見出し画像

【中国農民起義領袖伝】王匡・王鳳


西汉末年,封建统治阶级和官僚地主疯狂地兼并土地,贪官污吏巧取豪夺,加紧了对农民的残酷的经济剥削和政治压迫,逼得人民有“七亡(无)七死”而无一得一生。

前漢の末年、封建統治階級と官僚地主は狂ったように土地を併合し、汚職官吏は巧みに富を奪った、農民に対する残酷な経済搾取と政治的圧迫を強化し、人民に「七亡(無)七死」(七つの災いと七つの死)があっても一生に一得もないように追い詰めた。

 阶级矛盾异常尖锐,小规模农民起义不断发生。 大地主阶级为了维护其摇摇欲坠的统治,就把大政治骗子王莽抬出来,打着改革政治的招牌欺骗群众。 

階級間の矛盾は非常に鋭くなり、小規模な農民蜂起が絶えず発生した。大地主階級はその動揺した統治を守るために、大政治詐欺師の王莽を持ち上げ、政治改革の看板を掲げて大衆をだました。

王莽乘机发动宫廷政变,夺取了汉朝政权,改国号为“新”。 王莽上台后推行的是一条“克己复礼”的儒家反动路线,在政治改革的招牌下,大搞复古倒退活动。 在“收复绝属,存亡续废”的旗号下,大封诸侯王,复辟分封制。

王莽はこれに乗じて宮廷クーデターを起こし、漢朝政権を奪取し、国号を「新」に改めた。王莽が登場してから推進したのは「克己復礼」という儒家反動路線で、政治改革の看板の下で復古倒退活動を大いに行った。「収復絶属、存亡続廃」の旗の下で、諸侯王を封建し、封建制を復活させた。

 他以禁止土地和奴隶买卖为借口,宣布“王田私属制”,即按井田制)的规定把全国土地收归国有,更名为“王田”,把私人奴隶改名为“私属”,实际是废除了封建土地所有制,恢复了奴隶主既占有土地,又占有奴隶的井田制,要把汉代的封建制社会,拉回到西周时期的奴隶制社会。

彼は土地と奴隷の売買を禁止することを口実に、「王田私属制」、すなわち井田制)の規定に基づいて全国の土地を国有にし、「王田」と改名し、私奴隷を「私属」と改名し、実際には封建土地所有制を廃止し、奴隷主が土地を占有し、奴隷を占有する井田制を回復し、漢代の封建制社会を西周期の奴隷制社会に引き戻そうとした。

王莽还采取一套搜刮人民的经济政策,建立了“五均六管”,实际是把国家控制物价,统一调运物资和借贷大权,交到官僚,商人,高利贷者手里,使他们可以利用国家机构囤积居奇,操纵物价,大放高利贷,残酷地剥削人民。王莽还多次改革币制,滥铸铜钱,对人民进行野蛮掠夺,造成“农商失业,食货俱废”的恶果,破坏了社会的正常生产和人民的正常生活,遭到人民的强烈反对。

王莽はまた、人民からかき集める経済政策をとり、「五均六管」を確立した。王莽はまた何度も貨幣制を改革し、銅銭を乱鋳し、人民に対して野蛮な略奪を行い、「農商が失業し、食料がすべて廃棄される」という悪果をもたらし、社会の正常な生産と人民の正常な生活を破壊し、人民の強烈な反対を受けた。

为了转移视线,王莽又发动了对兄弟民族的掠夺战争,引起了兄弟民族人民的反抗,增加了内地人民的负担。人民已经是财竭力尽,无法生活,又加上水利长期失修,自然灾害连年不断,农田荒废,农民倾家荡产。

それから目をそらすために、王莽はまた兄弟民族に対する略奪戦争を始め、兄弟民族人民の反抗を引き起こし、内地人民の負担を増やした。人民はすでに財力を尽くしたので生活することができず、また灌漑が長期にわたって修理されず、自然災害が年々続き、農地が荒廃し、農民は財産を使い果たし家を傾けた。

山东,河南,河北,湖北等地尤为严重。 有很多地区都出现了“人吃人”的现象。 

山東、河南、河北、湖北などは特に深刻で、多くの地域で「人が人を食べる」現象が出現した。

在王莽复古反动政权的残酷剥削,掠夺下,荆州地区人民的粮食早已被搜刮一空,平原上的草根,树皮都吃光了,广大穷苦农民只好扶老携幼,成群结队逃入绿林山(今湖北大洪山),靠挖野菜充饥度日。 

王莽復古反動政権の残酷な搾取、略奪の下で、荊州地区の人民の食糧はとっくに空になっていた。平原の草の根、樹皮はすべて食べ尽くして、広範な貧しい農民は老人を助けて子供を連れて、群れをなして緑林山(今の湖北大洪山)に逃げ込み、山菜を掘って飢えをしのいで暮らすしかなかった。

可是,灾情越来越重,山里人陆续增多,野菜也被挖光,人民眼看着就要饿死。 新市(今湖北京山)人王匡,王凤也和穷苦的饥民一起来到绿林山,经常向群众宣传只有起来造反才能求得生存的革命思想,得到群众的信任与拥护。

