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わたし、わたし自身のために...


――
わたし、このわたしは、わたし自身のために
あなたの背きの罪をぬぐい
あなたの罪を思い出さないことにする。
わたしに思い出させるならば
共に裁きに臨まなければならない。
申し立てて、自分の正しさを立証してみよ。

――


今は昔の話として語りうる事柄となったから語るものであるが、かつて、私の愛した人はある者によって奪われた。

その者は、私の愛する人に対しても、私に対しても、大きな罪を犯した。

それはもはや取り返しのつかない間違いであり、生涯をかけても償いきれないような罪である………かもしれない。

それゆえに、上の一節に込められた「神の心情」というやつが、私にはよく分かる。

今は昔の、これというほど物珍しい人生談というわけでもないのだが、私は私自身と、私自身のような者とに犯された罪と、その罪のもたらした耐えがたい痛みにまみれながら、血を流して戦ったことがある。

それゆえに、上の言葉に込められた、「神の気持ち」が分かるというのである。


だからして、

信仰によってはっきりと言うものであるが、「思い出さない」ということと、「忘れる」ということとは、似て非なる行為である。いやむしろ、完全に性質を異にしたふるまいでしかありえない。

それから、

「赦す」という行為とは、罪によってもたらされた怒り、悲しみ、憎しみといった類の思いをば、無理矢理にでも打ち消そうとする行為のことでもない――

罪を犯した者の、罪を犯した後にあっても継続してみせる言動の一々はもとより、その者をその者あらしめるものをば是としたり、多としたりすることとも違う――

むしろ、犯された罪と、犯されたその罪に誘因されたようにして犯さざるを得なかったこちら側の失敗や、間違いによってもたらされねばならなかったすべての結果とあいまみえ、戦いたくとなくも戦いをば強いられ、強いられたくとなくも強いられ続け、だからこそ血を流し、血を流すことでもはや他者のものか自分のものか、見分けも嚙み分けもつかなくなったようなそれに、まみれるだけまみれさせられること――

そのような、生きているよりも死んだ方がずっと幸せだと思わねばならない痛みと懊悩のただ中にあって、ついに「思い出さない」という選択と決断に至ること――

これこそが、「思い出さない」という言葉の言意であり、道程であり、結果なのである。


私の愛する人を奪った者はけっして、その罪を認めようとしなかった。

恨むらくは、彼は終生、己の罪を知らず、失敗を悟らず、間違いを悔いることもなく、それゆえに罪なるふるまいを改めることもなければ、因をなすそのものから、その身を離れ去らしめることもないであろう………

彼のためには、内にも外にも堅固にして壮大なる”城”があって、彼はその城の中で、彼を是としたり、多としたりする者たちとに取り囲まれながら、のうのうと生き続け、そのようにして、生をまっとうするのであろう………

それゆえに、私は終生彼の口からは、私に向けたものは言うに及ばず、私の愛する者に向けた、たったひと言の謝罪の言葉をば、聞き及ぶことのないであろう………と思われる。


そういう人間について、私は長い間、その心の有り様(よう)と、その有り様の具象であるところの一挙手一投足について、さながら悪魔の所業のように、思わされて来た。

悪魔のような彼が、私や、私の愛する人と同じ人間であるという厳然たる事実について、苦しみ悶え、のたうちまわって来た。

私の信ずるように、彼の姿が悪魔そのものであり、悪魔の三下であるところ悪霊のそれであったのならば、私の心は、あるいは救われていたかもしれない。

さりながら、彼はあくまでも人間であり、この私や私の愛した人とも寸毫変わらぬいでたちをした、向こう三軒両隣にちらちらするただの人たるに過ぎなかった。

それゆえに、私は、私と同じただの「人」によってもたらされた罪による、もはやどうしようもなくなったような結果を、文字のとおり、どうすることもままならず、ただイタイ、イタイと叫び上げながら、総身からほとばしる血と、奪われた声のかわりに噴き上がる血と、かれきった涙のかわりに垂れ落ちる血反吐にまみれるしか手立てがなかったのである。


解放されたい、解放されたい、解放されたい…………

痛みから、怒りから、悲しみから、憎しみから、

苦しみから、咆哮から、涙から、血涙から、

罪から、悪霊から、悪魔から、悪魔の悪魔から、

そして、すべてを知りながら、すべてを許し、無情の傍観と、無慈悲の不介入を決めこんで、あまつさえ、すべてを睥睨し、まるで嗤っているかのような、わたしの神からも…………

