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社会フ適合育児


わたしの家には幼い子がいる。
その子はわたしの腹の中からある日この世に放たれた。
すなわちわたしは母親である。

昔。遡ることが出来るぎりぎりの十代から二十代の記憶を思い返すと、
わたしは結婚も子も全く望んでいなかった。
それには色々な要因が考えられるのだけど、
とにかくなんの興味もなかったはずだった。

だけどわたしは母親である。今。

わたしとパートナーは、子に名前で呼んでもらっている。
例えば奇をてらってそうしているわけでは決してなくて、
他に選択肢がなかった。
「ママ」も「お母さん」も、
その自覚がないというのに呼称として使用することは気が引けた。
もしかしたら「お母さん」と呼んでもらっていると
時間をかけて「お母さん」になれるのかもしれないけれど。
なりたいと望んだことがないもんだから、その先はわからない。

いわゆる社会不適合寄りの人間かもしれないとやっと気がついたのは、
一応、会社勤めの社会人というものを始めて8年経った今さら、
なんとか死なずにやってきた今さら。
そもそも「社会」が幻想だと思っているから
社会不適合という言葉が当て嵌まらないっちゃ当て嵌らないが、
一般論や普通、当たり前なことが心底苦手だ。論調も生活の営みさえも。

そんなわたしが曲がりなりにも役割としての「母親」をしていることが、
おかしくてしかたなくて、
日々、幼い子と生きながらこねくりまわしている思考を
記録してみよう、と思い立った。

暇つぶしに。

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