見出し画像

生きづらさ|横浜トリエンナーレ

6月上旬まで横浜みなとみらい地区で開催されている「第8回 横浜トリエンナーレ」。その規模の大きさとテーマの重さ、内容の充実度から、観終わった後に残る徒労感が特徴的です。ぜひとも元気な時に観に行きたいと思うのです。

 3年おきに開催される横浜トリエンナーレはいつも私たちに重くのしかかる。それぞれに強い力をまとったアート作品が群れをなして迫ってくる。今回のテーマは「野草」。決して目立たなくとも、たとえ踏まれようとも、折れない意思を表明している。それは執念とも取れる態度であって、観るものを圧倒する。消耗させる。引用元は魯迅(Lu Xun)の散文集のタイトルだという。形式も内容も様々な小作品の集まりがこのトリエンナーレ自体を想起させるだろう。中国文学者・竹内好氏いわく『野草』は「芸術的完成さでは魯迅のあらゆる作品中で第一位を占める」。しかし本展の本質は「魯迅の世界観と⼈⽣に対する哲学に共感するもの」だ。「無秩序で抑えがたい、反抗的で⾃⼰中⼼的、いつでもひとりで闘う覚悟のある⽣命⼒をも象徴して」いると、アーティスティック・ディレクター、リウ・ディン(劉鼎)氏と、キャロル・インホワ・ルー(盧迎華)氏は述べている。

 メイン会場となる横浜美術館の外壁面には、北欧の遊牧民・サーミ族の言葉で「彼らは決められた道を行かず、誰かが定めた秩序にも従わない」とのメッセージが掲げられている。いつの間にか国家に組み込まれ、分断されてしまった自らの先祖を振り返り、声を上げるヨアル・ナンゴ(Joan Nango)氏の作品だ。私たちは本来、その土地々々のものを食べ、素材を使い、技術を生み出しながら暮らしてきた。神奈川は鎌倉の竹を使った表現が、「私たちのもの」を思い出させてくれる。誰に奪われたわけでもないのに手放しがちな文化がある。会場に入れば一番目立つ大きさで、サンドラ・ムジンガ(Sandra Mujinga)氏の「出土した葉」が展示されている。「まるで古代と未来が複雑に重なり合う」作品は、「自分ではないもの」になった自分。そうやって、どうしようもない現実から離れて身を守ろうとする姿勢はアフロフューチャリズムにも通じるだろう。ムジンガ氏はポルトガル、フランス、ベルギーに翻弄された中央アフリカ・コンゴの出身だ。

 もっと身近な苦悩も多い。你哥影視社(ユア・ブラザーズ・フィルムメイキング・グループ)は、2018年の台湾で、勤務先の待遇改善を訴えて寮に立て篭もったベトナム人たちを再演できるよう、「宿舎」を構えた。外国人労働者とどう向き合っていくべきなのか。彼/彼女らは労働力不足が顕著なこれからの日本において、大切なパートナーになってくれる可能性が高い。いつまでも独りよがりな態度が自分たちの首を絞めることは明白なのだ。2021年のワシントンでは、パンデミックの最中にエッセンシャルワークを続けてくれた非正規移民を讃え、市民権を与えるべきだとプラカードが掲げられた。それを今回、写真で再現するジョナサン・ホロヴィッツ(Jonathan Horowitz)氏は「隅に追いやられた人びとの姿に光を当て、「見える化」するために、アートという手法を用い」るという。共に展示される土肥美穂氏の立体作品との対比が、向こう側とこちら側で見えている世界の違いを際立たせる。

 魯迅は「野草」に載せたテキストの一部が検閲によって削除されるほどに国民党政権を批判した一方で、比較的に豊かな暮らしをしていたという。中国共産党によって、聖人に祭り上げられる以前のことである。野草のように抗うも、体制の恩恵に預かる生活が自己矛盾を引き起こしていた様子は、著作の中にも見てとれる。「わが裏庭から、堀の外の二本の木が見える。一本の木は棗(なつめ)の木である。もう一本も棗の木である」。会場内の解説「鏡との対話」によれば、作品は「アーティストの姿を鏡のように映し出」すという。そして、「自分で想像した「自己」たる作品が同時に見知らぬ「他者」でもある、という分裂した状況が生まれる」ようだ。すなわち、制作活動を通じて行われる自分との対話が、自分を知り、新しい自分を創り出すことにつながる。そうやって自分に折り合いを付けながら生きるのがアーティストなのだろう。芸術の才覚を持ち合わせない私たちは、せめてこれを擬似体験させてもらいたいと思う。

 私たちは一つのものを、時と場合によって違うように捉える。アカデミー賞の舞台で白人同士が讃え合えばアジア人が無視されたと憤る一方、国内では外国人を取り残して日本人同士で会話を弾ませる。もちろん、そんなつもりはない。しっかりと自分と向き合わなければ気が付けないことが多いのだ。であるならば、アーティストの苦悩を追体験してみてはどうだろう。横浜トリエンナーレは国際港都という立地をアピールすべく、世界中のアート作品を集めるけれど、今回、共通して木版画作品が多いことに驚かされる。富山妙子氏の他に、中国のジョン・イエフー(鄭野夫)氏、ドイツのケーテ・コルヴィッツ(Käthe Kollwitz)氏、インドのトレイボーラン・リンド・マウロン (Treiborlang Lyngdoh mawlong)氏など、作家は出身も年代も様々。自らが彫る対象と、刷って出来上がる作品の表裏一体性が、もしかすると自己との対話を深めるのかも知れない。そこに刻み込まれる想いはどんなものなのか。表れた画から何を想うのか。考え始めれば、あっという間に飲み込まれてしまう。やはり、横浜トリエンナーレは心が元気な時に観に行きたいと思うのだ。

この記事が参加している募集

イベントレポ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?