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平和とはなんなのか?銀英伝のテーマでもある平和・反戦について考える

銀河英雄伝説のテーマの1つにやはり反戦・平和があると思います。
では平和とは具体的にどういう状態なのか考えたいと思います。
ヤンウェンリーの平和主義の矛盾(私はしてないと思うが)について考察していきたいと思うのですがその前提に平和と言う言葉の定義を明確化する必要があると思いました。
※かなり銀英伝と関係ない話題が続いたので興味が無い方はスルー推奨です。

①平和の定義

広辞苑(辞書)によると、「戦争や紛争がなく、世の中が穏やかな状態にあること」と記載されています。

反戦団体、International Alert の定義によるとさらに細かくて平和状態について、
・暴力の恐れや脅威を感じることなく、また、立法上のみならず実際の生活においてもすべての人が安全に暮らせる。
・すべての人が法の下において平等であり、司法制度が信頼でき、公平かつ効果的な法律が機能している。
・性別、人種またその他のアイデンティティに関わらず就労・生活する機会が平等に与えられている。
と定義してます。

こちらの定義だと、警察を信頼できない人は平和状態じゃないって事なんでしょうか?(^▽^;)

②戦争が無ければ平和なのか?

戦争が無い。
それはそれだけで素晴らしい事です。今のウクライナを見たらそれは分かります。火災で焼かれて死ななくていい、爆弾の恐怖に防空壕で震えなくてもいい。
それだけで戦争が無いという状態は歓迎するべきです。

しかし戦争さえなければ平和なのか。
民族同士の対立、自殺、貧困、身分制度、歴史認識問題、領土問題と世界を見渡せば多くの問題があります。
政治や宗教が対立を作り出してるから政治や宗教を無くせばいいと言う方も
居ますが、それは出来ないでしょう。
結局は人はなんらかのイデオロギーや観念・感情からは自由に成れないからです。
自分は何物にも洗脳されていないと信じるのは危険です。
仮に宗教や国家が無くても人は「愛するもの」「信じるもの」の為に争うのを辞めないでしょう。
軍隊が世界から無くなっても、人々は何かで争うでしょう。
腐女子のカップリング論争ですら嫌がらせや喧嘩の原因に成ってるのです。

仮に戦争が無くても、多様性が否定されたり、構造的な分断構造が固定化されていたり、弱者やマイノリティーが権利を主張したらおこがましいとか生意気(不逞)だとか言われてしまうならそれは平和だとは言えないでしょう。


③どうして戦争は起きて、平和は守られないのか。

ではなぜ平和は万人に価値があるのに戦争が起きるのでしょうか。
それは「平和のバイアス」という問題です。
どういう状況が平和なのかは人によって異なると言う視点が欠落しているのです。A国にとっても平和は必ずしもB国にとっての平和には成らないのです。
ラインハルトからすれば「無能な皇帝や将官らに牛耳られてぐずぐずしてるより、一気に大戦力で攻め込んで銀河統一をした方が平和になる」と考えるでしょう。
さらにヤンからしても「仮に戦争が回避できても、専制侵略国家が勝利して平和が訪れれば、それは同盟の敗北では無く民主主義そのものの敗北に繋がりかねない」と考えたのでしょう。
単純に「戦争をしない」だけでは平和状態であってもそれは平和の永続には成らない。むしろ戦わないことで人類は平和のために高潔な理念を失う可能性があると考えたのでしょう。


④「平和」の定義とバイアスに気を付けなければならない

これを現実世界で考えてみたいと思います。今の日本のマスコミの報道や日本政府の発表を聞いていると、「日本国民は平和を望んでいるが、中国やロシア・北朝鮮と言った覇権主義・独裁・権威主義の国々が日本の安全を脅かしている」と感じる人が多いと思います。
しかしこれも「平和のバイアス」なのです。
向こうの国からしたら日米同盟やNATOが脅威に思えるのです。