しかし、飢饉はますます重くなり、山の中には人が増え続け、山菜も掘り尽くされ、人民は飢え死にしかけていた。新市(現在の湖北省京山)の王匡は、王鳳と貧しい飢えた人々と一緒に緑林山に登った、彼らは造反を起こしてこそ生き延びることができると革命思想を常に大衆に宣伝し、大衆の信頼と支持を得た。

 在他们的宣传,鼓动下,几百人的起义队伍很快就组织起来了。 大家共推王匡,王凤为渠帅(大帅),在公元十七年(天凤三年),举起了反对王莽政权的革命大旗。

彼らの宣伝、鼓舞の下で、数百人の起義の隊伍はすぐに組織された。みなが王匡と王鳳を渠帥(首領)に推し、西暦十七年(天鳳三年)、王莽政権に反対する革命の大旗を掲げた。

 王匡,王凤领导的这支革命队伍,因为起义于绿林山,便称为绿林军。 不久,南阳的马武,颍川的成丹也加入到革命队伍中来。

王匡と王鳳の指導する革命の隊伍は緑林山で起義したので緑林軍と称される。やがて南陽の馬武、衿川の成丹も革命隊伍に加わった。

 数月之间,起义军就发展到七,八千人。 他们凭借绿林山区的险要地势,开展了武装斗争。 公元二十一年(地皇二年),王国率领农民军在云杜(今湖北沔阳西北)附近痛歼王莽的荆州军,斩敌数千,缴获敌人全部作战物资,取得了重大胜利。 

数ヶ月の間に、起義軍は7、8千人に発展した。彼らは緑林山間部の険しい地勢に頼って、武装闘争を展開した。西暦21年(地皇2年)、王国は農民軍を率いて雲杜(現在の湖北省沔陽西北)付近で王莽の荊州軍を痛撃し、敵の数千を斬り、敵のすべての作戦物資を分捕り、重大な勝利を収めた。

起义军又乘胜攻下竟陵(今湖北天门),云杜,安陆。 当起义军凯旋回到绿林山区时,队伍已扩展到五万多人。 新公元二十二年夏,起义军遭到疾病的袭击,无法在山里坚持。下去,王匡,王凤又根据形势的变化,采取新的措施,决定走下山来,向面积广阔,物质丰富的平原进军。 

起義軍はまた勝利に乗じて竟陵(現在の湖北天門)、雲杜、安陸を攻略した。起義軍が緑林山に凱旋した時、隊伍は5万人以上になっていた。西暦二十二年夏、起義軍は疫病に襲われ、山の中で勢力を堅持することができなくなった。王匡、王鳳はまた情勢の変化に基づいて、新しい措置を取って、山を下りて、面積が広く、物質的に豊かな平原に進軍することにした。

命令成丹带领一支起义军西去南郡(今湖北江陵),称“下江兵”。王匡,王凤,张卬率领主力军进入南阳地区,称“新市兵”;平林(今湖北随县北)人陈牧等也聚众一千多人起义响应,号称“平林兵”。 

成丹に起義軍の一支を与えに西の南郡(現在の湖北省江陵)へ行くよう命じ「下江兵」と称した。王匡、王鳳、張昂が主力軍を率いて南陽地区に入り、「新市兵」と称した。平林(現在の湖北随県北)人の陳牧なども集まって千人以上が起義し、「平林兵」と号した。

革命的波涛,在湖北,河南地区滚滚流动,最后终于汇成巨浪,冲垮了王莽的复古反动政权。

革命の波は湖北省、河南省を渦巻いて流れ、ついに大波に合流し、王莽の復古反動政権を押しつぶした。

 “一从大地起风雷,便有精生白骨堆。

大地に風雷 起りて一従,便ち精の 白骨の堆より生ずる有り。(一従大地起風雷:大地から、強烈な衝撃力の暴風とかみなりが起こって。便有精生白骨堆:妖しいものが白骨のうずたかく積もったところから生じていた。(革命に反対する勢力が頭を擡(もた)げてきた。))毛主席の詩七律 和郭沫若同志より

”在革命的急风暴雨之中,难免泥沙俱下,鱼龙混杂。 一些豪强地主,官僚,贵族也打起“反莽”的旗号,乘机混进了革命队伍。 破落贵族刘玄就混进了平林军,南阳地区的大地主兼商人,旧贵族刘𬙂・刘秀兄弟,抱着复辟地主政权的野心,在南阳拼凑了一支军队,号称“春陵兵”,参加了新市兵。 

革命の激しい暴風雨の中では、良いものも悪いもの入り混じる。一部の豪強な地主、官僚、貴族も「反莽」という旗印を立てて、機に乗じて革命隊伍に紛れ込んだ。没落貴族の劉玄は平林軍に紛れ込み、南陽地区の大地主兼商人で、旧貴族の劉縯・劉秀兄弟は、地主政権復活の野心を抱いて、南陽で軍隊を集め「春陵兵」と称して、新市兵に参加した。

在当时,面对着王莽反动政权,王匡,王凤采取容纳刘缤,刘秀和一切反莽力量的策略,是符合革命发展需要的,因为它壮大了革命力量,孤立了敌人。 但从此,在革命队伍内部埋下了定时炸弹,时时威胁着革命队伍的生存。 