もしも、

もしも死が、すべての痛みを癒しうるメシアであるのならば、

もしも死が、すべての罪と悪と、悪魔と神とからも、囚われた私の全身全霊を解き放つ救い主であるのならば、

私はイエスではなく、死をこそ私のキリストであるものと心に信じ、そのように全天全地にむかって告白し、そのようにして自ら死を選び、自ら死をかき抱く決断に、至り及んでいたことであろう。


が、幸か不幸か、良きか悪しきか、そのようなことにはならなかった。

他者のものであれ、自分のものであれ、罪は、私を捕らえながらも、私を滅ぼし尽くすには至らなかった。

可視のものであれ不可視のものであれ、悪は、悪霊は、悪魔の悪魔は、私の心身をぼろぼろにして、思うがままもてあそび、許されるかぎりの虐待と凌辱に及んだが、私の可視不可視のいずれの命にまで、近づき触れることはなかった。

すなわち、良きか悪しきか、私はいまだに分からないと言えば分からないのだけれども、「死」は、私を呑み尽くすことがなく、同じ死がわたしの神となることも、ついになかったわけである。

なぜとならば、

私は、己が罪であれ、他者が罪であれ、私の人生に否応なくもたらされたそれを、ただ、引き受けた。それが心に生んだ怒りや悲しみを、だれかに親切にしたり、だれかを憐れんだり、慈しんだりすることに、変えていった。

私が――?


これはいささか余談を含むが、私は罪と、悪と、悪霊と、悪魔の悪魔と――そのようなすべてが私とまったく同じ「人」に身をやつして、放埓のかぎりをつくし、弱き者、乏しき者、貧しき者たちから盗み取り、奪い取り、傷つけ、虐げ、苦しみ悩ませ、、という数多の光景をこの目で見、そんな数多の物語をも、この身をもって思い知らされて来た。

それゆえに、巷で人気の「イエス様」が、そのような罪と、悪と、悪霊と、悪魔の悪魔らの所業によってもたらされた、可視不可視の痛み、悲しみ、怒り、憎しみといったものから、けっしてけっして救い出してくれないこともまた、ことごとくこの目で見届け、この身をもって味わい尽くして来た、生き証人なのである。

であるからして、巷の愚者と悪者どもによってさながらアイドルのように推されているイエス様と、そんなイエス様のお名前によってアーメンと祈ったり、ハレルヤと歌ったりするような「推し活」のいっさいが、嘘であり、偽りであり、戯言であり、ガキの遊びであり、最低最悪の詐欺行為であり、あらゆるものを盗み取るための泥棒行為であり、死と結託した殺人行為であり、とどのつまり、罪と、悪と、悪霊と、悪魔の悪魔とによる「キリストごっこ」であることをば、

これまでももうなんどとなく言い続けて来たように、これからもずっと、言い続けることであろう。


私は知らなかった。

なにゆえに、こんなふうに書くのか、なにゆえに、いつまでも書き続け、なにゆえに、終わりもなきかのごとく、文字と言葉を書かされ続けるのか………

が、今とならば、その「なにゆえ」が、よく分かる。

どこへ向かっても、どこまで歩いても、永遠に明けない夜のようなただまっくらな闇の続く人生にあって、私の心にはなお、希望があった。

消えそうでも消えない、消されそうでもけっして消されることのない、希望が、私を捕らえていた。

私はただ、そこへ向かっていた。

ある時は自覚も意識も見当識も失ったまま、ただひたぶるに、その方へ、方へと、歩かされていた。

それはだれのためでもない、自分のためだった。

自分のため、そして、まるで自分自身のような、愛する人のためだった………

またそして、わたしはおまえで、おまえはわたしだというふうに宣言してでも、この私をば自分自身のように愛し、愛し尽くそうとするイエスの「愛」のために………


だから、冒頭の言葉、

「わたし、このわたしは、わたし自身のために…」

という言葉に込められた思いが、私にはよく分かる。

もしも私が死ではなく、消えそうでも消えない希望の方角へ歩みゆくとしたら、それは私と私に対して罪を犯し、その罪を悔いることも、改めることも、離れ去ることもしない「人」のためなんかでは、けっしてない。

罪や、悪や、悪霊や、悪魔の悪魔やがその身をやつした、そんな「人」のためなんかでも、けっしてない。

いわんや、まるでまるで希望や、愛や、信仰や、赦しやを具象化してみせたようにふるまいながら、その実、蜘蛛の糸でからめとった人々から可視不可視の富と生き血を吸い取れるだけ吸い取ろうとする詐欺師や、泥棒や、人殺しのためなんかでもない。

