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思考の「外注化」について

便利な世の中になった。

ひとたびネットにつなげば、おいしいお店や話題のニュース、いろんなひとたちの意見や反応など、なんでもかんたんに知ることができるだろう。これはありがたい。電波さえあれば、どこでもひとりでも、そうそう退屈することはない。なんという科学の進歩であることか。
とくに、知識人の意見や、インフルエンサーの思考が流れてくるTwitterのタイムラインを見るのはとてもおもしろい。ついつい「わかるー」といいねを押してしまう。

ただ、たまにこわいなと思うのは、思考の外注化がだいぶ進んでいるんじゃないかな、と感じることだ。あ、「思考のアウトソーシング」とか言うとなんかちょっとかっこいいな。
なんかえらそうな表現になったが、ようするに、インフルエンサーの思考を覗いたり、ネット上の意見の最大公約数を見て、それを自分の意見だと取り違えていやしないか、と不安になることがあるのだ。

「知る」ことと「考える」ということは当然ながらまったく別のことである。インプットという名のもとに、ひとの意見を吸収していくのはいいが、そこで自分はほんとうに考えているのだろうか。
現代人はいそがしい。ひまがないのだ。世間話や、深くない関係のひととの会話は、借りものの意見でもなにも問題がなくこなせてしまう。さも自分のものであるかのように、得たものを右から左へ横流しすればいいだけだ。世間で受け入れられている考えである。ある程度の共感を得ることだってできるだろう。なんとなく「すごそうなやつ」に見せることだってできるだろう。

そういうことをしているうちに、だんだんその考えが「自分のもの」であるような錯覚を起こしてしまう。他人の意見をただ「知って」いるだけなのに。これはおそろしいことだ。わたしたちは自前の考えを持たなくなってしまっているのではないか。

仕事や、やりたいことに関してもおなじだ。わたしはいちおう、駆け出しのライターである。フリーランスの生きかただとか、ライター養成の講座にはやっぱり興味がある。実際にいくつか受講もしてみている。でも、これもある意味思考の外注化のひとつなんじゃないかとおもう。

だって、それをいったい何人が受講してるのよ、ということにならないか。内容自体はものすごくいいものだとおもう。ただ、数百人、数千人がおなじ講座を受講しているとなると、それはなんのアドバンテージにもならないのではないか。みんなおなじようなところに注意をして、おなじようなところにスポットを当てて書くのであれば、じゃあいっそ逆になにも気にせず書いたもののほうが目立つのではないか、という気分になってしまう。

アイデアやものの書きかたについても、もちろん知っておくに越したことはない。ただ、どういうふうに書けばひとの心に届くか。切り口は。見せかたは。自分ならではのものがあるでしょう。いいものだからって、ただなんでも鵜呑みにしただけでは、思考、戦略の外注化ということにならないか。

とりあえず、ないあたまをしぼって、考えていかないといけないなぁ、なんてことを思うわけです。大事なところは自分でやっていかないと。

最後までお読みいただきありがとうございます。
あ、「たしかに外注化ってよくないな」って思ってくださったあなた、
それ、ほんとうにあなたの意見ですか?

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