当時、王莽反動政権に直面して、王匡、王鳳は劉縯、劉秀とすべての反莽の力を収容する策をねった。それは革命の発展の需要に合致させ、革命の力を強大にして、敵を孤立させるためである。しかしそれ以来、革命隊の内部に時限爆弾が埋められ、常に革命隊の生存を脅かしてきた。

公元二十二年冬,绿林军在批水(唐河下游)又打了个大胜仗,一举消灭了王莽反动军队十几万人,并乘胜包围了南阳首府宛城(今河南南阳)。 绿林军的节节胜利,进一步鼓舞了广大群众。 

西暦二十二年冬、緑林軍は沘水(唐河下流)でまた大きな勝利を収め、王莽反動軍十数万人を一挙に消滅させ、南陽の首府宛城(現在の河南南陽)を勝利に乗じて包囲した。緑林軍が次々勝利した事は、広範な大衆をさらに鼓舞した。

为了最后消灭王莽政权,需要建立一个具有权威的统一领导机构,于是建立政权问题就提到日程上来了。 但是,绿林军建立政权,并不是一帆风顺的,而是经过了激烈的斗争。

そして王莽政権を最終的に消滅させるためには、権威のある統一統治機構を作る必要があり、政権樹立の問題が日程に上がった。しかし、緑林軍の政権樹立は、順風満帆ではなく、激しい闘争を経た。

 当时,一些钻进革命队伍内部的地主阶级野心家,为了夺取农民革命胜利成果,炮制出了“刘氏复兴”的谶语,大造反革命舆论。 这种反动宣传,在农民军中有很大影响。 因此,在绿林军建立政权时,就一定要立一个姓刘的当皇帝。 然而,在立那一个姓刘的当皇帝的问题上,展开了激烈的斗争。

当時、革命隊列の内部に潜り込んだ地主階級の野心家たちは、農民革命の勝利の成果を勝ち取るために「劉氏復興」という不吉な予言.をでっち上げ、革命世論を大いに裏切った。このような反動宣伝は、農民軍の中で大きな影響を与えた。そのため、緑林軍が政権を樹立する際には、劉姓の皇帝を立てなければならない。しかし、劉姓の皇帝を立てる問題では、激しい闘争が繰り広げられた。

 混进革命队伍內部的南阳地主集团,主张立刘𬙂;而以王匡,王凤为首的农民将领主张立刘玄。 农民将领认为,刘玄单身投入平林军,人单势孤,不敢违背农民的意志,而刘缤有南阳地主集团作支柱,有舂陵兵作后盾,有复辟地主政权的野心。 

革命隊の内部に紛れ込んだ南陽地主集団は、劉縯を立てることを主張した。王匡、王鳳をはじめとする農民将校は劉玄を立てることを主張した。農民将校は、劉玄が単身平林軍に投入され、孤立無援で、農民の意志に背く勇気がないと考えた、しかして劉縯は南陽地主集団の支柱であり、舂陵兵を後ろ盾にし、地主政権を復活させる野心を持っていた。

因此,王匡,王凤一马当先,坚持要立刘玄;而南阳地主集团一定要立刘𬙂。 两种意见相持不下,争论不休。 这时王国,王凤就想出了个果断的对策,他们先召集农民将领开会,在会上作了立刘玄的定,然后在大会上宣布了这一决定。 

そのため、王匡、王鳳は先頭に立って、劉玄を立てることを堅持した、南陽地主集団は必ず劉縯を立てなければならない。双方の意見が対立して互いに譲らず、議論は絶えることはなかった。その時王匡、王鳳は思い切った対策を考え出した。彼らはまず農民将校を集めて会議を開き、会議で劉玄を立てることを決定をした後、大会でこの決定を発表した。

刘𬙂一看大势已去,就想出个拖延战术,他振振有辞地说:“赤眉军在山东势力很大,王莽政权还没有消灭,现在最好称王不称帝,等将来局势稳定了,再立皇帝也不晚。

劉縯は大勢が既に去ったのを見ると、引き延ばしの戦術をとった、「赤眉軍は山東省で勢力が大きく、王莽政権はまだ消滅していない。今は王と称して帝と称しないほうがいい。将来情勢が安定してから、皇帝を立てても遅くない。と。

”刘𬙂这个毒计很清楚,是为他将来篡夺农民政权打掩护。 农民将领一眼就看穿了他的阴谋诡计绿林军创始人之一张印愤怒地拔出宝剑,往地上一击,大声地说:“对必成的事情有怀疑,就不能成功,今天的事情就这样决定了,不能再有其它议论。

劉縯のこの毒策は、将来の農民政権を簒奪するための物であった。農民の将校は彼の陰謀を一目で見抜いた。緑林軍の創始者の一人の張印が怒って宝剣を抜いて地面を打ち、「必ず成し遂げるということに疑問があれば、成功することはできない。今日の事情においてこのように決定したので、再び議論を起こす必要はない。」と大声で言った。

”王匡,王风坚决支持张印的革命行动,煞住了南阳地主集团妄图篡夺农民政权的逆流,于公元二十三年五月十一日,立刘玄为皇帝,建年号为“更始”,表示农民军将要从头做起,建立新的天地,王匡被封为定国上公,王风被封为成国上公,仍然掌握着农民军的领导大权。 

