春翠/syun_sui6/日本伝統文化

「日本伝統文化」に関係する文献。日常生活に役立つ茶の湯に関する雑学。茶の湯に関する英語…

春翠/syun_sui6/日本伝統文化

「日本伝統文化」に関係する文献。日常生活に役立つ茶の湯に関する雑学。茶の湯に関する英語について。 主に茶道思想史についての研究を執筆中。

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岡倉天心『茶の本』 THE BOOK OF TEA

茶の湯の宗匠、「茶の湯者」「茶人」は芸術家としてではなく、芸術そのものになろうとした。茶の湯は生活文化においての所産である。茶匠は所作、立ち居振る舞いの美しさを追求し、日々の暮らしに美を見出す。茶の湯を芸術を媒介にした実践的哲学として昇華させた。 岡倉天心は、茶人の生き方そのものが「茶の湯」であり「芸術」であるとした。茶人は日常生活を律することに努めた。まさに生活の芸術化、芸術の生活化といえよう。 Masters of the tea ceremony, "chanoyu

    • 茶道とは何か?②

      画像:「和敬清寂」茶の精神を四規として唱えた語。 The essential spirit of "chadō" is expressed in the concepts of Wa,Kei,Sei,Jaku(Harmony,Respect,Purity,Tranquility) as taught by Sen Rikyū. 裏千家十五世鵬雲斎宗匠は、茶道について、次のように述べている。 露地の中門にあたる枝折戸は、同じ露地の延長上にありながら枝折戸を境にして、次元を異

      • 茶道とは何か?

        これまで通史的に述べた茶道論を少し違った視点で見てみる。 倉沢行洋氏は、茶道とは「茶湯(ちゃのゆ)の道」と述べた。 ここでいう「茶湯」とは点茶(亭主による茶の点前やそのための準備全般)と喫茶(客が茶を喫すること全般)のことである。茶湯によって心が育まれ、その育まれた心によって茶湯を行うことで、おもてなしの心がお互いに伝わるのである。茶道における代表的な精神論である。 参考文献:倉沢行洋『増補 藝道の哲学 宗教と藝の相即』東方出版,1998年

        • 茶道論「分限論」 —江戸時代—

          「分限論」とは 異風を良しとした戦国的茶の湯が世の非難を浴びるとき、すなわち近世的な茶道の成立である。異風に包まれる芸能性の否定と理論を茶道に付与する。いわゆる分限論である。  分限論とは封建社会の基本的な秩序の思想で、人はみな、それぞれ己の分限をもち、その分限を守ることが生き方として最も重要視される思想である。   世間では、利休が町人の分限を忘れて天下人の側近となった結果、罰せられたとし、織部もまた同様であると非難する声があがった。  初期幕政の思想に合致することが近

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        岡倉天心『茶の本』 THE BOOK OF TEA

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          茶道論「茶禅一味論」② —江戸時代—

          茶禅一味の初見茶禅一味の初見は大林宗休が武野紹鴎の画像に賛した偈である。 「大黒庵主一閑紹鷗」とは、武野紹鷗のことである。「曾結弥陀無碍因」とあるように、阿弥陀如来の念仏宗であったが、堺の南宗寺、大林宗套に禅宗に参禅した。「料知茶味同禅味」が、「茶の極意と禅の極意が同じことである。」ということであり、これをもって茶禅一味といわれる所以とされている。十六世紀の前半に、茶禅一味の思想が芽生えていたと推察される。 茶禅一味論桃山時代の茶の湯は、茶人の存在そのものが新しい表現であ

          茶道論「茶禅一味論」② —江戸時代—

          茶道論「茶禅一味論」① —安土桃山時代—

          「茶禅一味論」とは一休宗純、村田珠光、武野紹鴎、千利休、千宗旦の時代という茶道草創期。安土桃山時代から江戸初期にかけてのこと。 茶禅一味の背景 ・中世の文化全体が宗教の大きな影響下にあった。 ・仏教、とりわけ禅宗が芸文の世界の人々から精神的支柱として求められた。 中世の文化は宗教の力を借りて社会的に顕現したのである。芸能者が自らの芸のために演じ、興行をうつことはできず、神社仏閣の権威・権力に保護されそのもと社寺建立の勧進のため興行した。(勧進興行) ↓ 桃山時代を「文化

          茶道論「茶禅一味論」① —安土桃山時代—

          茶道論「芸能論」② —中世の芸能—

          四つの芸能性の性格要素 芸能と茶一、ふるまい 「芸能表現」 舞台芸能における芸能表現とは身体の所作を媒介とした表現、演技、楽器演奏、身体表現を通じて観客を日常次元から芸術的次元へと高める→茶道での点前作法に当たる。  二、よそおい 「化粧、衣装、手にもつ『採りもの(神楽の鈴のようなもの)』」 演者は装うことによって、日常生活の個人ではなく、想像上の役に変る→茶道では化粧はない。茶道は日常生活の芸能化であるから日常が残される必要がある。衣装、採りものとしての茶人の正装たる

          茶道論「芸能論」② —中世の芸能—

          茶道論「芸能論」① —中世の芸能— 

          芸能論とは茶の湯を芸能という切り口で捉えようとする発想である。 林屋辰三郎氏は芸能の性格として巡事性と結座性をあげた。 巡事性 巡事性とは、寄合いの座において、一人一人が順序を保ちながらことを運ぶことであり、「巡事というプロセス」が楽しまれる点に芸能性があった。  連歌は発句からはじまって二句、三句と連衆によって巡事、句がつけられていく、この形式こそ日本芸能特有の巡事性である。 結座性 古代中世の芸能の特質は寄り合いの芸能という点にある。一座をなして芸能を互いに楽しみ

