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自助とか、共助とか、支援とか。

なんかいろんなものに手をだしたり、いろんな体験していると見えてくるものがある。

https://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/hukushi_kaigo/kaigo_koureisha/chiiki-houkatsu/dl/link1-3.pdf

結局、権力や資金力のあるところの決定でしか、世の中は回んないんだな、いまのところ、っていうこと。

文書にすると、自助とか共助とかなるほどな、って納得するんだけど、そこに人が介在すると、そんな表ひとつで済むもんじゃなくなる。

ひとりの人に絡まる人も関わってくる。

たとえば、対象の本人が「自助」できるタイプだったとして、
「人からの頼みを断れない」のが唯一の弱みだったりした場合、家族や周りにいるひとが、支援のかたちをお膳立てしてしまうことだったり、そのひと自体に必要な支援を貧困ビジネスのように利用するために、周りの人が「支援」をすすめてしまうケースだってある。

そもそもさ、いつも思うのは、
「自助」のハードルって、決めてる人(役所や制度やお偉いさん)の想定するものと現実って違うよね。

簡単に言ったとして、自分で生きていく、ことが自助だとして、
・こどもの頃は安定していて、まともな教育環境、生育環境が与えられたひと
・親兄弟がまともで健在で、公的住宅なんか借りるときに保証人として名前だけでも貸してくれる人
・持病やトラウマを抱えているわけじゃないけど、今現在が自助が難しくなりそうな人

の自助って、そういう行政でいうシンプルな表で収まるもんだと思う(ケースによって差はあれど)。

潜在的環境に格差がすでにある。

その状態での「自助」は、病弱なのに工夫してフルマラソン走り終えた人に、明日からトライアスロンだよ♪というようなもの。

もうそれって、気力と根性でしか動いてないんだよ。にも拘わらず、そこで倒れて「自助できなく」なったら、努力が足りない、社会からの脱落って見られるんだろーな。

潜在的環境ですでに頼ることができなく生きてきているのに、「その頼る先」が当たりまえとして存在している層のひとたちは、悪気なく責めるんだよな。

安心の与えられない環境、保証を与えてくれる大人や人間が、周りにいない状態で社会でやっていくことのしんどさを知らずに。

だから、いろいろ制度とか決めるお偉いさんはさ、2ヶ月くらいホームレス研修とかさ、やったらいいんだよ。
〇〇家の誰々、△△大学卒の誰々、が通じない世の中がいかに大変か。

もうそこって、人間性やほんとの損得(相手が使える人間か否か)しか関係ないと思うんだよね。

何が問題かちゃんと見える人間が制度とかつくったら、日本社会はもう少し救われるのではないかといつも思う。

で、結局いろんな補助とか助成に「頼るなよ」「税金泥棒だ」とかいうけどさ、よほどのお金持ちじゃないと自宅まで水道管を水源から引っ張ってこれないだろうし、家の目の前の道路から日本中私道なわけじゃないだろうし、結局「自分ひとりの財力や力」で生活できているひとなんて
ほぼいないのに、と思う。
だとしたら、そんなに変わらないじゃないか。
同じ環境になる可能性は、その人の親の世代が頑張って防いでくれたおかげであって、その文句言っている人の成果じゃないのに。
そして、いまそういう環境にいる人だって、すべてがその人のせいでそうなっているわけじゃないのに。
安定した環境だったら、もっと違う(おそらくその文句を言っている人より有効に)環境を活かせただろうに。

ってなわけで日本社会って、生きづらいよな、って40代でも中二病のように思う今日このごろ。

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