王匡、王鳳は張印の革命行動を断固支持し、南陽地主集団が農民政権を簒奪しようとした逆流を食い止めた。西暦二十三年五月十一日、劉玄を皇帝とし、建年号を「更始」とした。農民軍が一から新たな天地を築くと表明した。王匡は定国上公、王風は成国上公に封じられ、依然として農民軍の指導権を握っていた。

绿林军在建立政权后,人心振奋,士气高涨,王匡,王凤决定乘此革命大好时机,向王莽反动政权开始新的进攻。 王匡指挥围攻宛城的主力军发动了猛烈的攻坚战。 

緑林軍の政権樹立後、人心が奮い立ち、士気が高まった。王匡、王鳳はこの革命の好機に乗じて、王莽反動政権に新たな攻撃を開始することにした。王匡は城を包囲攻撃する主力軍を指揮して猛烈な宛城攻略戦を始めた。

王凤则率领一支起义军向北挺进。 起义军进展神速,势如破竹,很快就拿下了昆阳(今河南叶县),定陵(今河南舞阳北),郾城(今河南郾城南)等县城,给王莽反动政权以沉重的打击。 

王鳳は軍を率いて北へ進んだ。起義軍は急速に進展し、破竹の勢いで、すぐに昆陽(現在の河南葉県)、定陵(現在の河南舞陽北)、郾城(現在の河南省郾城南)などの県城を獲得し、王莽反動政権に大きな打撃を与えた。

阶级斗争的规律证明:反动派决不甘心他们的失败,他们还要最后的垂死挣扎,这是必然的,毫无疑义的。 这时的王莽,象赌场上输红眼的赌徒一样,要把所有剩余的赌本付诸一掷,他要倾全国的兵力,去镇压绿林军。

階級闘争の法則は、反動派は決して彼らの失敗を甘んじないことを証明している。彼らは最後の断末魔のまで悪あがきをするのである。これは必然であり、疑う余地はない。この時の王莽は、賭博で負けて目が血走る賭博師のように、残りのすべてを賭けなければならなくなった。彼は全国の兵力を傾けて、緑林軍を鎮圧しようとした。

 公元二十三年五月,王莽调集各地“精兵”四十二万,号称百万,事先选好几百名懂得“兵法”的大师,带上诗书,武器,充当军中的参谋,气势汹汹,“旌旗辎重千里不绝”,由王寻,王邑指挥向绿林军猛扑过来。

西暦二十三年五月、王莽は各地の「精兵」四十二万を集め、百万と呼ばれ、事前に「兵法」を知っている数百人の大師を選んで、詩書、武器を持たせ、軍の参謀とした。恐ろしく勢い込み、「旌旗は千里を越えず」と言うほどで、王尋、王邑の指揮で緑林軍に飛びかかってきた。

这时,由王凤率领向北挺进的一支绿林军,首当其冲。而对着飞扬跋扈,疯狂不可一世的凶恶而强大的敌人,应该怎么办?当时在起义军内部发生了严重分歧。有的主张分散隐蔽,保存实力;有的主张利用昆阳城小而坚,易守难攻的条件抗击王莽军。

この時、王鳳が率いて北へ進んだ緑林軍が先頭に立った。跋扈し、狂ったような凶悪で強大な敵には、どうすればいいのだろうか?当時、蜂起軍内部では意見の対立があった。ある主張は分散して隠蔽し、実力を保存する、昆陽城は小さくて堅固で、攻撃しにくく守りやすいことを利用して王莽軍に抵抗するという主張である。

在这关键时刻,

“主观指导的正确与否,影响到优势劣势和主动被动的变化。 ”《毛泽东选集》第458页)

如果分散兵力,容易被各个击破,只要王凤率领的这支队伍被打垮,包围宛城的绿林主力军将直接受到王莽军的攻击,有被消灭的危险。

この時のカギは、

「主観の指導が正しいかどうかが優勢、劣勢および主動、受動の変化に影響する」。『毛沢東選集』です。

兵力を分散すれば、各個に撃破されやすく、王鳳率いるこの部隊が打ちのめされれば、宛城を包囲する緑林主力軍は王莽軍の攻撃を直接受け、壊滅する危険があった。

相反,收缩兵力,坚守昆阳,寻找战机,有可能取得胜利。王凤冷静地分析了当时的形势,决定坚守昆阳,采取积极防御的方针,下令把八,九千农民军都集中在昆阳城内,完成了战略收缩任务,准备握紧拳头,打击敌人。王凤还利用王莽军初到昆阳,包围尚未严密的时机,派宗佻,李轶,刘秀等十三人,在晚间突围,去郾城,定陵请援兵。刘秀等突围成功,使昆阳反包围战取得了初步主动权。

逆に兵力を集結させ、昆陽を守り、戦機を探せば勝利する可能性がある。王鳳は冷静に当時の情勢を分析し、昆陽を守り、積極防御の方針をとることを決定し、8、9千の農民軍を昆陽城内に集中させ、戦略的な集結任務を完成させ、拳を握りしめ、敵に打撃を与える準備をした。王鳳はまた、王莽軍が昆陽に初めて来たことを利用して、包囲がまだ厳重ではないことを利用し、宗佻、李逸話、劉秀ら13人を派遣して、夜に包囲を突破して、郾城に行って、定陵に援兵を要請した。劉秀らは包囲突破に成功し、昆陽の反包囲戦の初動の主導権を得た。

