『ボヘミアン・ラプソディ』−救いようのない恋愛感情は、どこに居場所を見つけるか
こんにちは。清家です。
私は映画を観るのが好き。
にも関わらずここ最近の忙しさのせいか、月2で映画館に通っていた以前の幸せな生活がもはや思い出せないほど映画と疎遠になっていく日々。
そんな私ですが、今更ながらやっと『ボヘミアン・ラプソディ』を観に行くことができました。
きっとこんなクイーンにわかが語るしょぼい感想なんて誰の興味もひかないはず。
なので今回は、この映画を観て湧いた救いようのない感情に対して、めちゃめちゃ静かに涙を流してしまった話でもさせてください。
事前に「感動して泣いてしまった」という報告を友人たちの何人かから受けていました。だから涙脆い私もきっと泣いて帰ってくるのだろうなとは思っていた。
確かに臨場感溢れる大きなスクリーンでクイーンの伝説を追うことが出来たことは素晴らしい体験であったことに間違いはありません。
“We Are the Champions”を聴きながら「"we"ってことは、私もいつか何かの分野でチャンピオンになれるのかな〜」なんて、まだ来ない将来に夢を馳せてみたりもしました。
そしてやはり結果的に私は泣いてしまった。予想通り。
でもそれは感動の涙の類ではなかった。これは予想外。
私が涙を流したのは、形容できない程悲しい気持ちになってしまったから。
フレディ・マーキュリーはエイズで亡くなりました。それは映画を鑑賞せずともきっと多くの人が知っている事実。
それも確かにとても悲しい。みんなに愛される人の死とはいつでも悲しいものです。
けれども私が泣いてしまったのは愛されるロックスターが病によって亡くなってしまったという事実に対してではなく、この映画の中にあまりにも美しくて救いのない愛が存在していて、どうしようもなかったから。
▽行き場のない感情はどこへ行くのか
『ボヘミアン・ラプソディ』の主人公、クイーンの伝説のボーカルであるフレディ・マーキュリーはメアリーという名の女性と愛し合います。彼はやがて彼女に結婚を申し込み、二人は夫婦となる。
それでも、フレディはゲイだった。
フレディがメアリーに告白するシーンがあります。「もしかしたら自分はバイセクシュアルかもしれない」と。
バイセクシュアルなら救いがある。なぜなら彼らの恋愛対象には女性も男性も入ることが可能だから。
でもそれを聞いてメアリーは答えます。「いいえフレディ、あなたはゲイよ」と。
見過ごすこともできたはず。自分の愛する人の恋愛対象に自分が入っていないことに気付かないふりをして、今まで通り恋人同士のように振る舞うこともできた。
けれどそうはしませんでした。代わりに彼女はフレディに、自分に嘘をつかない道を与えた。
それはきっと本当に彼のことを愛していたから。
メアリーは言います。そんなこととっくに気づいていた、それでも私はあなたを愛してしまったと。あなたは悪くない、でもきっとこれから辛いことがたくさん待っているだろうと。
その言葉で、私は静かに涙を流してしまったのです。
だって愛している人に対して発する言葉において、これ以上に悲しい言葉があるのでしょうか。私はないと思う。
確かにそう、「あなたは悪くない」のです。
別に何も悪いことをしたわけではない。ただ愛の形が違うことに気づいてしまっただけだから。それでも自分が愛している人の愛の対象から自らが外れてしまっているという変えようのない事実に気づいてしまったとき、それは形容し難いほどの辛さを伴うでしょう。その感情はきっと怒りに似ているのかもしれない。
それでもその感情をどこで消化していいのかわからない。なぜなら「あなたは悪くない」し「私も悪くない」のだから。
怒りの矛先がハッキリしているということ、それはどれだけ気楽なことなのでしょう。
それよりも、本当に辛いのは何に対して怒りを、そして悲しみをぶつければいいのかわからない時なのではないでしょうか。
もどかしい。切ない。観ているこっちの胸が張り裂けてしまいそう。
だって、こんなに美しくて、救われない愛が存在するだなんて。
▽私の性的指向
これはただの余談ですが。数多くの人たちのように、そしてかつてのフレディのように、私も自分の性的指向について実際よくわかっていないことについて少し話をさせてください。
私の性的指向を何かしらのジャンルにふり分けるとしたら、きっとストレートなのでしょう。
なぜなら中学生からずっと付き合ってきたのは男の子だったし、今素敵だなと思う人も男の人だから。
それでも大学生になって自分なりに色々なことを経験して、彼氏がいたにも関わらず「自分は本当はバイセクシュアルなのではあるまいか」と思った時期がありました。
別にそのことに対してもどかしい気持ちになったりだとか嫌だと思ったことは一度もない。けれど、自分が好きになる対象の性別をハッキリさせた方がきっと生きるのは楽なのではないかと思いました。
だから私はLGBTのパーティに参加したりレズビアンバーを訪れたりしました。実際に自分はそういう人たちと接して親しくなる中で一体どういう感情を抱くのか、はたまた抱かないのかということを確かめに行くために。ちょうど1、2年前のことだと思います。
けれども、数ヶ月かけて考えたものの実際どうなのかはわからなかった。
