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仏教から考える「いのちの食べ方」

大豆ミートなどの代用肉の登場や植物由来のものしか口にしない「ヴィーガン」の流行など、昨今、食への考え方は多様化しています。浄土真宗では、「食」をどのように考えるべきなのでしょうか。龍谷大学農学部で、「食と農の倫理」の講義などを教える玉井鉄宗先生に、仏教と科学という二つの視点から、お話を伺いました。

仏教は「食」から 始まった宗教である

ーー仏教において、「食」とはどんな存在だと思いますか。

玉井 これは私の個人的な解釈ですが、仏教は食べることから始まった宗教だと考えています。かつてお釈迦さまは、生老病死の現実を知り、自分自身の欲望に苦しめられ、なんとか悟りを開きたいと苦行された。

何も食さずに死にそうになったところを、スジャータさんという女性から乳がゆをもらいます。そのおかゆを食べ、心と体が生き返ったのちに、お釈迦さまは悟りを開かれています。まさに「食べる」ことがきっかけで、悟りを開かれたわけです。

他の生き物の生命を奪うことは、やってはいけないことです。でも、人間は生きる以上、食べなければならない。食べるためには他者の生命を奪わずにはいられない。その上で、人間としてどうやって生きていけるが仏教の出発点になっていると思います。

ーー︱仏教では、肉や魚を使わないも のの、肉や魚の食感や見た目を模し た、精進料理などが発展しています。これはどうしてなのでしょうか。

玉井 人は食物を摂取しなければ生きていけません。食を断つということは死を意味します。これは私の推測ですが、昔は肉や魚が貴重なもので、食べたくても簡単には食べられないものでした。そんな貴重なものをお坊さんが先んじて食べるわけにはいかないし、贅沢品を食べることへの抵抗もあったでしょう。

その食欲と向き合うために、肉や魚と似たような料理を作ったのだろうと思います。欲望を全否定するのではなく、欲望を制御しながら生きて行くところに、仏教の立場があると思います。

動物も植物も区別しなかった親鸞聖人

―― 一般的には「お坊さんは肉を食べ ない存在」というイメージがあります が、浄土真宗では肉食は禁止されていません。これはなぜでしょうか。

玉井 私は龍谷大学農学部で、植物栄養学を教えています。植物と接するなかで、日々感じるのが、植物も必死に生きようとする立派な生命だということです。植物はよくて、動物はダメだという線引きは、人間の勝手な思い込み以外の何物でもないと感じます。

動物も植物も等しく同じ生き物です。「殺すときに悲鳴を上げるか、上げないか」で区別するものではありません。仏教には、「無分別智」という言葉があります。これは分別を越えた智惠という意味です。仏さまは「動物・植物」という区別をせず、すべていのちあるものとして受け入れています。

「動物は食べてはいけないのに、植物は食べてよい」と振り分ける行為は、人間の浅はかなはからいです。そのことを、親鸞聖人はよく理解していた方だったのだと感じます。だから、親鸞聖人は、門徒の方からいただいた肉や魚を、植物と同じく、“いのちあるもの”として、感謝していただいたのではないでしょうか。


――肉も魚も、いのちに感謝してありがたくいただく。とはいえ、食欲に走りすぎるのもいけない⋮⋮。

玉井 奪い合ったり、むさぼったりして食べるのではなく、一つひとつを大切にして「いただく」という言葉が、ぴったりだと思います。

いのちを奪って申し訳ないという悲しみと、食べることへの喜び。この悲しみと喜びを同時に味わうことが食前に言われる「いただきます」という言葉だと思います。そして、この相矛盾した感情を同時に受け入れるのが、浄土真宗の「食」に対する考え方だと思います。

環境問題は他人ごとではなく私たち自身の問題

――最近は、大豆ミートなどの代用肉やヴィーガン食などが世界的に注目されています。

玉井 先ほど申し上げたように、「植物だから食べていい」と考えるのは、人間が勝手に引いた線引きに過ぎないと思います。ただ、ヴィーガンや脱肉食については、「動物のいのちを奪わないために、肉食を減らそう」といった生命に対する考え方だけではなく、環境問題が深くかかわっていると思います。

科学的に見ると、肉食は環境に負 荷をかける存在です。肉食用の動物 を育てるには、直接食べる量よりも 数倍多くの穀物や水などの資源が必要です。

今後、世界で人口がどんどん増えるなか、肉食がさらに進むと、牛や豚などを育てる飼料の必要量も増え、おそらく世界は食料不足にな るといわれています。加えて、畜産物 が出すメタンガスや二酸化炭素の排出による温暖化も懸念されています。

また、仏教の視点から見ると、「自他一如」といって、自分と自分に関 わる他者とを区別することができません。それは、人間と環境の関係も 同じです。環境は私たちが利用できる資源ではなく、私自身なのです。その自覚を持てば、環境問題や「脱 肉食」の動きは、どんな人にとっても、決して他人ごとではありません。

――では、私たちは、環境問題を自分ごとと考えるために、食とどう向き合えばいいのでしょうか。

玉井 私たちが日々食べ過ぎている肉の量を少し控え、野菜穀物を中心にした食事を増やしていくと、世界の環境を保護して、飢餓を抑制する効果はあると思います。

しかし、「植物性由来のものだけ食べたほうが健康に良い」と誤解される方も多いですが、栄養学的に考えると、ひとつのものに偏るのではなく、いろんなものをバランスよく食べるほうが体にはよい。健康に生きる上では、動物性たんぱく質もある程度必要ですので、そこは注意してほしいと思います。