狂妄骄横的王邑把昆阳包围了几十层,王莽军人喊马叫,钲鼓喧天,声闻几十里以外,数丈高的云梯俯视着昆阳城内,挖地道,撞城门的王莽军忙乱不停,箭头象雨点一样向城内飞落,城里人外出打水,都要顶着门板,以防箭伤。 

傲慢で傲慢な王邑は昆陽を何十層も包囲し、王莽軍人は馬は叫び、鉦や太鼓が天を騒がせて、何十里もの外を聞た。数丈の高い雲梯は昆陽城内を見下ろして、地下道を掘り、城門にぶつかった王莽軍は安増攻めた。矢印は雨のように城内に飛んで落ちて、住民は外出して水を汲むのにも、矢の傷を防ぐために戸板を持って行った。

王邑得意忘形,认为不费吹灰之力,就能攻下昆阳,把城内军民斩尽杀绝,好去请功领赏。 但是,反动派总是过高估计自己的力量,过低地估计人民的力量。 坚守昆阳的几千名起义军战士,在王凤的指挥下,在全城人民的大力支持下,精神抖擞,斗志昂扬,以坚韧不拔的意志,连续打退了敌人的猖狂进攻。

王邑は得意になり、苦労せずに昆陽を攻略し、城内の軍民を殺して、功を得て賞をもらうことができると思いあがった。しかし、反動派はいつも自分の力を過大評価し、人民の力を過小評価している。昆陽を守り抜いた数千人の起義軍兵士は、王鳳の指揮の下、全都市人民の強力な支持の下で、颯爽として、闘志を燃やして、粘り強い意志で、敵の狂気じみた攻撃を連続的に撃退した。

 王莽军已是精疲力尽,小小的昆阳城仍然屹立不动。 在紧急关头,刘秀等请来了援兵。 这时,王国指挥的绿林军主力已在三天前攻下宛城,消息传到昆阳,起义军受到极大的鼓舞,给王莽反动军队在精神上以沉重打击。

王莽軍はすでに疲れ果てており、小さな昆陽城は依然としてそびえ立っている。緊急の時、劉秀らは援兵を呼んできた。この時、王国王匡が指揮していた緑林軍の主力は3日前に宛城を攻略した、これは昆陽に伝えられ、起義軍は大きく鼓舞され、王莽反動軍に精神的に重撃を与えた。

 城外的援军象猛虎下山一样,从背后插入敌阵,以擒贼先擒王的战术,冲进了王邑的指挥部,杀死了双手沾满人民鲜血的刽子手王寻,敌军顿时大乱。 王凤在城里率领起义军冲杀出来,里外夹击,呼声震天,起义军无不以一当百,杀得王莽军抱头鼠窜。

城外の援軍は猛虎が山を下りるように、背後から敵陣を突入し、まず賊の王を捕らえる戦術で、王邑の本陣に突入し、両手が人民の鮮血にそまった処刑人の王尋を殺し、敵軍はたちまち大乱した。王鳳は城の中の起義軍を率いて突撃し、中と外で挟撃し、叫び声は天を震撼させ、起義軍は1人が100人に当たれるほど強く、王莽軍は頭を抱えて逃げ出した。

 凑巧,天气突变,狂风呼啸,雷声轰鸣,天昏地暗,大雨如注,滍川(沙河)满漕,洪水四溢,王莽败军自相践踏,死伤无数,掉到水里淹死的就有一万多人。 昔日威风凛凛的王邑,早已吓得闻声丧胆,只带着几个小卒,狼狈逃命去了。 

運が悪く、天気が急変し、暴風が吹きすさぶ、雷がとどろく、空が暗く、大雨が降り注ぎ、滍川(砂河)は満ち溢れ、四方で洪水が起き、王莽の敗軍は踏みにじられ、死傷者は無数で、水に落ちて溺死したのは1万人以上だった。昔は威風堂々としていた王邑は、すでに驚いて声を聞いて肝をつぶし、何人かの小兵だけを連れて、狼狽して逃げて行っていた。

昆阳大捷,起义军缴获了王邑军的全部军事辎重,壮大了自己的力量,奠定了推翻王莽政权的基础。 从此,王莽军一蹶不振,主动权已掌握在农民军手中。 昆阳大捷,是毛主席表彰过的以少胜多,以弱胜强的著名战例,是推翻王莽政权的决定性战役。 

昆陽の大勝で、起義軍は王邑軍のすべての武器装備を分捕り、自己の軍事力をを強化し、王莽政権を倒す基礎を築いた。その後、王莽軍は不振に陥り、主導権は農民軍の手に握られた。昆陽の大勝は、毛主席が顕彰した小勢が多勢に、弱いものが強いものに勝つ有名な戦例であり、王莽政権を倒す決定的な戦いであった。

