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パノプティコン(panopticon)-介護施設の課題Ⅰ‐1


(1)パノプティコンとしての介護施設

① パノプティコンとは

 介護施設を考える際に外せない概念が 、パノプティコン(panopticon;一望監視施設)です。介護業界でパノプティコンという概念がもっと広く認知されれば良いと思っています。

 このパノプティコンとは、イギリスの思想家ジェレミ・ベンサム[1](Jeremy Bentham)が考案したもので、監視塔から監獄のすべての部分が見えるように造られた円形の刑務所施設のことです。

Panopticon

 ミシェル・フーコー(Michel Foucault)[2]が『監獄の誕生 監視と処罰』(田村俶訳、新潮社、1977年)において、近代管理システムの起源として紹介したことで知られています。

 パノプティコンの特徴は、獄房に収監された囚人がいつ看守に監視されているかいないのか分からないままに、監視されているという構造になっていることです。
 國分功一郎(哲学者)さんはパノプティコンの基本的な機能について次のように説明しています。

「君主型権力のような暴力ではなく、監視という見る行為によって人の行為を支配する権力の具体的な装置である。」

引用:國分功一郎 2013 「ドゥルーズの哲学原理」岩波現代全書 p188

 このパノプティコン的構造は介護施設も見られます。
 パノプティコンとしての介護施設では次のようなことが 生起しています。

  1.   介護される者(お年寄り)は介護する者(職員)から自身の生活を覗かれ、介入され続ける。

  2.   介護する者(職員)は介護される者(当事者;お年寄り)から自身の生活を覗かれることなく、私生活に介入されることがない。

  3.  介護される者(お年寄り)はこの施設からいつになったら出られるかわからない(刑期が不明)。

 つまり、介護される者は、介護する者に自身の生活歴や病歴、人間関係や経済状況から、排泄の状況にいたるまでのさまざまな事柄を細々とアセスメントされ、モニター・監視されながら私生活に介入され続けていく訳です。

 しかし、介護される者は、介護する者の一部分(名前、性別、職種、肩書など)のみしか知りません。

 このように、介護施設はパノプティコン的なのです。

 特にユニットケアは建築構造的にも、このパノプティコンと酷似しています。中央(共同生活室)から各室、各所へと監視の視線を容易に向けることができます。

『監獄の誕生 監視と処罰』

② 「見守り」と監視

 介護の世界では、監視を「見守り」といいます。

 監視は当事者(入居者)の安全のため、入居者を守るために行っているので、監視ではないと思うかもしれません。
 しかし、見守りは、常時目を離さず、危険がないように気を配り高齢者を保護することを意味します。ここにもパターナリズム(温情的庇護主義)の臭いがするのですが・・・

 見守りとは「パターナリティックな監視」、「優しい気持ちで行う監視」に他ならないように思うのです。

(2)規律訓練(discipline)と生政治(biopolitics)

① 規律訓練とは 

 フーコーはこのパノプティコンで行われている管理技術を「規律訓練」(discipline)と名付けました。
 この規律訓練は暴力ではなく、監視と規範化によって身体を取り締まる技術、人間を従属、隷属させる技術です。

 フーコーはこの規律的訓練が18世紀末頃から、監獄のみならず工場や学校、病院などで採用されたとしています。
 学校、病院などでは監視すること、他者を見るという行為によって人の行為を支配するようになってきたのです。
(参照:國分功一郎2013「ドゥルーズの哲学原理」岩波現代全書p188)

② 介護施設における「規律訓練」と「生政治」

 パノプティコン的構造を持つ介護施設でもこの規律訓練(管理)が行われています。

 介護施設では入居者は監視(見守り)されつつ、決められた日課(時間規則)によって生活することを強いられています。
 もちろん、施設は集団生活の場ですので、時間規制などは仕方が無いかも知れませんが、意識するとしないとは別に、この規律的訓練により、管理する者と管理される者という権力関係が生じます。
 介護施設では介護本来の関係の非対称性に加えて、規律訓練的権力関係が重ねられ、強固な権力関係が発生しているのではないでしょうか。

 酷い介護施設においては、この規律訓練は、当事者(入居者)の行為のみならず、身体にまで働きかけ管理します。

 不適切な身体的拘束のみならず、トイレに行きたいと訴えても行かせず、ベッドに横になりたいと訴えても寝かせず、排泄介助の回数を減少させるための水分制限、移乗介助の負担軽減のための摂食量制限(痩せさせる・太らせない)などなど、目に余る惨状を呈している場合もあるのです。 
※ このようなabuse(虐待)が虐待にエスカレーションしていくのです。