私は私のため、私と私の中に生き続ける私自身のような愛する人のために、ひねもす、私たちを苦しめ、悩ませ、傷つけ続ける者どもによる「罪」をば、「思い出さない」ようにする。


それが「赦し」というふるまいならば、私のため、私の愛する人のために、赦す。

私たちに罪を犯し、災いの種をばらまき、残していった者のためではなく、その後遺症にいまだに悩まされ続ける私たちを、日々くり返される痛みと、苦しみと、悲しみと、怒りと、憎しみとから解放するために、赦す。

私のため、私自身のため、私たち自身のためにそうするのあって、巷のイエス様がそう言ったからでもなく、そんな偶像に命を与えるためでもなく、けっして存在しない偽物のキリストの正しさをば、褒めたたえたりするためでもない。

私は、私と私の愛する人に罪を犯した者を赦すのは、私が生きるためである。

死ではなく、生によって、私たちがすべての痛み、悩み、悲しみ、怒り、憎しみから、解放されるためである。解き放たれるためである。もはや永遠に、自由になるためである。

生きるため、ただひたぶるに、永遠に生きるために、私は自他の罪を、可視不可視の咎を、間違いを、失敗を、「思い出さない」ことにするのである。


悪霊よ、この人から離れ去れ――という言葉のとおりに、私は、私と私の愛する人に罪を犯した者をば、東と西が離れているように、遠ざける。

悪魔よ、退け――という言葉のとおりに、私は、私と私の愛する人の心身をからめとろうとするこの世の偶像と、偶像礼拝にいそしむすべての者どもを、いっぺんの憐れみもなく徹底的に滅ぼし尽くすように、退ける。

そのようにして、

私は、これから、失ったもの、奪われたもの、盗まれたもの、奪い去られたものを、取り戻していく。

産めよ、増えよ、地に満ちよ――という言葉のとおりに、私はこれから多くの「子」をもうけ、恵まれ、授かっていく。

その地で二倍のものを継ぎ、永遠の喜びを受ける――という言葉のとおりに、失ったもの、奪われたもの、盗まれたもの、奪い去られたものは、ことごとく、二倍にして返される。そのとき、私は私の失ったと思っていた「子」が、「場所が狭すぎます、住む所を与えてください」と、私に向かって言うのを耳にして、驚きあやしみながら心に言う、「わたしは子を失い、もはや子を産めない身で捕らえられ、追放された者なのに、誰がこれらの子を育ててくれたのか」、と。


わたし、このわたしは、神に愛された者。

わたし、このわたしは、母の胎内に居た頃より、イエスに知られ、キリストの父なる神から選ばれて、その限りなき憐れみと慈しみの”霊”によって、この地に生を受けた者。

だからわたしは、このわたしは、それが他者の罪であれ、己の罪であれ、あるいはまた、わたしの神の罪であれ、なんであれ、ただ、私の人生に否応なくもたらされたそれを、引き受けた。それが心に生んだ怒りや悲しみを、だれかに親切にしたり、だれかを憐れんだり、慈しんだりすることに、変えていった。

そのようにして、わたし、このわたしは、たとえ生涯を費やしても、けっして償いきれず、もはやけっして取り返しのつかないような、自他の罪にまみれた可視の人生を生きながらでも、ずっと、ずっと、ずっと、不可視の人生において神に愛され、イエスに愛され、父なる神から愛され、愛され、愛しぬかれて来た。

それゆえに、

ただそれゆえに、

わたしは、このわたしは、わたし自身のために、自他の罪を我が可視不可視の人生から拭い、自他の可視不可視の咎のいっさいを、思い出さないようにする。

そのようにして、

ただそのようにして、

わたしは、わたしの神イエス・キリストと、けっしてだれにも育めない「愛」を、永遠に、育みつづけてゆくのである。


………はじめの頃の私は、まるで恋に落ちた少女のごとく、神とか、イエスとか、キリストとかいう存在に心魅かれた、無垢な、あまりに無垢なひとつの幼心(おさなごころ)たるにすぎなかった。

そんな初心な、あまりに初心な恋心は、いつしか、死に瀕した命を救うほどの「愛」へと、変わっていった。

わたしの心は、「恋」を知って、はじめて生きるものとなったように、

わたしの霊は、「愛」を知って、はじめて、永遠に生きるものとなったのだった。

だが、これはまた別の物語、別の機会に話すこととしよう。

神は愛である――という言葉のとおり、人が永遠に生きるのは、「愛」のためであって、それ以外のなにものためでもありはしない。

だから、「わたし、このわたし、わたし自身のために…」という言葉に込められた神の想いとは、この、「愛」なのである。



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