昆阳大捷表明,为正义而战的农民军是真正的英雄,表明了王凤是具有很高军事指挥才能的杰出的农民领袖。 但是,农民英雄在中国战史上所创出的奇绩,过去的封建史学家,却完全记在刘秀的账上,说是刘秀指挥了昆阳战役。 其实在昆阳大战时,刘秀只不过是个“偏将军”,真正的统帅是王凤,而不是刘秀。

昆陽大勝は、正義のために戦う農民軍が真の英雄であることを表明し、王鳳が軍事指揮の才能の高い傑出した農民指導者であることを示した。しかし、農民の英雄が中国の戦史上に作り出した奇績は、過去の封建史家は、劉秀が昆陽の戦いを指揮したと劉秀の記録に完全に記されている。実は昆陽大戦の時、劉秀はただの「偏将軍」にすぎず、本当の統帥は劉秀ではなく王鳳だった。

 昆阳大捷,革命人民无不喜气洋洋,奔走相告。 但是,正在人民欢庆自己的胜利的时候,以刘缤为首的南阳地主集团,却又掀起反革命夺权的恶浪,他们错误估计形势,想利用刘缤,刘秀在宛城和昆阳战役中立了战功,声望有所提高的时机,乘势夺权。 

昆陽で大勝し、革命人民は喜びにあふれ、走り回って互いに報告した。しかし、人民が自分の勝利を祝っている間に、劉縯をはじめとする南陽地主集団は、反革命的な権力奪取の悪波を巻き起こした。彼らは情勢を誤って推定し、劉縯を利用しようとしたが、劉秀は宛城と昆陽の戦いで戦功を立て、声望が高まったタイミングで権力を奪取した。

刘𬙂的死党刘稷音竟公开扬言:“我们起兵图大事,就是为了伯升(刘𬙂)兄弟,更始是个什么东西。”表示不承认更始政权。刘稷甚至猖狂到抗拒更始政权的命令。 面对着刘𬙂集团反革命夺权的盤张气焰,王匡挺身而出,领导着农民军将领,给刘𬙂集团以迎头痛击,立即逮捕了刘稷。 

劉縯の死党劉稷音は意外にも「私たちが兵を起こして大事を図ろうとしたのは、伯昇(劉縯)兄弟のためであり、更始(帝)とはどんなものか。」と更始政権を認めないことを表明し、劉氏は更始政権の命令を狂ったように拒絶した。劉縯集団の反革命権力奪取の気炎に直面して、王匡は身を挺して、農民軍の将校を指導して、劉縯集団に首脳部を痛撃して、直ちに劉稷を逮捕した。

原来隐藏在幕后进行指挥的刘缤,见刘稷被捕,竟公开跳出来反对。 农民军遂又逮捕刘缤,并把他们判处了死刑。 这时,善于“克己”的刘秀听说他哥哥刘縯被杀,马上由前线回到宛城,向农民军诸罪。

舞台裏に隠れて指揮を執っていた劉縯は、劉稷が逮捕されたのを見て、公に飛び出して反対した。農民軍はまた劉縯を逮捕し、彼らを死刑にした。時に、「克己」的な劉秀は兄の劉演が殺されたと聞いて、すぐに前線から宛城に戻り、農民軍対し清罪をした。

 阴谋家刘秀回宛城大耍“韬晦”之计,既不给他哥哥服丧带孝,也不和刘縯的部下私自交谈,“饮食言笑如平常”,经常对人说自己有过错,表示愿意改悔。 刘秀这种“以屈求伸”的两面派手法竟起了作用,刘玄就上了他的当,认为刘秀已经很“老实”了。 

陰謀家の劉秀宛城に帰ると「韜晦」の計を弄し、彼の兄に喪に服して親孝行をしたり、劉演の部下とプライベートで話をしたりせず、「いつものように食べて笑い」、常に人に自分には過ちがあると言い、悔い改めようとした。劉秀のこのような「退くと見せかけて実際は前に進む」という面従服背の手法が意外にも作用して、劉玄は彼にだまされて、劉秀はすでに「服従した」と考えた。

不仅没有杀他,反而拜他为征虏大将军,封武信侯。 不久又派刘秀到河北去招收农民军,给刘秀以独立发展的机会。 绿林军在镇压了刘𬙂,刘稷之后,内部更加团结,形势对革命更加有利。 

そして彼を殺すどころか、征虜大将軍と拝み、武信侯を封じた。やがて劉秀を河北省に派遣して農民軍を募集し、劉秀に独立発展の機会を与えた。緑林軍は劉演、劉稷を鎮圧した後、内部はより団結し、情勢は革命により有利になった。

这时,河北农民军铜马,青犊等部已摧毁了王莽政权在河北的统治,赤眉军已消灭了王莽军在东部地区的有生力量。 在这革命大好形势下,绿林军决定向王莽反动政权发动最后一击。 

この時、河北農民軍の銅馬、青犊などの勢力はすでに王莽政権の河北での統治を破壊し、赤眉軍は王莽軍の東部地区での権力を消滅させた。この革命のすばらしい情勢の下で、緑林軍は王莽反動政権に最後の一撃を加えることにした。

这时,已陷入灭顶之灾的王莽,在农民军已打到长安的时候,还根据《周礼》关于“国有大灾”,用哭可以压下去,“告天以求救”的说教,率领文武百官,大小喽罗,到长安南郊去祭天。

