見出し画像

ギュスターヴ・エッフェル(1832~1923)

(人物概要)
ギュスターヴ・エッフェルは、1832年フランス・ディジョンに生まれました。パリの中央工業学校を卒業後、製鉄工場を経て、鉄道製品製造会社、鉄道会社に勤め、これらの実務を通して冶金から橋梁設計までの技術を習得し、1867年に自身の事務所を創設します。そして、工場から教会、多くの橋の設計・建設をこなし、「橋造りの天才」との異名を馳せました。ポルトのマリア・ピア橋、ガラビ渓谷のトリュイエール橋を始め、エッフェル塔を完成させました。エッフェルは、産業革命の進展する19世紀、技術が開け広げた近代の空間を例示した、重要な人物であります。

(本文)
ポルトガル第2の都市であるポルトの旧市街の南面をドウロ川が縁取っています。このドウロ川を旧市街の中心部からほんのわずか上流に上ったところにエッフェル設計によるマリア・ピア橋は架かっています。

画像1

マリア・ピア橋は、1875年に設計提案を4社で争った結果、エッフェル案が採用され1877年に完成したものです。ドウロ川をまたいで、全長約353メートル(中央アーチが約160メートル、最大高さ62メートル)の橋桁は5支点で支持されていて、ドウロ川に面した崖地に、折り重なるように形成されているポルトのダイナミックな都市景観に比して、この橋は華箸ともいえるほど繊細な建ち姿をしています。
マリア・ピア橋の下流、ちょうどポルトの中心部には旧市街と新市街を結ぶ全長395メートルのドン・ルイス1世橋が架かっています。ドン・ルイス1世橋はエッフェルの協力者でもあった、デオフィール・セイリグの設計によるもので、1886年に完成しました。ドン・ルイス1世橋がどっしりとしてどことなく重々しい印象を与えるのに比べると、先のエッフェルのマリア・ビア橋ではその軽快さが際立っています。設計条件が異なっていたと予想できますが、ドン・ルイス1世橋では、上部の荷重をすべて下部に伝えているため、中央アーチの「梁幅」も「梁成」も橋脚に向って一様に増しています。これに対してマリア・ピア橋では、中央アーチの「梁幅」は風圧に対抗するため橋脚に向って増していくものの、「梁成」は橋脚に向って徐々に絞られていっています。これはエッフェルが、鉄のもつ部材特性とアーチの効果を十分に考慮して、最小限の資材で最大の効率を狙った結果であったと考えられます。このアーチの「幅」と「成」の相反関係に、さらに橋桁のスレンダーさが加わってマリア・ピア橋の優美さはつくられています。

画像2

不必要な部材を削ぎ落とし、コスト的にも極限まで追い込んだ末に達成された繊細さなのか、マリア・ピア橋は使われていた当時は少し揺れたそうです。

エッフェルにとって、設計は常に「風」との闘いでした。後にエッフェルは、パリのエッフェル塔の下に風力研究所をつくり、風洞実験装置を設けて多くの実験を行っているほどです(ここでの実験と研究は今日の航空力学へとつながっている)。「風」とは、建造物にとって「揺れ(動き)」のことです。殊に鉄骨でつくられた高層の建造物にとって「揺れ」は大きな問題をもたらします。かつて西欧において建造物のすべてが石造りであった時、「揺れ」はそれほど問題ではなかったと思います。「揺れ」はものが風を受けるとき、あるいはものが自ら動いて風圧を受けるときに発生する。そのため、ものが軽くなればなるほど、高さが高くなるほど、風の影響を受け易くなることは経験的に了解できます。19世紀、産業革命とともに各地に工場が建てられ、都市が生まれ、その都市と都市を鉄道が結びました。疾走する蒸気機関車はガタガタと揺れたでしょう。高さ300メートルのエッフェル塔では強風による3センチ幅の「揺れ」を記録したといわれています。つまり、この「揺れ」は近代が生んだ近代的生成物のひとつといえるのではないでしょうか。そして、そうなのであれば、マリア・ピア橋の「揺れ」は19世紀の「近代の揺れ」であったのだといえるかと思います。近代とは「揺れる」ことでもあるのです。今日、交通機関は高速化し情報産業が深化していくなかで、「揺れ」は「微視的」なものになりつつあります。もはや「揺れ」は体の表面を経由せず、眼や耳から入って直接神経を振動させています。「骨の揺れ」が「神経の揺れ」に置き換えられようとしています。これは、21世紀の「揺れ」ではないでしょうか。

~ギュスターヴ・エッフェルが携わった建物または橋~

画像3

画像4

画像5

今回出てきたドウロ川を旅行地として説明してくれているサイトのリンク

最後まで記事を読んでいただきありがとうございます!是非次の投稿も読んでみてください!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?