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茶道論「茶禅一味論」② —江戸時代—

茶禅一味の初見

茶禅一味の初見は大林宗休が武野紹鴎の画像に賛した偈である。

  大黑菴主一閑紹鷗居士肖像 武野新五郎源 仲材。泉南人。
  曾結二彌陀無碍因。一宗門更轉活機輪。
  料知茶味同二禪味。一吸二盡松風一意未レ塵。

澤庵和尚刊行會編「泉州龍山二師遺藁 巻之上」『沢庵和尚全集 六巻』一九二八年、巧藝社、一六頁。

「大黒庵主一閑紹鷗」とは、武野紹鷗のことである。「曾結弥陀無碍因」とあるように、阿弥陀如来の念仏宗であったが、堺の南宗寺、大林宗套に禅宗に参禅した。「料知茶味同禅味」が、「茶の極意と禅の極意が同じことである。」ということであり、これをもって茶禅一味といわれる所以とされている。十六世紀の前半に、茶禅一味の思想が芽生えていたと推察される。


茶禅一味論

桃山時代の茶の湯は、茶人の存在そのものが新しい表現であった。
定型化をもたず、茶道観を体系化することへの興味が薄かった。
江戸時代初期、千宗旦の子であり、表千家四代江岑宗左が書き残したとされる「江岑夏書」において、型としての定型化、論の展開、茶禅一味論の完成を見ることができる。

利休流ニハ茶之湯書付無之候、たとへ休自筆ニ而被書候事、万ニ一ツ在之共、其時節ニおよび申事故、書付用ニ立不申候、其上、書付一円ニ無之候、此書付ニハ無之候へ共、我なくさミニ思出候事斗書申候

「江岑夏書」

大意は
「利休流には茶の湯について書付けたものはない。たとえ利休自筆の書付けが万が一あったとしても、それは当時のものであり、今の時代には役に立たない。その上で、利休が書付けたものはまったくない。この書付けは書かなければならないものではないが、私自身の慰めのために思い出したことばかりを書いている。何れもこれまで書かれていないことばかりである。」とある。書付とは伝承や茶の湯の教えを書いた茶書のこととされる。江戸時代初期において茶書を書くという意識が変化したことが窺える。

『南方録』の茶禅一味

『南方録』「滅後」

サテ又侘ノ本意ハ、清浄無垢ノ仏世界ヲ表シテ、コノ露地草菴ニ至テハ、塵芥ヲ払却シ、主客トモニ直心ノ交ナレバ、規矩寸尺、式法等、アナガチニ不レ可レ云。火ヲヽコシ湯ヲワカシ茶ヲ喫スルマデノコト也、他事アルベカラズ。コレ則仏心ノ露出スル所也。作法挨拶ニカヽハルユヘ、種〻ノ世間義ニ堕シテ、或ハ、客ハ主ノアヤマチヲウカヾヒソシリ、主ハ客ノアヤマチヲアザケル類ニ成ヌ。此子細熟得了悟スル人ヲ待ニ時ナシ。趙州ヲ亭主ニシ祖大師ヲ客ニシテ、休居士トコノ坊ガ露地ノ塵ヲ拾フホドナラバ一会ハトヽノフベキカ、大笑〻〻。カク云テモ天下ノ人ヲ達磨ニモ趙州ニモナシガタシ、ナホマホシク思フモ亦一著ナリ。ヨシ〳〵三界出離ノ人ハ、却テ三界ニ安坐スト云リ。コヽニ於テ迷惑朦朧タリ。休居士ノ得心如何ト一問申タレバ、休ノ云、其祖師仏ノ大悟ニ於テハ愚盲ノ宗易何トシテカ御坊に及ブベキ、但シ御坊は仏教経論ニヨツテ、却テ迷ヲ生ズルモノカ。易ハ茶ノコトニシテ申ベシ。台子ヲハジメ諸事ノノリ[規矩]法度は百千万也、古人モコヽニ止ツテコレヲ茶ノ湯ト心得ラレタルト見ヘテ、ヲノ〳〵法式ヲ大切ニスルコトノミヲ秘書ニシルシヲカレタリ。易ハ其法式ヲ階子ニシテ、今少高キ所ニモ登リタキ志有テ、大徳、南宗ナドノ和尚タチニ一向問取シ、旦夕[朝晩]禅林ノ清規ヲ本トシ、カノ書院結構ノ式ヨリカネヲヤツシ、、露地ノ一境、浄土世界ヲ打開キ、一宇ノ草菴二畳敷ニワビスマシテ、薪水ノタメニ修行シ、一碗ノ茶ニ真味アルコトヲヤウヤウホノカニヲボヘ候ヘトモ、時〻〈ニ〉水ノ濁ヲナスコトハ易ガアヤマル所也。又客タル人得道ナキユヘ、主モ又ヒカレテ迷フコトアリ。サレバコソ例三[之カ]和尚タチ、御坊ナド入来ノ時、易ガアヤマリハ凡アルマジキニヤ、

