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映画エッセイvol.9

マイ・ブックショップ

あらすじ
1959年イギリスのある海岸地方の町。書店が1軒もないこの町でフローレンスは戦争で亡くなった夫との夢だった書店を開業しようとする。しかし、保守的なこの町では女性の開業はまだ一般的ではなく、フローレンスの行動は住民たちに冷ややかに迎えられる。40年以上も自宅に引きこもり、ただ本を読むだけの毎日を過ごしていた老紳士と出会ったフローレンスは、老紳士に支えられ、書店を軌道に乗せる。そんな中、彼女をよく思わない地元の有力者夫人が書店をつぶそうと画策していた。フローレンス役を「メリー・ポピンズ リターンズ」のエミリー・モーティマーが演じるほか、「しあわせへのまわり道」のパトリシア・クラークソン、「ラブ・アクチュアリー」のビル・ナイらが顔をそろえる。

小さな田舎町のマイノリティ
田舎町で起業する。本屋さんを開店させるということは、社会的に観ても少人数だし、田舎町においてもオンリーワンに近いほど少人数だ。そんな少人数なチャレンジャーに対してのマジョリティはいささか冷ややかであるパターンが多い。保守的と呼ばれている人たちだ。日本でもこういった保守的な地方は結構多いと思う。なぜこのような形になるのか。その1つとしては地方には稼ぐ力に乏しいという点にあると考えられる。低所得な地方は、健康的な生活、多様な文化に触れられる機会がないなどの問題点が挙げられる。普段の生活で手一杯なのだ。低所得という大きな要因から細かな要因があり、それらによって地方に閉鎖的、保守的な思考が蔓延しているのではないかと考える。

協力者
フローレンスには2人の協力者がいる。1人は、町で40年以上本を読んで暮らしている老紳士。書店の地主らしい。後に書店の顧客になる。経営の相談や、新規書籍の相談など、書店経営の柱となる。
もう1人は13歳のアルバイト、クリスティーンという女の子。クリスティーンは三人姉妹の末っ子。しっかり者で、本は読まないが、書店の雰囲気を気に入り、学校が終わった後に手伝っている。きちんと駄賃も請求してくる。

ないものはつくる
フローレンスはイギリスの田舎町に書店を設け、町に読書という文化を取り入れようとした。逆に権力で書店をつぶそうとしていた夫人は芸術センターを書店の代わりに建てようとしていた。芸術を取り入れるという点では一緒だが、トップダウンとボトムアップの差がある。
読書や映画は人に影響を与え、考えを持ったり、整理したりするためのツールになっていると考える。そのツールを町に取り入れようとしたことにどのような意味があるのだろうか。それは考え方の多様性を育みだすきっかけになるものであり、それをきっかけにして人々のアウトプット欲を高めていくことができるのではないかと。そのアウトプットはいずれ、著書にしろ、映像にしろ、絵画にしろ、芸術の発達に繋がり、最終的に地元の有力者夫人が作ろうとしていた芸術センターに近しいものがボトムアップとして生まれてくるのではないかと思うわけである。しかしながら、文化のないところにプラットフォームを作ったとしても誰も使ってくれなければ意味のないことで、近道ではあるが、浸透していきずらいものであると考える。
結局、このお話ではフローレンスは夢破れて、町を去ることになるが、アルバイトのクリスティーンがその後、書店の経営で小さな復習を果たしている。
あれ、こういうことなんじゃないか。あくまで自論。

あれ?リンクしてる?
フローレンスは町の大きな権力によって本屋を続けることができなくなり、町を離れることになる。あまりハッピーなエンドではないが、アルバイトのクリスティーンが後々、フローレンスのリベンジを果たすことになる。
僕の行きつけの映画館(ミニシアター)で最近事件があった。それは運営会社の圧力によって、映画館の要が削られ、それに伴って、従業員全員やめることになったのだ。半分ボイコットみたいな。地域に愛されていた分、残念に思う方が多かったようだ。いろんな大人の事情が関係しているのは分かるが、なんだか寂しい気持ちになってきた。映画館という箱は残っているものの、中身つまり温かさ、がすっぽりとなくなった感覚で、新しい従業員さんも入ってきたようだが、雰囲気がどうも暗い。それはフライヤーや場内装飾によく表れている。まあ、こんなことは、客の戯言でしかないのだが。
これまでのスタッフの方たちがどこにいってしまってどんな仕事をなさっているのかわからないが、どこかの映画関係の仕事でクリスティーンのように、リベンジを果たしていることを祈っている。

映画館の経営って難しいんだなあ…。


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