見出し画像

【再考】「あおいのきせき」の知見【唯一無二】


「あおいのきせき」の知見の絶対性につきまして

■あおいのきせき」の知見は否定が不可能

それだけしかないそれはない。であればそう認識している意識がある。

言ってみれば、これだけです。

つまり、そうとしか言えない、そうである事。

この同じ事を別の言い方で、例えば「数式」で指示すれば、

A = A + 非A + Aと非Aの境界

となります。

2次元的な絵として視覚に例えます。

「ルビンの壺」ウィキペディアより

 「それ」「A」がクリーム色の部分です。(「壺」と名付けます)

壺(A)」しかない「壺(A)」はあり(え)ません。「壺(A)」があるということは「壺(A)」ではない(以外)=「非A」がある、ということです。

そのことを正確に指示するように注意すれば、

「非A」の有であることが分かります。

そうしてそう「分かるのであれば」認識している主体・「意識」があることも分かります。(意識がないと「わかりません」)
(或いは「壺」と非「壺」には境界があります)

これは否定できない絶対として理解が可能です。

是非、否定にチャレンジしてみてください。

質問は、言い換えますと「地」のない「図」を「書」けますか?という事になります。

否定できないこのことを「当たり前」という大前提として世界を再解釈することで私たちの知見は「広がり」ます。


■ルビンの壺の絵(クリーム色と黒)の外の白いところはどうなんですか?

相互入れ子構造として理解すると「筋がとおります(矛盾がなくなります)」

外 = (非){(壺)と非壺} は(壺)

 ここで改めて思い出して頂きたいのは「あおいのきせき」の知見は「存在の方程式」である、ということです。

「ルビンの壺」は2次元に置き換えた比喩ですから「このまま絵で」考えると筋が通らなくなりますが、「実際には」次元は非次元と併せてあることを考えれば矛盾はなくなります。☜このことも「あおいのきせき」の知見によってわかることです。


■全てに当てはまる存在のありよう(宇宙があるなら、非宇宙があります)

一番大きく考えてみましょう。(「ルビンの壺」のイメージを忘れないようにしてください)

「いわゆる宇宙」があります。「いわゆる宇宙」は「物質」と極限に於いて「波動」の「時空間(変化する3方向に規定される場)」です。

「宇宙」が有るためには「宇宙」でない、つまり「非宇宙(非有)」があらねばなりません。

ところで「宇宙」の外はどうなっているのか?という疑問は子供から専門家まで幅広く共有されていますが、その問題にも通底してきます。

この疑問は「宇宙」を「壺」と考えるからこそ出てくる、当たり前の疑問です。


■「壺」と「非壺」の性質の関係について考えてみます(非宇宙とは?)

形は一言「(同じなんですが)正反対」です。(「ルビンの壺」の絵の属性は「線(形)」と「色」ですが「色」は恣意(副属性とでもいうもの☜詳細はいずれ)なのでここでは省略して考えます)

そもそも「ルビンの壺」は「あおいのきせき」の知見の「例え」として持ち出されたものです。(色と)形だけで出来た「ルビンの壺」で形(と色)が正反対ということを「いわゆる宇宙」に当てはめて考えれば「非いわゆる宇宙」の性質が「いわゆる宇宙」とは「正反対」になるという事が分かります。

「いわゆる宇宙」の性質は「物質かつ(極限において)波動」ですから「非宇宙」の性質は「非物質かつ(極限において)非波動」となるはずです。

私たちはそれを「知っている」ことに気付きます。

意識」です。


■意識を物理的に定義する

「意識」を端的に「非物質かつ(極限において)非波動」と定めて不都合はありません。というか、そうとしか定義できません。

その前提に立てば、「意識そのもの(それ自体)」を「科学的に測定」できない理由も分かります。  

波にあらず、物質にあらずの「存在」を、五感(+体内感覚)や、それらセンサー機能を拡大した観測機器により「認識」するすべは人にはありません。(「お腹が痛いとき、痛いと感じているその意識そのものは、痛くない」とは故・池田晶子さんの有名な言でした)