筒井紘一編『茶道古典集成一一 南方録と立花実山茶書』二〇二一年、淡交社、二二二〜二二三頁。

[現代語訳]さてまた「わび」の本質は、清浄無垢の仏世界をあらわしているもので、この露地草庵に至っては、塵芥を払却し、亭主と客が直心の交わりをする場なのだから、規則や置き合わせの寸法、また点前など、強いて細かにいいたてるべきではない。ただ火をおこし、湯をわかし、茶をたてて飲むだけのことである。ほかになにもない。このようにすべてを取り去った裸の姿こそ、これがすなわち仏の心そのままである。作法や挨拶なかかずらうために、さまざまの世俗の義理に堕落し、あるいは客は亭主のまちがいをあざけるようになってしまった。この道理を塾得し、了悟する人があらわれるのを待っている余裕もない。趙州を亭主にし、達磨大師を客にして、私と貴僧が露地の塵を拾うようなことができれば、本物の茶の湯一会ができるだろうに。愉快、愉快。とはいうものの、この世の人を達磨にも趙州にもするわけにはゆかぬ。したいものだと思うのも、また仏道のさまたげとなる執着ということだ。そんなことはどうでもよいだろう。三界を離れた人は、かえって三界を不自由に思わずに安住するものだ、というではないか。ここまできいて、師利休のいわれることがぼんやりとして、どうしてよいかわからぬので、師の得心とはどのようなものですか、と問うた。師利休はこういわれる。仏道の祖師たちの大いなる悟りについては、仏道にくらい私など、とても禅僧の貴僧には及ばない。しかし貴僧は仏教の経典やその注釈によって理解しようとするから、かえって迷いが生じるのではないか。私は茶の湯のことで自分の得心について語ろう。茶には台子をはじめ、さまざまの作法規則が無数にある。昔の人もこの法式を学ぶところで止まってしまって、これを後生大事にすることばかり秘伝書に書いておかれた。私は、この法式の段階を一つの階段として、さらにもう少し高い次元に昇りたいという志があって、大徳寺、南宗寺などの和尚たちにひたすら参禅し、朝晩、禅宗の清規を基本として茶の湯に精進した。そして書院台子の結構をやつし、露地の境界、浄土世界をひらき、一軒の草庵二畳敷にわび済ました茶の湯をつくりあげた。薪を運び水を汲むそのことに修行の意義を感じ、一碗の茶にまことの味があることを、ようやくわずかに悟るようになったけれども、ときどき澄みきった水のようでありたい茶の心に濁りを生ずることがあるのは、私の過ちである。また客になる人が道をきわめた人でないと、亭主もまた客の未熟にひきずられて迷うことがある。だからこそ、例の和尚たちや貴僧などが客となってくるときには、私が過つことは、まずあるまい。

熊倉功夫『現代語訳 南方録』六五〇〜六五二頁。

茶の湯の歴史の中で、江戸時代中期では「庶民への普及」「茶の湯人口の増加」「茶の湯の遊芸化」が顕著であった。千利休以降、茶道論としての「茶禅一味」は危機的状況におちいった茶の湯に対する批判や、遊芸化に対する精神性の復活宣言が常に禅を基点としてはじまる、ということであったといえる。


参考文献
熊倉功夫、一九九九年「茶道論の系譜」熊倉功夫・田中秀隆編
     『茶道文化体系 第一巻 茶道文化論』淡交社。
筒井紘一編、二〇二一年『茶道古典集成一一 南方録と立花実山茶書』淡交社。熊倉功夫、二〇〇九年『現代語訳 南方録』中央公論新社。

画像:薮椿(筆者撮影)

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