例えば、「台湾有事がある」という報道もそうです。
我ら日本人の視点からすると台湾(中華民国)が中国(中華人民共和国)にのまれないで自由と独立を維持した方がいいと感じます。台湾の多数派の人もそうでしょう。(一部で中共を支持する人も居ます)
(台湾でも保守の中華民国派と、左派の台湾正名独立派で分断がありますがここでは割愛)
しかし社会主義中国側からすると「中華民国・中国国民党の残党が不法占拠する台湾」は「本来は我が国の領土なのに、西側の不当な干渉によって分断されている」「アメリカと日本の一部勢力が台湾と中国を引き離す政治工作をしている」と見えるのです。
つまり中華人民共和国側からすると「西側によって分断された『2つの中国』(中華民国と中華人民共和国)が統一された」ときが平和なのです。

仮に中共(中国共産党)の人民解放軍が台湾に侵攻してもそれは中共側からすると「中国国内で軍部隊を移動した」「中華民国の反動勢力を平定した」
のであって侵略戦争とは呼べないのです。
つまり「台湾を回収しないと平和ではない。中国は2つに分断されている。」と中共からすると思えるのです。
つまり中国側からすると、「中国は平和を望んでいるが、日本やアメリカなど西側諸国が平和を妨害している」と見えるのです。
これが「平和のバイアス」です。
(※現に日本やアメリカは台湾を中華民国として国家認証していません)
日本国民(日本人)にとっての平和が、他国政府にとって平和とは限らないのです。

日本政府からしたら北朝鮮が民主化して、核兵器も手放した方が平和に成りますが、北朝鮮からすると核兵器を保有した方が国家や民族の独立の観点から平和になります。
そもそも北朝鮮が核兵器を持ってはいけないというルールは誰が作ったのでしょうか。

「力による現状変更に反対」という声明は良く聞きますが、「現状」とは何を指しているのかも問題です。
中共・中国政府側からすると「台湾が大陸本土と離れてる方が異常。」だからです。
アメリカ政府や日本政府が裏から手を引いて台湾の防衛力を強化する方が、北京からしたら「現状の変更」なのです。
また「現状の変更」が一切駄目なら、現状を先に作り上げて既成事実化した方が勝ちますし、竹島は韓国領土のままだし、北方領土もロシア領土のままです。日本政府が領土奪還をしたら「視点によっては力による現状変更」に成ります。

⑤ウクライナ戦争から見る平和のバイアス

ではウクライナ戦争を例に平和のバイアスを見てみましょう。
ロシア人がどうしようもない乱暴で、平和を理解しない野蛮人だから戦争が起きたのでしょうか? 確かにロシア人の封建性や武力信仰は大いにい影響したでしょう。しかしここにも平和のバイアスがあります。
それはウクライナからすると「ロシアからクリミアやドンバス地方を取り戻してNATOに加盟する」のが平和でしょう。
しかしモスクワからすると「ウクライナから西側諸国の影響力が排除されて、ロシアの間接的な衛星国になる。」事が平和なのです。
モスクワの視点からすると「ロシア帝国時代、ソビエト連邦時代、ウクライナは領土だった」のだからそこが離れて言ってアメリカやイギリスの影響下に置かれるのはどうしても許せなかったのでしょう。

ウクライナ民族がロシア民族と決別して自立するが、キエフや西ウクライナにとっての平和でした。
しかし親露派の多い東部やクリミア、モスクワからするとウクライナがロシアと親密なのが平和なのです。ベラルーシやカザフスタン、モンゴル国のようにロシアと友好的な方が良かったのです。

ロシア政府からすると「ベラルーシやカザフスタン、アルメニアなどは親露国家だ。どうしてベラルーシのように振舞えないのか」と考えたのでしょう。
(旧大東亜共栄圏の中でも、台湾やインドネシアは日本帝国主義に好意的な人が多くて、逆にシンガポール、ベトナム、フィリピン、韓国、マレーシアでは日本帝国に否定的な人が多いです。)
(※これらの問題は人口学者のエマニュエルトッドさんの書籍を読まれるのをお勧めします。)