この時、すでに壊滅的な被害に陥っていた王莽は、農民軍がすでに長安を攻撃するとき、『周礼』の「国有大災」の泣くことで抑えることができ、「天に告げて救いを求める」という説教に基づいて、文武百官を率いて、大小の手先を伴って、長安南郊に行って天を祭った。

 他仰着头对天说:皇天啊! 你授命我王莽当皇帝,为什么不帮助我消灭农民军? 说罢就和文武百官,大小喽罗嚎啕大哭。 但是,王莽的祭天丑剧刚刚收场,更始元年(公元二十三年)九月一日,起义军就攻进长安,长安居民群众也起义响应,火烧宫门,高喊“反虏王莽,何不出降”的口号,冲进皇宫。

彼は天に向かって言った:天よ!あなたは私の王莽を皇帝にするように命じたのに、どうして私が農民軍を消滅させるのを助けてくれなかったのですか。言い終わると文武百官と、大小の手下や子分が号泣した。しかし、王莽の天を祭る茶番劇は幕を閉じたばかりの、更始元年(西暦二十三年)九月一日、起義軍は長安に攻め込み、長安住民大衆も起義して応え、宮門を燃やし、「反逆者王莽よ、どうして降参しないのか」というスローガンを叫んで、皇居に突入した。

 面对着潮水般涌进来的起义群众,王莽早已吓得发抖,但他还要装腔作势,学着孔丘的腔调说:“天生德于予,汉兵(绿林军)其如予何?”说罢,就连滚带爬逃上了四面环水的渐台。 农民军把渐台包围数百重,最后捉住王莽,斩首示众。 

潮のように押し寄せてきた起義群衆に直面して、王莽はとっくに震えていたが、彼はまだ気取っていた。孔丘の口調を学んで、「生まれつき徳は予にあり、漢兵(緑林軍)は如何にするのか」と言った。そう言って、転がるように四方に水をたたえたの漸台に逃げた。農民軍は漸台を数百重に包囲し、最後に王莽を捕まえ、斬首して見せしめにした。

毛主席说:“那些封建皇帝的城池宫殿还不坚固么?群众一起来,一个个都倒了。”《毛泽东选集》第125页)

毛主席はこうおっしゃった。封建君主たちのあの城や宮殿は堅固ではなかったか?だが、大衆が立ちあがると、つぎつぎにつぶれてしまった。

尊儒复古的“新”王朝,终于被农民起义军葬入了坟墓。 王莽政权被消灭后,更始政权很快就迁都长安,刘玄到了长安以后,马上就被糜烂的宫廷生活所陶醉,彻底暴露出他的腐朽没落的阶级本性,他“日夜与妇人饮熟后庭”,不问政事,农民将领要会见他,他就用侍者坐在帏幕里冒名顶替,政权完全控制在地主阶级代言人赵荫,李松等一伙人手里。 

儒教復古の「新」王朝は、ついに農民起義軍によって墓に葬られた。王莽政権が消滅した後、更始政権はすぐに長安に遷都し、劉玄は長安に着いた後、すぐにただれた宮廷生活に陶酔され、彼の腐朽した没落した階級の本性を徹底的に暴露した。彼は「日夜婦人と酒を飲んでいた」、政事を顧みず、農民の将校が面会を求めると、彼は侍者を幃幕の中に座らせて皇帝を語らせた。政権は地主階級の代弁者趙蔭、李松などの一団の手に完全に抑えられた。

王匡,王凤等农民将领受到排斥。 地主分子李淑对刘玄说:“陛下起家虽然靠着衣民军的力量,那只是临时利用一下而已,不可能长久依靠他们。”现在应该“厘改制度,更延英俊”,农民将领是管理不了政治的。 

王匡、王鳳などの農民将校は排斥された。地主の李淑は劉玄に、「陛下のご起家は衣民軍の力によるものだが、それは一時的に利用しただけで、長く彼らに頼ることはできない。今は「制度を改め、永俊をさらに伸ば」すべきで、農民将校では政治を管理できない。といった。

这就是要改变农民政权的性质,把被打倒的官僚,地主再扶上台,要搞反革命复辟。 刘玄虽然没有敢公开地接受李淑的意见但是暗中却在酝酿着屠杀农民将领的阴谋。 更始政权已从代表农民利益的政治机构,转化为地主阶级镇压农民的暴力机器。 

これは農民政権の性質を改変し、打倒された官僚、地主を再び台頭させ、反革命の復活を図るということである。劉玄は李淑の意見を公に受け入れる勇気はないが、ひそかに農民将校を虐殺する陰謀を企んだ。更始政権はすでに農民の利益を代表する政治機構から、地主階級が農民を弾圧する暴力機械に転化したのである。

绿林军创始人王匡,王凤和张印等农民将领,在进入长安后,仍然保持农民阶级的本色,坚持革命斗争,在他们的管辖地区,对官僚,地主坚决进行打击和镇压。他们手下的官员都是“群小贾竖(劳动人民,小商贩)”,“膳夫人(厨师)”,政权还掌握在劳动人民手中。

