「ごっこ」だとしても。
「新しいレンズを買ったの、オールドレンズでね、スーパータクマーの」
自分用のクリスマスプレゼントだというそのレンズの、いかにフレアが、いかにゴーストがスゴいかを、滔々と語る彼女は、嬉々として、早口に語る。
「ほぉ。」とか
「へぇ。」とか
そんなことしか言えない私は、薄情者で。
彼女に言わせれば、「不機嫌なの?」か「怒ってるの?」か、はたまた「自分の興味あることしか相手したくないんでしょ」となっていき、あげく「あなたの自分軸って、自己中ってことなの?」とまでなってしまうのだから。
相槌は上手にならないといけない。
スーパータクマーがいかに、はよく分からないけれど、彼女の撮る写真は、いつも優しいし素敵なのだから。
ただ、絵描くとか創る上で、写実というよりか。その印象だとか、受けた感動を、感覚を留めておきたくて、敢えて写真を撮らず、目に焼き付けておこうと努めていた私は、素直に彼女のキリトル世界を観ていなかった。
「ごめん。
今は、抽象的にしか物が見れなくて」
そんなことを言ってしまう私は、そりゃもういけ好かないヤツでしかない。相槌が下手くそな上に、だ。
「は?
なにそれ。
芸術家気取り?」
あぁ、もう、何も言えない。
気取ったって、なんだって、
芸術家にも何者にもなりきれないんだから。
二の句が継げず、黙り込む。
零れてくる月の光。
揺れて光る金魚の鰭。
芸術家ごっこ、なのかもな。
だとしても、
見ていたい。
形にならなくても。
「ごっこ」だとしても。
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