⑥憲法9条に平和を守る力は無い

ここで大切なのが憲法9条そのもには平和を守る、戦争を防止する力は無いのです。
憲法とは国家権力を縛る大切な規律に過ぎないのです。
つまり憲法の理念は大切でも、憲法そのものは「紙とインク」「文字」に過ぎないのです。
一部には「文字に忠誠を誓うのが近代の法治国家」だとおっしゃる方もいますが、文字が効力を持つのはそれを神聖だと信じる人々が居てなのです。
とある宗教を信じる人が全員居なくなったらその宗教は消滅するのと同じです。
つまり戦争を回避を第一にしたいという思いの人が多数派に成らないと回避できないのです。不平等条約を押し付けられたり、領土問題や歴史認識で敵国に妥協してでも、戦争だけは回避すると世論の大半が思った時に回避されるのです。
精神論に聞こえるかもしれませんが「結局は法の支配も、心の問題」なのです。
憲法そのものには魔法も超能力もありません。

聖書(大歴史書)やコーランもそれ自体は真理を伝えようとしていても、
結局は解釈によってどうにでもなる「紙とインク」なのです。
真理を解析度を落として文字で伝えようとしていても、文字が真理では無いのです。

日本国憲法9条が「戦争をしない」「軍隊を持たない」と書いてあると思っている人が多いですがそれは違います。
憲法9条は「国際問題の武力を用いた解決を永久に放棄」「それのための陸海空軍は保有しない」と書いてあるのです。
つまり国際問題の解決の手段としての戦争(介入戦争)や軍隊を否定していて、自衛戦争や自衛戦力(防衛軍)は否定していないのです。
自衛隊や日米同盟、集団的自衛権に対して最高裁判所で違憲判決が出たことはありません。
またどの国の憲法も侵略戦争を否定した平和憲法なのです。
どの国の憲法も読んだら美しいことが書いてあります。

日本国憲法だけが、憲法9条的な内容を持っているわけではないのです。
憲法さえ守れば平和になることは無いし、逆に憲法改正してもそれだけでは国防力はアップグレードしないのです。
さらに言うと憲法改正したら戦争になるとか徴兵制になるとかも無いです。

そもそも日本国は軍事大国のアメリカの軍事力に防衛されて、その核兵器の核の傘のもとに居るのです。
憲法9条を理由に「日本は平和国家だ」と主張しても、日米同盟や米軍基地、領土問題があるならば、ロシアや中国のような国からしたら二重基準に思えるでしょう。

まとめ  平和とは立場と視点で異なる

長くなって申し訳ございません。
銀英伝とあまり関係ない話でしたね。
しかし「ヤンウェンリーの平和」について考察するにはやはり平和の定義が必要でした。
「平和の為に」「平和を守ろう」とは聞こえはいいのですが、(実際に平和は大切)この言葉にはあらゆる物事を正当化させる危険性もはらんでいます。

平和と言う言葉を聞いても、
誰にとっての平和なのか? どの立場による平和なのか?
という事を考える必要があります。

敵国側を「平和の破壊者」と決めつけて、平和を守るためにと称して特定の国家に憎悪を燃やすならそれは結局は「平和を求めるための闘争」になります。
揶揄で、悪魔を信じる者よりも、神を信じる者によって起こされた戦争や殺戮の方が多いと言われてますが(私はその彼らにとっての神が悪魔だったと思いますが)、「侵略のための戦争よりも、平和の名のもとに行われた戦争の方が多い」と思っておいた方が良いと私は思ってます。

平和主義とは時に「あの国は平和を望んでいないから野蛮」だと決めつけてしまい「平和のための憎悪」を可能性があります。
敵は戦争を望んでいるが、私達は平和のために闘っている。というバイアスも平和バイアスでしょう。
「戦争や差別のない、永遠の世界平和」とは一見するとよく思えますが、
それはキリスト教的な千年王国思想やイスラム教徒のイスラム帝国思想のような宗教的なドグマ(誰も疑わない原理)に成りかねません。
戦争や差別が一切存在しない世界とは「反乱戦争や差別すらできない、言論の自由ゼロの暗黒社会」で墓場の平和かもしれないのです。

「平和のために他人を攻撃する」という矛盾はだれしもが陥ると思います。

そして次回からは「ヤンウェンリーは平和主義者なのに結局は民主主義の理念の為に多くの同盟軍人を死なせたでは無いか」という矛盾についての反論の核心についていよいよ迫っていきたいと思います。




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