          茶道論「芸能論」① —中世の芸能— 

          茶道論の系譜—茶道とは何か

          茶道論の系譜  茶道論とは「茶道とは何か」という茶道の思想である。あるいはその問いかけに対して書き残されてきた文章である。茶道にはいろいろの要素がある。思想哲学、文学、宗教、芸能、美術工芸、建築造園、衣、食の文化、花、医学など、包括的で複合的であり重層的文化である。それだけにあいまいな茫漠たる性格は否めない。また茶道は時代の変遷とともに様々な形へと変化してきた。茶道論も社会的背景とともに変化してきたといえる。  茶道論の系譜には、芸能論、茶禅一味論、分限論、趣味論という切り

          茶道論の系譜—茶道とは何か

          唐物の流行

          金沢貞顕の手紙にみる喫茶鎌倉幕府の黙認のもと、中国の宋と民間の自由貿易によって中国の文物が大量に日本に運び込まれた。それらを「唐物」といい、唐物は喫茶にも使われるようになった。 鎌倉幕府執権の金沢貞顕の手紙には、喫茶関係の記載が多く見られる。 鎌倉には、書籍、香料、薬品、織物、唐墨、硯、筆なども流入していた。 沈没船の唐物中国から朝鮮半島に立ち寄り、日本に向かう途中、新安(大韓民国南西部)沖で沈没した洋帆船の調査(1967)では、以下のものが引き揚げられた。 唐〜元代

          禅院と茶 —薬効の茶から文化の茶へ—

          禅院と茶、そして茶礼 鎌倉時代前半の茶は薬用であるとされているが、中国の禅院では寺院内の生活規範を定めた『禅苑清規』(1103)が用いられ、「茶礼」が確認できることからも、栄西が伝えた抹茶は平安時代と異なり禅を背景としたものであった。 道元は栄西の弟子明全と入宋したのちに曹洞宗大本山永平寺を開創。 大徳寺を開創した宗峰妙張(大燈国師)の師にあたる南浦紹明(大応国師)も文永四年(1267)に帰国したことからも、『禅苑清規』は日本国に定着し、禅と茶は結びつきを一層強固にしたと

          禅院と茶 —薬効の茶から文化の茶へ—

          抹茶の始まり

          抹茶の始まり—鎌倉時代— 『吾妻鏡』によると、建保二年(1214)鎌倉の福寿寺に住していた栄西が、二日酔いに苦しんでいた鎌倉幕府三代将軍源実朝に加持祈祷を依頼され、一盞の茶と「茶の徳を誉むる所の書(喫茶養生記)」を献じたとされる  「喫茶養生記」・・日本で最初の茶書であるとされている。 陰陽五行思想を基として、茶の苦味が心臓に良いことを説いている。中国の文献を引用し上巻は茶の効用、下巻には桑の医学的効能を説いている。栄西の伝えた抹茶は中国宋代の茶法による薬効を期待された

          茶書を読む 『南方録』②

          『南方録』全七巻 「覚書」 「覚書」は巻頭にして『南方録』の総論のような巻である。 「茶の湯とは何か」と主張が明確に説かれ、茶の湯が仏教に根差し、脱俗の行いであると説きながらも、禅宗に囚われることなく日本人が本来持っている「キヨメ」の観念や火に対する意識などを挙げている。さらに茶の湯の歴史、茶会論、遊興の茶会を否定し、わびの精神をあらわす道具、茶花、懐石、点前のあり方について論じている。 「覚書」の最後にはわびの心の表現として和歌を引用している。 武野紹鴎のわび茶 武野

          茶書を読む 『南方録』②

          茶書を読む 『南方録』①

          『南方録』とは 多くの茶書の中でも、千利休のことや千利休の「わび茶」について詳しく書いたものはほとんどないと言われている。『南方録』は初めから終わりまで、千利休の茶について自由自在に語っている。茶道具についての考え方から、茶花の見方、茶会の心得、千利休の時代の逸話など。いかにも千利休らしい茶の思想が一貫している。 著者:南坊宗啓(生没年不詳) 南坊宗啓は、南宗寺の塔頭「集雲庵」を預かっていた禅僧である。『南方録』は著者の名前から『南坊録』と呼ばれていた。『南方録』では利休

          茶書を読む 『南方録』①

          日本における喫茶の始まり③

          『日本後紀』にみる喫茶の始まり。 『日本後紀』とは、 『日本後紀』によると、弘仁6年(815)嵯峨天皇は近江の韓崎(大津市唐崎)に行幸。途中の崇福寺、梵釈寺に立ち寄り、その梵釈寺で大僧都永忠が茶を煎じて天皇に捧げたとある。その他嵯峨天皇の時代に多くの喫茶に関する記事が見られ、平安時代の喫茶の風は高揚期を迎え、限られた貴族や僧侶たちの間で最新の唐文化として流行していたと考えられる。嵯峨天皇は近江行幸の二ヶ月後、茶樹を畿内、近江、丹後、播磨などに上させ、献上させている。

          日本における喫茶の始まり③

          日本においての喫茶の始まり②

          漢詩集に見られる茶 9世紀の喫茶の様子は漢詩集に窺うことができる。 『凌雲集』・・・書名正式名『凌雲新集』。平安初期の漢詩集。814年(弘仁五年)成立。一巻。わが国最初の勅撰詩集。嵯峨天皇の勅命により、小野岑守・菅原清公等撰定。平安初期、平城・嵯峨・淳和の三天皇をはじめとする当時の代表的詩人24人の91編を収録。唐詩の影響のもと、格調の高い作品が多い。勅撰三集の第一。 「雲を凌ぐほどにすぐれた詩を集めた詩集」の意で凌雲集と呼ばれる。 『凌雲集』に収められている嵯峨天皇が皇

          日本においての喫茶の始まり②