緑林軍創始者の王匡、王鳳、張印などの農民将校は、長安に入った後も、農民階級の本領を維持し、革命闘争を堅持し、彼らの管轄地区で、官僚、地主に対して断固として打撃と鎮圧を行った。彼らの部下の役人はみな「群小賈立(労働人民、行商人)」、「膳夫人(コック)」であり、政権は労働人民の手に握られている。

 王匡,王凤等对于刘玄的荒淫腐化,对赵荫等人的专横跋扈,十分反对,对更始政权的变质,感到痛心。 他们想说服刘玄离开长安,摆脱腐朽的宫廷生活,回到荆州老根据地继续革命,遭到刘玄的拒绝。 

王匡、王鳳などは劉玄の荒淫腐敗と趙蔭らの専横に対して、厳しく反対して、更始政権の変質に対して、心を痛めていた。彼らは劉玄を説得して長安を離れ、腐敗しつくした宮廷生活から抜け出し、荊州の旧根拠地に戻って革命を続けようとしたが、劉玄に拒絶された。

张印等人就想要把刘玄劫出长安,谁知消息泄露,刘玄竟动了杀机,他先后用计将农民将领证进宫中,杀害了申屠建,陈牧,成丹等人,王国,张印等机警地发觉了刘玄的阴谋,得以逃出虎口。 

張印らは劉玄を長安から連れ去ろうとしたが、情報が漏れ、劉玄は殺意を抱いた。彼は前後して計を用いて農民の将校を宮中に召し出し、申屠建、陳牧、成丹らを殺害した。王匡、張印などの機敏に劉玄の陰謀に気づき、虎口を脱出することができた。

刘玄又派赵荫率军攻打王匡,张印的驻地。 于是,更始政权内部复辟与反复辟的斗争,变成了公开的内战,双方在长安连战月余,王匡,张印等兵败后退出长安。 原来想和绿林军合作的赤眉军,看到更始政权已经变质,便向西发动了进攻,这时已进军至离长安很近的高陵。

劉玄はまた趙蔭を派遣して軍を率いさせ王匡、張印の駐屯地を攻撃した。そこで、政権内部の復古と反復古の闘争が始まり、公然とした内戦となり、双方は長安でひと月あまり連戦した。王匡、張印らは敗北し長安を後にした。緑林軍と協力したいと思っていた赤眉軍は、更始政権が変質しているのを見て西に進攻をはじめ、この時に長安に近い高陵まで進出した。

 斗争促使真正革命者团结起来。 王匡,张印遂与赤眉军联合进攻长安。 已成了孤家寡人的刘玄,走投无路,只好向赤眉军投降。 后来被赤眉军处死,落了个遗臭万年的可耻下场。 王匡,王凤,张印等与赤眉军联合推翻刘玄的复辟政权后,仍坚持革命斗争。 

闘争は真の革命者の団結を促した。王匡、張印は遂に赤眉軍と連合し長安を攻撃した。孤立無援の劉玄は、途方に暮れて赤眉軍に投降するしかなかった。その後、赤眉軍に処刑され、遺臭万年の恥ずべき末路に落ちた。王匡、王鳳、張印などは赤眉軍と連合して劉玄の復古政権を倒した後も、革命闘争を堅持した。

直到公元二十七年,随赤眉军一起撤出长安,在崤底,宜阳被刘秀的军队镇压下去。 王匡,王凤发扬大无畏的革命造反精神,领导绿林军艰苦奋战,直接推翻了王莽的复古反动政权,沉重地打击了豪强地主的腐朽势力,使大批奴隶,农民得到解放,缓和了土地高度集中和大批农民沦为奴隶的社会矛盾,为历史发展作出了贡献。 

西暦二十七年までに、赤眉軍とともに長安を撤退し、崤底と宜陽は劉秀の軍隊に鎮圧された。王匡、王鳳はなにも恐れることのないの革命造反精神を発揚し、緑林軍を指導して刻苦奮闘し、王莽の復古反動政権を直接倒し、豪強地主の朽ち果てた勢力を重撃し、大量の奴隷、農民を解放し、土地の高度集中と大量の農民が奴隷に転落する社会矛盾を緩和し、歴史の発展することに貢献した。

王匡,王凤领导的反对王莽复古政权的斗争,

王匡、王鳳が率いる王莽復古政権に反対する闘争は、

“可以证明中国人民是不能忍受黑暗势力的统治的,他们每次都用革命的手段达到推翻和改造这种统治的目的。”(《毛泽东选集》第586页)

中国人民は暗黒勢力の支配に甘んずるものではなく、そのつど革命的手段によって、そうした支配の打倒や変革の目的をたっしてきたことが証明できる。

但是,由于时代和阶级的局限性,王匡,王凤对于混进革命队伍内部的地主阶级野心家的斗争不够坚决,不够得力,使刘玄,刘秀等人得以篡权复辟,达到他们利用农民战争作为改朝换代的工具的目的,这个历史教训应该引以为鉴。

しかし、時代と階級の限界のため、王匡、王鳳は革命隊列の内部に紛れ込んだ地主階級野心家の闘争に対して断固として得ず、対立する力が足りなかった、劉玄、劉秀らは農民権力を奪って復壁し、彼らが農民戦争を王朝交代の道具として利用する目的を達成した、この歴史的教訓は参考にすべきである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?