農業家としても一流だった鏡如上人

――玉井先生は、龍谷大学の農学部で、「食」の大切さを教える授業を担当されているそうですね。

玉井 米や野菜、果物など、私たちは何気なく食べているものが、実はこんなに苦労して作られ、自分たちの口に入るのだ」と知ることができる。幅広い視点から「いのち・食・農」の問題を感じることができる、まさに龍谷大学農学部ならではの特徴的な授業だと思います。

龍谷大学農学部キャンパス

――授業を通じて、学生さんたちの「食」や「いのち」への意識は、どんな風に変わるのでしょうか。

玉井  以前、食に向き合うことの大切さを教える「食と農の倫理」という授業の冒頭で、「あなたに宗教は必要ですか」というアンケートを取ったことがあります。講義前は「必要ない」という学生が25%で、「必要」だと答えた学生は 35%。そして、「どちらともいえない」という学生が40%でした。

「必要ない」と答えた学生たちの意見としては、「宗教は殺し合いもするし、詐欺も多いし、ろくなものではない」「宗教がなくても生きていけるから必要ない」という意見も多かったんですね。

でも、龍谷大学農学部の学生たちは、非常に素直で真面目な人が多いので、授業を通じて、「食べるという行為」について、真剣に考えてくれるようになりました。また、授業を通じて、「人間がほかの生物からいのちをいただいて生きていく上で、宗教的な視点を持つことも必要なのではないか」と感じる学生も多かったのでしょう。

授業の最後に再び「宗教は必要だと思いますか」というアンケートを行うと、「必要だと思う」と答えた学生が6割にも達しました。

――現在、玉井先生ご自身が、食に対する課題として感じていることはなんでしょうか。

玉井 繰り返しになりますが、食は環境と強く結びついています。そして、環境や食は、私たちと同じ、いのちある存在です。だから、我々は環境や食を“自分ごと”として守っていく必要があるのです。

その対策の一環として、現在、私が研究するのが、循環型の農業です。これは、いままでゴミだとされてきたものを価値のある資源に変えていく取り組みです。

たとえば、滋賀県にある琵琶湖では、これまで水草が大量発生して困っていたのですが、この水草を農地に戻すと立派な肥料になることがわかりました。こうして、陸と湖の間の循環型農業の実現を試みています。

それとは別に、 1 9 0 3 (明治 )年に浄土真宗本願寺派第 代ご門主になられた鏡如上人(大谷光瑞)の研究も行っています。鏡如上人は、門主様としてご活躍する一方で、農業に対して非常に研究熱心な人物でした。晩年のパスポートを見ると、「agriculture(農業)」と記載していたほどです。

ーーそれほど農業と真剣に向き合っていた方だったのですね。

玉井  はい。鏡如上人は、実際に世界中を旅して、農園を作り、農業研究をされていました。また、農業の土壌から畜産まで幅広い題材を取り扱った『熱帯農業』という本も出していますね。

そのなかで鏡如上人が提案している農法に「立体農法」というものがあります。これは、畝の両側に深い溝を掘って作物の生育を促進するという農法です。私たちも大学でこれを実践したところ、化学肥料を入れずとも、ダイズが著しく大きくなりました。

こうした持続可能な農業の研究を行っていたことからも、鏡如上人は先見の明がある人だったのだな……と強く感じますね。今後、「食」を守るためにも、環境に負荷をかけない農業を実践していきたいです。

立体農法の様子


「いただきます」に秘められた深い意味とは

――最後に、私たちが、日々の食事をする際に、意識するべきことを教えてください。

玉井  いのちあるものをいただく上での「恩」を忘れないでほしいです。浄土真宗本願寺派の「食前の言葉」と「食後の言葉」は、まさにこの気持ちを的確に表したすばらしい言葉だと思います。

食前のことば(合掌)
● 多くのいのちとみなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。
○ 深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。

食後のことば(合掌)
● 尊いおめぐみをおいしくいただき、ますます御恩報謝につとめます。
○ おかげで、ごちそうさまでした

この言葉は、食べるという瞬間は、多くのいのちの犠牲の上に成り立っ ていることを表しています。

材料を作り、収穫した人や料理を作ってくださった人だけではなく、いろんな縁がつらなって、いま自分はご飯を食べることができる。その喜びの一方で、いろんないのちを奪っていく悲しみという複雑な思いを “恩”という言葉で表現している。これは本当にうまい表現だと思います。

さらにその“恩”を突き詰めると、なぜ私がここに生きているのかとい うところにもつながります。私がここで食事をするためには、私自身がここに存在する必要がある。

私が存在するためには、私が生まれる前には数多のご先祖さまがいます。その誰一人が欠けても私が生まれることはなかった。それは、材料を作ってくださる方や料理を作ってくださる方、そして私に食べられる食物も同様ですよね。

この考え方は、科学の「なぜこの現象が起こるのか」という原因を突き詰めていく方向性とまったく一緒です。

ーー「食べる」という行為につらなる、あらゆる縁への感情を形にしたのが、「いただきます」という言葉なのですね。

玉井 私自身も学生たちには、「龍谷大学農学部の学生である以上は、いのちの問題と向き合うべきだ。“いただきます”と“ごちそうさま”いう言葉の意味をしっかり考えてほしい」と必ず伝えています。

いまの社会の問題点は、こうしたつらなる恩を考えず、「儲け第一主義」に走っている点です。でも、より多くの人が「食」への恩を感じることで、自分を大切にし、他者を大切にし、環境を大切にする社会になってほし いと、切実に願っています。


玉井 鉄宗(たまい•てっしゅう)

龍谷大学農学部資源生物科学科講師。奈良県吉 野郡天川村沢原光遍寺住職。神戸大学大学院自然 科学研究科博士後期課程修了、博士(農学)。専門 は植物栄養学。博士研究員、高校教員を経て、現 職。龍谷大学農学部設立に当初から関わる。

※本記事は『築地本願寺新報』掲載の記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。

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