂とは労働者が資本制生産過程、資本の論理に取り込まれることですが、包摂には「形式的包摂」「実質的包摂」があるといいます。

 「形式的包摂」とは熟練労働者が商品生産、サービス生産することで労働が資本制の中に取り込まれることですが、生産方法(技術)などは、ある程度、熟練労働者に任されています。

 「実質的包摂」とはこの生産方法、技術までもが資本の指導、指示に基づいて行われ、労働過程までもが呑み込まれるのです。

 単純化すれば、熟練工による陶芸品の生産が「形式的包摂」で、工場での単純労働が「実質的包摂」ということです。

(参照:白井聡2020年『武器としての「資本論」』東京経済新報社p62~64)

 包摂は「形式的包摂」レベルから「実質的包摂」レベルへと深化していくものですが、介護労働は原理的には熟練労働でなければできないでしょう。
 よって介護労働は基本的には「形式的包摂」のレベルに留まっているはずです。
 しかし、最近のAI、ICT化、マニュアルの徹底、業務の標準化、分業制等が深化、浸透していけば「実質的包摂」のレベルに深化して行く可能性があります

③ 魂の包摂 

 さらに、先に紹介した「コスパ思考」の浸透や「名ばかり管理職」に見られるように、価値観、感性までもが、もうすでに資本に呑み込まれ「魂の包摂」にまで深化している側面もあります。
 この「魂の包摂」とは、労働や生産方法(技術)のみならす、私たちの価値観や感性までも、資本の論理によって完全にとらわれてしまっているという事態を指します。これが、白井聡さんの説く「魂の包摂」です。

 この「魂の包摂」は、普通の労働者には理解しがたい概念かも知れません。

 「人間は誰でもどこかの会社で働かなければならないのは当然だし、会社の指示、マニュアルとおりに働くのも当然だ。」
 「ただ、社会のため、会社のため、消費者・入居者のために、経営という観点も理解しながら、施設長になったつもりで、一生懸命に働いていて何が悪いのか。何が問題なのか。」
などと思う人が多いのではないでしょうか。

 現代の資本主義社会での良質な労働者は、社会や会社、消費者・入居者のためを思い、例え安い給料でも、厳しい労働環境でも奉仕の精神で自主的に働く者のことだと信じ込んでいます。
 この夢(悪夢?)から目覚めることができない者は、その夢の中でしか生きられないし、生きる苦しさ、むなしさの理由もわからないでしょう。まるで映画のマトリックス(The Matrix、1999年公開のアメリカのSFアクション映画)の世界のようです。

④ 自己啓発と魂の包摂

 斉藤幸平さんは、今はやりの、「自分への投資」、「自己啓発」も、この「魂の包摂」が浸透している証左だとしています。

 『新自由主義のもとで、「自己責任」の言説を受け入れ、意味もないオンラインサロンに高いお金をつぎ込んで、自分に「投資」を行い、「人材」としての市場価値を高めようとする。世間で金太郎あめのような内容のないビジネス本が売れているのは、資本による「人間の魂、全存在の包摂」が完成してしまっているからなのである。』

引用:斉藤幸平2022.06.19 「批判的破壊力」を持った「使える資本論」再びhttps://toyokeizai.net/articles/-/355934?page=3 

 自らの教養を楽しみながら高めるということと、経営、仕事のスキルを高め、自分の商品価値を高めようとするのは全く違います。
 意識の高い労働者は自分の商品価値を高めるために寸暇すんかを惜しんで自己啓発本を読みあさったり、高額な自己啓発セミナーを受講したりしているのですが、自己啓発はエンドレス(endless)でキリがありません。お金と時間が奪われていくばかりです。

 同じお勉強でもベクトルが自分に向いているのか、それとも労働市場に向いているのかでは全く違うと思います。もし労働市場に向いているとしたらそれは「魂の包摂」の証左、証拠と言えそうです。

7.介護の魅力発信と「魂の包摂」

 白井聡さんは「魂の包摂」が一種の倒錯にまで発展した事例を紹介しています。

① 居酒屋甲子園

 2014年4月14日に放映されたテレビ番組(NHKクローズアップ現代)で取上げられた「居酒屋甲子園」です。

 この番組では、低賃金かつ不安定な雇用が常態化している居酒屋の労働者たちが「夢はひとりで見るもんなんかじゃなくて、みんなで見るもんなんだ!人は夢を持つから、熱く、熱く、生きられるんだ!」と感極まりながら絶叫し、それを約5千人の聴衆(居酒屋の店員)が涙ぐんだり笑顔を浮かべたりと共感的な反応を見せる様子が映し出されていたとのことです。

 このようなイベントは、まさしく「やりがい」を宣伝することで労働者に低賃金を甘受させる装置となっています。まさしく、「やりがい」搾取です
(参照:白井聡2023「マルクス 生を呑み込む資本主義」講談社現代新書p116,117)

② 介護のしごと魅力発信事業

 介護の世界でも国を挙げて「介護のしごと魅力発信事業」が行われています。
(参照:厚生労働省「令和3年度介護のしごと魅力発信等事業について」)

 ここでは、「感動」「笑顔」「仲間」「感謝」「希望」「自分らしく」「思いやり」「優しさ」「いのち」「人生」「喜び」等々の言葉がちりばめられた言説、動画等の発表の舞台が準備されています。

 これは、国家及び介護業界団体が介護労働者の厳しい現状を真正面から受止めず、「やりがい搾取系イベント・事業」で誤魔化そうとしており、これに介護労働者も積極的に参加しようとしているということだと思います。

 まさしく、「魂の包摂」が介護労働でも起こっているのです。

 そもそも、介護労働者は自らを労働者だとは認識していません。

 労働基準法、労働安全衛生法、労働契約法などの労働関連法規では、法律の適用対象である者、法が保護する者を「労働者」としています。「労働者」とは法律で保護される権利の主体なのです。

 しかし、介護の現場では「労働者」という言葉は馴染みがない。職員[2]や社員、従業員と呼ばれているのが普通です。

 職員とは任せられた職務を遂行する者、「職」に焦点を当てた呼称です。ここに、介護事業での職=資格にこだわる心理が反映されているのかも知れません。

 また、社員とは会社の構成員というイメージです。
 従業員は業務に従事する者というニュアンスです。

 つまり、介護事業においても語感(言葉が与える印象)までもが資本に包摂されており、資本に好都合な言葉が選択されているのです。

 いずれにしても、介護現場で働く者たちは、自らを労働者として認識できず、職員、社員としてしか理解できていないのです。そこには雇用関係、労使関係、階級性への社会的視点は全くありません

 このように、労働関連法規に守られるべき者たちを労働者と呼ばずに、職員、社員と呼んでしまうところから、もう既に魂の包摂、感性の包摂が始まっているのかもしれません。


[1] コスパとはコストパフォーマンス(cost performance)の略語。 費用対効果。 支払った費用(コスト)と、それにより得られた能力(パフォーマンス)を比較したもので、低い費用で高い効果が得られれば「コスパが高い」と表現される。

[2] 職員とは、一般に、企業や官公庁などの組織)において、何らかの職に属する者をいう。

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