「科学法則(自然法則)」は今のところ「物質かつ(極限において)波動」である「いわゆるこの時空間宇宙」しかあり得ないことを前提に考えられていています。(あくまでも「ここは」一つの時空間である、という前提の上、捻れた「数式」を解釈)

それで、法則は「極限」において「無限」と「無」の問題に突き当たり、にっちもさっちも行かなくなっているのが今の「人類知」です。
(或いは「近似」と「統計」では処理が上手くいかなくなる時点でショート)

つまり「微積分思考(ニュートン的思考)の限界」に悩んでいるのです。

現状、「科学アカデミー」が認めているのは(「数理物理学」など)言ってみれば、広義の素朴実在論(「感覚器官による認識そのままを実在とする」、ではなく、「数式による論証可能性をそのまま実在とする」といる立場)に限られていて、特に、極限の解釈に於いて、数式による整合性が成り立たてば「実存」する、或いは、成り立たずばその現象は存在し得ないという「誤謬」に陥っている、とも言えます。(この「当たり前」の論証はお済みでしたか?「だって当たり前じゃん」をどこまで捨てられるかが、問われています。前提を積み上げた先に「答え」はありません)

また、こうも言えます。

本来なら∞である筈の1マイナス0を1としてしまった「ツケ」がまわってきた。

ゼロとは?

数は、区切ることを「運命」付けられていて、しかし「世界」は一つです。

そう。言葉も、区切るのでした。

即ち、無限を引き寄せる「宿命」にあります。

ブラックホールこそ正に矛盾の顕になる、そういう「時と場所」です。

素朴認識論的に言っても、
物質と意識の結節点は、 
脳であると、なります。
(まるで、コロンブスの卵)

そして、「非宇宙(≒意識)」のいわば「入り口」がブラックホールであると言う論理展開は、
以下に書かせて頂きました、通りです。


■ブラックホールは非宇宙との結節点と理解できます

そして数学に「例える」なら複素数に例えることも可能です。

「いわゆる宇宙(物質かつ(極限において)波動」は「実数(a)」

「意識(非物質かつ(極限において)非波動」は「虚数(i)」

更に☜ここポイント

「(主体としての)言葉{←ざっくり(ひとりの)人}」を「実数(b)」

として現すことが出来ます。

複素数は非複素数の有を意味しますが、

b=√-i

とすれば、矛盾はなくなります。(√-i=本質とは原田武夫さんによってもご指摘を頂いております)

比喩によってはいわゆる現実と乖離する部分が必ず生じます(運動の源)。この「数学」の例えもそうです。しかしながら「A=A+非A+Aと非Aの境界」であるという「大前提」をいかなる思考の場所においても手放さなければ「解決」を必ず見ることになることだけ指摘させて頂き、ここからは離れます。(話の拡散をここでは避けるためです。詳細は「あおいのきせき」を是非ご参照ください。こちらに書かせて頂いているのは「さわりの概略」にすぎません。


■「あおいのきせき」の知見とは「存在の方程式」

Aという存在があるとすれば、非Aが必ず存在しなければならず、さらに、Aと非Aは絶対的に異なる存在であるからして、そこには境界が存在しなければならない

「あおいのきせき」の知見

ある存在が現れると、その存在を境界(ゼロ地点・中心)として、二つの全く相反する(正反対の)存在が(同時に)現れる。

「あおいのきせき」の知見

存在は意識に担保された対称的相補性を有する

「あおいのきせき」の知見

上の言説は「A=A+非A+Aと非Aの境界」を言い換えた同じ事です。


■動的宇宙を言葉で捕まえる

宇宙のダイナミズムの源泉はどこにあるのでしょうか。
再び「ルビンの壺」に戻りましょう。

「壺」は壺として、しかし「非壺」を「向かい合う横顔」と名付けて正確でしょうか?