 このような事態は当事者(入居者)が囚人と違い自分で行為できない人々だからです。入居者の行為を管理できないので直接的に身体に働きかけて管理するのです。
 排泄、睡眠、水分摂取、栄養摂取といった生理にまで働きかけ管理する。もちろん介護する者たちの「やりやすさ」に向けて働きかけ、管理する[3]のです。

 こうなれば、もはや規律訓練というより、個人の生を直接的に管理する生政治[4]というものになっているのかもしれません。
 コロナ禍の介護施設では、外出禁止、面接禁止、ワクチン強制的接種など、この生政治が協力に推し進められました。

③ パノプティコンを監視する

 多くの介護施設では、まさしくパノプティコン(監獄)のように、職員は監視する者、管理する者、権力者として当事者(入居者)の前に君臨している場合もがあるのだということを、市民はもっと知っておくべきでしょう。入居者を監視している施設・パノプティコンを市民が監視する必要があると思います。

 地域社会のコモンとしての介護施設は、その運営に家族や市民も何らかの形で関わることが大切です。

 特に社会福祉法人等の準公的な組織ならばなおさらでしょう。
 現行の評議委員会制度などを、もっと実効あるものに変革していかなければなりません。
 介護サービスは市民のコモン[5]として育てていく必要があるのです。

(3)ICTで完成するパノプティコン

① 監視されていることを知らずに監視される

 このように、介護施設の基本構造は見る事、監視する事を中心に構成されています。
 このため、職員にも見る能力、監視する能力、見守る能力が求められ、訓練され、見ることの専門家として整形[6]されていくのです。
※ 職員は見る専門家ですから、職場での自らのファッション、身だしなみに無頓着になりやすいということも指摘しておきます。

 さらに、最近のICT技術(Information and Communication Technology)、特にモニタリング機器などの導入・活用により、介護施設はますますパノプティコンとしての完成度を高めてきているといえます。
 当事者たち(入居者たち)は監視(モニタリング)されているとも知らずに、監視されるのです。

 もしも、国家が市民の睡眠や起床、就寝、排泄、食事等々の状況を監視、モニタリングするとしたら大問題となるでしょう。しかし、介護施設ではそれが許されるのでしょうか。

 確かに当事者(入居者)の転倒、転落予防のために、モニタリング機器は必要な場合があるでしょうが、当事者のために善かれと思って(パターナリズム)、無邪気に、一方的に、監視すれば良い、見守れば良い、というわけではないでしょう。

② 権利とリスクのバランスと本人家族の同意

 まず、当事者(入居者)の安全を脅かすリスクとプライバシーという人権(価値)とを比較衡量ひかくこうりょうし、彼ら・彼女らのリスクが、プライバシーの権利を侵害しても仕方がないくらい大きいと判断され、なおかつ、当事者及びその家族の了解を得られた場合、初めてモニタリング機器が利用できるようにすべきだと思うのです。

 これは、平素から価値(尊厳・人権)とリスクの大きさ(発生確率と損害の大きさ)とを比較衡量するリスクマネジメントの基礎的考え方が身についていれば了解できるロジックだと思うのですが・・・
 新型コロナ禍において、なんの躊躇ちゅうちょもなく、安易に外出禁止・面接禁止・面接制限を実施し、移動の権利や人に会う権利を侵害してきた介護施設には、モニター機器の使用に本人または家族の同意が必要だとは思いもよらないことかもしれません。


[1] ジェレミ・ベンサム(Jeremy Bentham、1748年~1832年)は、イギリスの哲学者・経済学者・法学者。功利主義の創始者として有名。

[2] ミシェル・フーコー(Michel Foucault 1926~1984年)は、フランスの哲学者、思想史家、作家、政治活動家、文芸評論家。

[3] 介護する者たちの「やりやすさ」に向けて働きかけ管理するのは、業務計画至上主義というイデオロギーに基づいている。

[4] 生政治(biopolitics)とはミシェル・フーコーが提案した支配の概念で、出生・死亡率の統制、公衆衛生、住民の健康への配慮などの形で、生そのものの管理を目指すもの。

[5] コモン(common)とは人々が生きていくのに必ず必要なもののこと、共有財産を指すが、介護サービス事業をコモンとして捉える発想は『人新世の「資本論」』(斎藤幸平2020集英社新書)による。

[6] 整形という用語を人格形成というような肯定的な意味ではなく、決まった型にはめ込まれてしまうというような否定的な意味で用いている。

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