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イギリスへ旅に出たら、その朝食に「幸せ」があった

イギリスへ旅に出ても、その「食」については、ほとんど期待していなかった。

あの村上春樹も、かつてこんなことを書いている。

イタリアから来ると、ロンドンで金を払ってレストランに入ろうという気がまず起きない。悪いとは思うのだけれど、率直に言って自分で作ったほうがまだおいしい。

村上春樹『遠い太鼓』389ページ、講談社文庫

ロンドンだけでなく、イギリスの料理は美味しくない、という話はよく聞いていた。

それをすべて信じていたわけではないけれど、これだけ多くの人が口を揃えるのだから、ある種の事実なのだろう。

あるいは、僕が今までイギリスへ行くことがなかったのも、そんな料理に対する負のイメージがあったからかもしれない。

でも、ふとウェールズへ行きたくなり、だからイギリスへ旅に出た。

そして、そのイギリスの地で、僕は思いがけないものに心を奪われることになる。

ロンドンの街並みでもなく、ウェールズの古城でもなかった。いや、どちらにも魅せられたけれど、もっと魅せられるものがあったのだ。

なんと、それはイギリスの「食」だった。

それも、イングリッシュ・ブレックファスト、イギリスの朝食に心を奪われたのだ。


最初の朝食(ロンドン)

イギリスで最初に朝食を食べたのは、ロンドンで泊まったホテルだった。

大英博物館に近く、立地は抜群に良いとはいえ、半地下にある部屋はあまりに狭く、ちょっとがっかりしながら目が覚めた。

そのまた地下にあるダイニングに下りていくと、紅茶とシリアルが出され、さらに、すべての料理が一皿に盛られた朝食が運ばれてきた。

本当に目が覚めたのは、その朝食、イングリッシュ・ブレックファストを口に運んだときだったかもしれない。

ふんわりと柔らかい目玉焼き、歯ごたえのある焼き心地のベーコン、甘さが溶けていくベイクドビーンズ、じゅわっと果汁が溢れ出る焼きトマト、程良いほくほく感が優しいハッシュドポテト……。

決して豪勢な朝食ではないし、格別珍しい料理があるわけでもない。

それなのに、味わっているだけで心が温まっていくような、この美味しさはなんなのだろう。

たぶん、イギリスの朝食の美味しさに僕が目覚めたのは、そのロンドンの朝だったのだ。

2回目の朝食(コヴェントリー)

イギリスで2回目の朝食は、イングランド中部のコヴェントリーという街で食べた。

ホテルは朝食なしだった。付けることもできたけれど、日本円で2000円以上もするので、節約のために付けなかったのだ。

でも、あの朝食の美味しさを知ってしまうと、どうにも食べたくて仕方がない。

そこで、朝から開いているカフェを探すことにした。

Googleマップで検索すると、意外とたくさん出てくる。向かったのは、街の中心の広場に面した、小さなカフェだった。

もちろん注文するのは、イングリッシュ・ブレックファストだ。値段は1400円ほどと、ホテルに比べるとだいぶ安い。

やがて運ばれてきたのは、大きなお皿にすべての料理が盛られた、まさに「フル・ブレックファスト」だった。

目玉焼きが2つに、ベーコンとハッシュドポテト、ベイクドビーンズ、この日はソーセージに、マッシュルームまである。もちろん、トーストも。

どこまでも素朴で、限りなくシンプル。だけどそれは、お腹がいっぱいになるだけでなく、心まで充足感で満たしてくれる、魅惑の一皿だった。

3回目の朝食(カーディフ)

次に向かったのは、ウェールズの首都・カーディフだった。

ここでもホテルは朝食なしだった。ところが、レセプションにいる笑顔の可愛らしい中年女性が、盛んに朝食を勧めてくる。

それならと、朝食を付けてもらうことにした。

翌朝、ダイニングのテーブルに着くと、イングリッシュ・ブレックファスト……ではなく、ここはウェールズだから、ウェルシュ・ブレックファストが運ばれてきた。

といっても、すでに親しみを感じられるようになってきた、今までの朝食とほとんど変わらない一皿だった。唯一、ブラックプディングが盛られているのが、初めての点だったかもしれない。

その朝食を食べながら、ふと、これは何かと似ているな、と思った。

そして、気づいた。日本の民宿やビジネスホテルで出る朝食に似ているんだ、と。

白いご飯に、焼き海苔、焼き鮭、玉子焼き、お味噌汁……。

代わり映えはしないけれど、いや、代わり映えがしないからこそ、それを味わうだけで、気持ちがホッと和らいでいく。そんな飽きない美味しさが、どちらの朝食にもあるような気がした。

4回目の朝食(バンガー)

もしも世界に「完璧な朝食」というものがあるとしたら、このバンガーで食べたウェルシュ・ブレックファストこそ、それに近いものだったかもしれない。

バンガーは、ウェールズ北西部の小さな港町だ。田舎の風情が香るその町で、僕は大学に付属するホテルに泊まっていた。

嬉しかったのは、朝食がバイキング形式で、自由に料理を盛り付けられることだった。

この朝、僕は人生で初めて、イギリスの朝食を自分で盛り付けたのだ。

ソーセージにベーコン、焼きトマト、スクランブルエッグ、ハッシュドポテト、マッシュルーム、そしてベイクドビーンズ……。

気づいたら、ちょっと恥ずかしいくらい山盛りになっていた。でも、意外と上手に盛り付けられた気もする。

そうして味わったウェルシュ・ブレックファストは、思わず笑みがこぼれてしまうほど美味しい一皿に仕上がっていた。

窓の外には、緑の木々が美しいバンガーの風景が広がっていて、ウェールズの1日が始まろうとしていた。

ふと、この朝食を食べるために、僕はウェールズまで旅に出たのかもしれないな、と思った。

旅のすべては、この一皿のためにあった。そう信じられるくらい、それは心惹かれる一皿だったのだ。

最後の朝食(マンチェスター)

イギリスを巡る旅にも、終わりのときがやってきた。

最後の朝食を食べたのは、帰国する日の朝、マンチェスターのカフェだった。

いつものように……と表現したくなる気分でイングリッシュ・ブレックファストを注文すると、しばらくして、あの美しい一皿が運ばれてきた。

目玉焼きが2つ、ソーセージが2本、ベーコンも2枚、そしてベイクドビーンズが別皿に盛られているのは思いがけない喜びだった。

僕はその一皿を、別れを惜しむように、大切に味わった。

すぐ窓の外には、黄色い車体のトラムが行き交い、その走行音が店内にまで聞こえてくる……。

そこには、素敵な1日が始まる予感に満ちた、幸せな朝があった。

それは旅の終わりだったけれど、いつもの美味しいイギリスの朝食が、その寂しさを、温かい幸せへと、変えてくれたような気がしたのだ。

イギリスの朝食には、「幸せ」があった

イギリスから帰ってきた今、恋しさとともに思い出すのは、あの美味しい朝食だ。

派手さはないし、特別さもない。でも、あの素朴な一皿には、人の気持ちを温かく満たしてくれる、ささやかな「幸せ」があったように思う。

旅が終わり、僕にはひとつの夢が生まれた。

いつかイギリスを再訪して、あの美味しい朝食から、また新たな旅を始めたい、と。

きっと、たった5回の朝食で、僕は心を奪われてしまったのだ。

幸福感に溢れたイギリスの朝に、そして、イギリスという国に。

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