壺の両側面だけに注目すれば、確かにそう見えます。

けれど上面と底面の部分を含めて非壺です。もし「向かい合う横顔」と名付けてしまうと、それは「間違い」になります。

これは対義語と対偶の問題です。

壺の反対(対義)は非壺であり、非壺とは壺ならざる全てを指示します。

非壺向かい合う横顔(←「理論物理学」で大問題になっている、いわゆる「対称性の破れ」がコレです)

ということです。

時空間に於いては、壺があることで、非壺が生じ、それに「気づき」「名付ける(例えば「向かい合う横顔」)=(理系文脈的に言えば、例えば、個体発生)するとそこから、「非壺」マイナス「向かい合う横顔」が溢れます。

それをなんと名付けましょう。
なんであろうと「名付ければ」また非「」が生じ。。。

これこそ宇宙のダイナミックに活動し続けるエネルギーの源泉です。
「比喩として」もご理解いただけますでしょうか?

ヒントはいろいろな角度から随分と書かせて頂きました。{「ここ」の他は、何処にも存在し得ません、(次元とは?)とかいったお話も}
更に、「ルビンの壺」の例えからは、何故「位置と運動量のどちらかしか計測不可能」なのかもわかります。つまり、壺を「見ている」ときは、非壺は「見えない」のです。
関係論だけで世界は「見えない」し、実体論だけでも世界は「見えない」のも、根拠を同じくします。(お大師様も、そのような「世界観」をご提示されていらっしゃいませんでした?)

上、マガジンを是非、お読みください。

ブラックホールの「向こう」には、
非波動マイナス物質、
非物質マイナス波動、
が、「溢れて」いると、
相成ります。

意識と名づけて。。。

■時間

宇宙が三態であること。

つまり、

意識(非A)と物質(=時空間宇宙)(A)が相互入れ子構造であり、
非時空間かつ非意識で、
時空間かつ意識である、つまり、レンマとして有る「有」と「無」の「間」
=
存在ありとあらゆる全てである意味フィールド(とでもいうべき場)
から
「意味」が「わたしの意識」と「わたしの身体(物質)」
を介する(≒言語化する)ことで、
いわゆるこの現実世界(時間と空間)を構成している、

ということになります。
意味(おそらくは「イデア」或いは「シニフィエ」)の発生において、時間は動き出し、この時空間に於いては共有された「主観」において時間は共有されうるのです。

時間は本来徹底して主観(私の意識に流れる)のです。
共有されない所謂客観時間とは、幻のごときものであるのは、ほぼ「常識」の反対でありましょうが、そう捉え直すことで、「科学」も大分見通しは良くなります。(ニュートン力学に於いては、時間は一つの客観として直線の前後と設定されていますが)

或いは、意識(空間)と源言語(時間)の境界を時空間宇宙とすると分かりやすい様に思います。

上、知見から考察されるこれらのことを大前提として物事を改めて考えると「わかることはすべてわかります」

現象を(数式を含む)言語によって抽象化して普遍を手に入れるのが、所謂「自然法則」や「物理法則」なら、その際、根本にある、採用すべき大前提が「あおいのきせき」の知見なのです。  

言い方を変えますと、

「現象」を「客体」という「(各々わたしとは別の)絶対」に押し込めた歪みが極限に顕現した問題であるので、

「現象」と「認識」の不可分であることを、ロジックで言い表し、また、それらのロジックが無批判・無自覚に採用している数々の「公理」「前提」を明示して検証を求めたのが「あおいのきせき」のひとつの役割になります。

是非、本編「あおいのきせき」をお買い求めの上お読みください。
「ものの考え方(論理学の基本と矛盾そして限界とレンマ)」という根本まで立ち返ってから、全部を網羅した「革命的」なものです。
「目から鱗が落ち」て「見なくても見える」様になります。比喩的に言えばですが、ちもろん「全ては比喩です」

いちどだまされたと思ってこの「比喩」で何でも見直してみてください。
まるで何でも切れる包丁のごとくです。これが「普遍」という事です。

そんな万能包丁なんかみつけられたら困ると、見えないモノに出鱈目な名前をつけて売りさばいていた方々、売りさばかれた方々が「邪魔」をしてもう21年に相成ります。

が、それが終わりになるのも「お分かりかと思います」

いまのところ、真理の言語化として、これ以上的確かつ簡潔に指示できたものはありません。

おっと。盗まれないようにしないとしないと!

この記事が参加している募集

物理がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?