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落ち着きのないわたしが発達障害の診断を受けない理由

お疲れさまです、きなりです🍥
今回はちょっとセンシティブな話です。表題の通り発達障害について言及しますので、抵抗のある方は閲覧をお控えいただけますようお願いします。

これまでわたしの「落ち着かなさ」をひとつの題材として記事を書いて参りました。その「落ち着かなさ」っぷりにギョッとする場面もあったかと思います。

実際に、わたしの言動をご覧になった方で「もしかして発達障害なの?」と聞いてくださる方がいます。(気にかけてくださりとっても嬉しいです✨)

正直なところ、自分が発達障害なのかどうかは診断してないので分かりませんし、これからも診断するつもりがないので一生分からないままだと思います。

ただ、自分の「落ち着かなさ」を自覚するようになった頃—―高校生、大学生くらいの頃は、ちゃんとした病院で診断を受ける必要があるのではないかと思っていました。

特に、初めての就職を控えていた大学4年生の時は、いっとう不安が大きかったです。仕事中、自分の「落ち着かなさ」が大きな壁になって迫ってきたらどうしよう……と。

学生時代の自分を振り返れば、うまくいったことなんて何一つない。自分なりに努力をしても報われなかった。努力の仕方が間違っていたからなのかも。けどもーがんばることに疲れた。これ以上はできない。人の目を気にして息を吸っていたくない。できない子ってレッテルを貼ってほしいな。そうしたら、何もしないで許される気がする。

学生時代のブログから引用(現在は閉鎖)

そんなとき母にぽつんと「わたしって発達障害なのかなあ。診断受けようかなあ」とぼやいたことがあります。母は顔色一つ変えず「仮に発達障害だったとして、きなりに対する態度はなんも変わんないよ」と一息に言ってくれました。

現在なら問題発言になりかねないこの発言ですが、教員として何百人もの生徒たちを見てきた母親だからこそ言えることなのだと思います。彼女の発言の意図は、以下のふたつがあるんだろうと推察してます。


意図①発達障害だからと言って世間の風当たりがよくなるわけではない

母の教え子の中には発達障害、あるいはその疑いがある生徒が何人もいたようですが、その子たちが理解のない大人たち、及び社会にどれだけ苦しめられたかを彼女は知っています。

というのも”世間”というものは、今日に至るまで、発達障害を始めとした何らかのハンディキャップを持っている人間に対して寛容ではないです。

ここでの”ハンディキャップ”とは障害に限らず、性格や思想や趣味や来歴など、人間を構成する要素のすべてです。特に現代は「誰しも心の余裕がない」と言っても過言ではない時代だと思っているので、何かにつけては他者から攻撃されかねない時代です。

そのような中で、自分が発達障害であることを自覚し、公表したところで、誰かの優しさを期待するだけしかたないじゃん。というのが、母の発言の意図のひとつだと思います。

意図②発達障害だからといってあなたに接する私の態度は変わらない

母自身、もとより「公平」な人です。母の受け持つクラスに当事者がいても、その生徒だけに対して過剰に厳しくしたり、優しくしたりするなどといったことはなかったようです。

他のクラスメイト(言ってしまえば定型発達)と同様に扱い、できないこと・苦手分野につまづいた本人が困ってしまったらケアをする。勿論、つまづいた生徒が発達障害じゃなくても同じこと。障害の有無では対応を変えるのではなく、ひとりひとりの生徒を”個人”として向き合った結果そうなった、と母は言います。

発達障害を抜きしても、あるべき人間の姿なのだと思います。他者のできないこと・苦手分野について、不平不満を言ったり、できるように強制するのではなく、できる立場にある身として手助けをしてあげること。

例として、話をすこぅしだけ逸らしますが、わたしが以前住んでいたシェアハウスは、自身にとって理想的な集団行動が出来ていました。「自分は○○(何かしらの家事)ができないから、できるひとでやってほしい」と言えば、誰かがやってあげる。できるひとが誰もいなかったら、他の方法を考えるかみんなで協力してやる。誰もできない人を攻める人はいませんでした。だから、少なくともわたしは、そのシェアハウス内での自分の「落ち着かなさ」に悩まされることはなかったです。

そんな母のことばが背中を押す

上述の通り、母の「なにも変わらない」という発言は、「発達障害だからと言って世間の風当たりが変わるわけではない」という一種の落胆と、「障害を持つ子もそうじゃない子も同等に幸せになるコミュニティ(クラス)を作る」という教育者としての決意の、ふたつの意図があったのだと捉えています。

耳触りはとっても軽くて、中身はとっても重たいそのことばは、母からの贈られたひとつの教示としてわたしの胸に残っており、その思想を引き継ぎたいと考えています。「できない・苦手」がある人物を歓迎しない社会の中でも生きていかないといけない。そんな社会を変えることは容易ではないけれど、わたし個人の行動は変えられる。相手がどんな人であれ、他者の「できない・苦手」に寛容な人間になるんだ、と。

その”相手”がわたし自身であっても同様です。自分の「できない・苦手」を内省するのに”自分が発達障害かどうか”は不問にする。これが、当該の診断を受けないわたしなりの理由です。

(もちろんこの考え方を他者には強要しません。また、発達障害の診断を受ける方を卑下しているわけではありません。むしろ自分を知る一つの方法として尊重しています。この考え方はあくまでわたし個人のこだわりなのです。常に自分に発破をかけて生きていたい。)

最後に:お詫びとあとがき

本日の記事はここまでです!
ちょっとセンシティブな内容になってしまったかと思います💦

最後に、自身が発達障害という診断を受けていないという事実を公表することに併せて、これまでの記事の内容についてお詫びです。

これまで更新してきたnote内の表現で懸念していることがあります。

①「”落ち着かない”自分」というぼやけた呼称により、
 発達障害などの当事者だと認識しかねない表現をしたこと
② 当事者ではない(可能性がある)のにかかわらず
 「発達障害・ADHD・HSP」のタグを使用し、記事を発信したこと

非・当事者による上記の行動は、読む人によっては不快に思われるのではないかと思っております。

①②については今のところご指摘を頂いておらず、「わたしと似た困りごとを持っている人」の力になればという思いから、自分で自分を黙認して継続しています。

しかし、もし今回の内容を踏まえて思うところある方おりましたら、これまでの記事も含めて、今後の運営方法を改めることを視野に入れております🙇‍♂️

以上になります!
note設立時から、いつか説明しようと考えていたのですが、遅い申告になってしまったことについてもお詫びいたします。
こんなわたしですみません💦
またあしたからも、どうぞよろしくお願いします🍥



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