その場で寄せられる女の人からの友達以上の好意に対して、気持ち悪いとは全く思わなかったです。むしろ嬉しかった。でも応えるまではいかなかった。
だから今でも結局どっちなのかはわからず終いです。
自分がもしかしたらバイセクシュアルであるのかもしれないというもやもやは今でも完全には拭えたわけではなくて、何かをきっかけにまたそう思うことがあるかもしれない。
でもやっぱり今素敵だなと思っている人は男の人。だから私は”とりあえず”、”きっと”ストレートなのでしょう。
曖昧ではあるものの、自分に嘘をつく必要もなければ相手に嘘をつかせる必要もない。そんな今の状態に甘んじているだけかもしれないけれど、当分はこのスタンスで過ごしていくことになりそうです。
私が女の人に引っ張って家に連れ込まれ、焦ってダッシュで世田谷区を1キロ走って逃げた話は、いつかまた別の記事ででもお話しさせてください。
▽変えられるもの、変えられないもの
私はLGBTの人に恋をした経験はありません。
でもこれから経験することになるかもしれないし、もしいつか「自分はやはりバイセクシュアルである」と確信することがあったとしたら、逆に私がストレートの人に恋をされるLGBTという立場になるかもしれない。
でも経験がないから今はなにもわからない。自分の好きな人の性的指向に自分の性が合致していないということがどれほど辛いことであるのかということを。
人にはそれぞれ好きな異性のタイプがあると思います。
髪型や服装、メイクなどは言うなれば後付けのようなもので、自分次第で変えることができます。
ですがその条件に自分が当てはまっていない時、そしてそれが背丈の話であったり骨格の話であったり自分の努力で叶うものではない先天的なものだった場合、きっととても悲しい気持ちになるでしょう。
それでも靴の高さであったり整形であったり、変えようと思えば少しは無理にでも変えて近づくことが出来る。
でもそれが「性的指向」の相違だとしたら。
自分が「女」であるがゆえに、または「男」であるがゆえに、愛する人から恋愛対象としての枠組みから除外されてしまうということの辛さ。
想像しただけで私は喉がつかえたようにどうしようもなく苦しくなってしまう。息もできない。
でもその当事者たちはその喉のつかえを、間違いなく胸に感じているその苦しさを、どこかに吐き出すこともできない。怒りに変えることもできない。メアリーのいう通り、だって誰も悪くないのだから。
努力して努力して、それでも相手に好いてもらえないのならきっとそれは運命ではなかったのでしょう。割り切ることが出来る。
自分は相手にふさわしくなかったし、相手も私にはふさわしくなかったのだ。そう思って踏ん切りをつけて、いつかはきっと次に進むことが出来る。
だからこそ、どんなに努力したとしても、どんなに泣いて足掻いたとしても、自分の好きな人が自分に振り向くことがないとわかっていることほど救いようのない愛は存在しないと考えてしまうのです。
行き場のない愛を生み出してしまった人たちは、どこでその整理をつけるのでしょうか。どこでその思いを消化するのでしょうか。
▽変容せざるをえない愛の形
フレディとメアリーはきっと深く愛し合っていたのでしょう。お互いの愛の種類は違えども、二人にはお互いが必要だった。
恋に落ちる相手としてフレディを愛したメアリーと、人生を共にするパートナーとしてメアリーを愛したフレディ。彼らは時にすれ違いながらも、エンドロールにも記述があったように結局は違う恋人を隣にしながら一生涯友人関係を築き続けました。
最期には素敵なパートナーが隣にいたフレディ。そしてメアリーもちゃんと自分の新しいパートナーを見つけている。
でもやはり私は気になってしまうのです。
性的指向の違いから、愛する人の恋愛対象から外れてしまうこととなったメアリーの、彼に対する行き場のない恋愛感情はどこに行ってしまったのかと。
矛先の定まらない怒りと、誰を責めることもできない悲しみ。そしてその根元である、あげる相手がもはやいなくなってしまった恋心。彼らはフワフワと迷子になったあと、一体どこに居場所を見つけたのでしょうか。
エンドロールで製作陣の名前を目で追いながら、こんなことをひたすら考えていました。そして私はその日2度目の涙を流してしまった。
▽箱に入れてしまっておきたい感情
『ボヘミアン・ラプソディ』、とっても素敵な映画でした。
主人公よりもメアリーをひたすら気にかけてしまった2時間半だったけれど、多様な「愛」の形について考えさせられるきっかけとなってくれました。
いろいろな気持ちが出てきて止まらないので、もうしばらくは観ることはないと思います。
けれど、自分の愛の対象や性的指向についていつか前のように迷うことがあったならば、きっと私はまたこの映画を観るのでしょう。
それほど美しい愛が描かれている作品だった。
そしてまた涙を流して、「そういえば21歳の冬にも同じ気持ちになったっけ」と思って笑うのだと思います。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
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