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社会復帰してみたら「支援」の仕組みが見えたはなし。

自分に合わない、自分らしくない場所でも、時々は「違う場所」に身をおいてみるのも必要なんだな、と感じたはなし。

長年、なんかいろいろ大変で、いろいろ「当事者」としての経験が積み重なりすぎて、当事者にしかわからない部分を発信とかしていくべきなんだとおもっていて、ずっと右往左往していたのだけど。

でも、どうやっても腑に落ちない部分がずっとあって、当事者の困りごとを助けれるはずの層(お金もち、時間持ち、健常者など)が確かにその活動を社会起業や任意団体としてやっているのにも関わらず、当事者のニーズには絶対届いていない。
それにも関わらず、助けている感、業績、表彰、ニュースになったりする。
いや、そのサポートした数値に入ってるのは、困っている人レベルがマイナス100まであったらマイナス2か3の人だからね?
100とか90の人、ほっとかれてるからね?!ってずっと思ってて、当事者である当事者は(表現変ですが)他の当事者をプラスn状態まで持っていけるほど余力はない。
でも、余力があるはずの層は、マイナス100の世界が見えていない。
これにずっともやもやを感じてきたんだ。

当事者以外がマイナス100の世界があることに気付かないことは仕方ないのかもしれない。
一般人が貴族の世界がわからないのと同じで。
ただ、わからない、という認識なく、わかっていると思い込んで「支援」を意気揚々としている人たちの感覚がわからなくて。

で、ちょっと「普通」の世界に社会復帰したとき、ちょっとだけその仕組みが分かった気がするので、普通が普通になって、感覚がわからなくなる前にメモしておこうと思う。

「普通」の保持が大前提

世の中の普通、はそれが滞りなく回っていくのが重要なのだと思う。多様とか、カオスとかそういうのはいったん排除して、ちゃんと大きなイレギュラーはない状態で。
小さなイレギュラーはOKでも、大きなイレギュラーは時間等リソースが割かれるから、そこに対応するよりは、切り捨てて、コンスタントに「普通」が回る、ことが大前提なのだと思う。

そうすると、社会の歯車として手間がかかりそうな層は(障害者であれ、外国人であれ、不登校であれ)切り捨てる、のが利益を追い求める会社であったり、常に問題なく回り続けることが善の社会にとっては、間違いではないことだと思う。効率を考えれば。

普通、側は「切り捨てる」との判断をすればいいだけで、その判断は簡単である。どのように全部の個性を活かそう、そのうえ、普通も回したうえで、と考えるよりはるかに頭や心を使わない。
排除するための指標をだれかが与えてくれたら、それに沿って仕事するだけ。

支援、って適応指導教室みたいなもんか、という発見


で。気づいたのが支援、って「普通」のなかで生きれている人が、そのままじゃ普通の効率化が面倒になりそうな人を、ムリに普通に順応させようと引っ張っているようなもんだな、と。

普通、の外のほうが良いことも悪いことも、広い。
普通は安全で、学校→就職→定年→年金、と進んでいくための降りたらこわいレールのようなもので、そこからはみ出さないように、ちょっと落ちたら戻れるように、
「普通のなかでの優秀な僕たち・私たちが引っ張ってあげなくては」

が支援なのでは、と。
それがふつう、になりたい人たちにとっては、「支援」が助かることなのかもしれないけれど、普通の外にも「社会」はある。
定番、じゃないかもしれないれど、そっちが「生きるのに向いている」人も確かにいる。
普通の外と、なかは家畜と人間のような扱いをされるべきではなく、ただ住む場所が、合う場所が違うだけなのに、どうして、こうも「普通」界隈は優性を誇示したがるのか、っていう。

普通のそと、が楽なわけではない。
ただ同じサバイバルするなら、よりあう「普通の外」に馴染む努力をはじめたり、普通の外を自分の居場所と気づき、別に悲壮感にひたってない人を無理に引っ張っているように、今の支援は思う。

サポート、は必要。
また社会が滞りなく回るため、全体の幸福として、の支援、という仕組みは必要。ただ、そこが今の日本はどうやっても、社会の保持のためではなく、普通の人が自己有用感を感じるため、って気がするんだよなぁ。

何者かになりたい、普通の界隈の人。

ただ、長年社会不適合者やっていると、ずっと「普通」になりたい、とは思ってきたわけで、好きで苦い経験をたくさんしたいわけじゃない。
で、普通って、こっちから見たら、バカンスレベルの安定した環境で、平凡な毎日や、無駄な買物ができる時点で安定しているってみえて、そこにならなきゃ、って思っていた層ではあるのだけど。

この感覚は今じゃないと忘れそうなので書いておくのだけど、普通のなかにいる人はそれがつまらない、のか、とちょっと感覚がわかった。

会社や社会を回すために、安定を保持するために普通のなかにいることに、むなしさを感じつつも、普通じゃない人がいっぱいいる(良くも悪くも)普通の外に出る勇気はない。

そうなると、普通、というハコのなかで、「何者か」になりたいのか、と。
それに、いろいろ思い悩んで人間的に深めるよりも、内省するよりも、業務や給与があがるためのキャリアプランに直結する自分磨きは悩まなくていい。業種やキャリアの先輩から、参考例をきいてなぞる。
継続性は性格によるとしても、自分はどう生きるべきか、なんて深く悩まずにわかりやすく目標を掲げられる。
キャリアやスキルの名前を羅列したい感覚もわかるような気がする。

ただ、普通の外には確かにサポートできないレベルの環境のひともいるかわりに天才もいる。現実社会だ。
そことは渡り合わない。そして、その資格や権威性を以て、普通の世界に引っ張ろうとしているのが今の支援や社会起業に見える。

あとそもそも普通枠の外の存在を知らない

支援が的外れ、なことが多いのは、おそらく普通、の枠でずっと進んできた人はそこからちょっと見える困っている人や、普通の枠から零れ落ちた「困っている人」しか見えてないんだと思う。
だから、「社会の外に落ちたかわいそうなひと」に見えるのかも。
その実、普通の枠のなかよりは安定で安全でもないけど、普通の外にも社会はあって、もっと下の環境も、もっと上、の環境もある。

そこが見えてない、というより「あること自体を知らない」のだろうな、と感じた。だって触れたことがないから。まじめな人ほど、ちゃんと学校行って、ちゃんと就活して、ちゃんとスキルアップしてるから、外に落ちてみたり、外と関わる挑戦はしない。普通、のなかでちょっとはめをはずすくらいだろう。
そして、何事も問題がなければ安定したまま、着実にライフプランは進んでいって、余暇で「支援」や「社会起業」なんてやるのだろう。

じゃあ、外の「ほんとにサポートが必要な人」は誰がサポートするの?
ほんとは、複雑な要素が関わっているし、専門性が必要なところだと思うから、国がやるべきだと思うけど、今の国のまんなかにいる人たちも、おそらく「普通の国」を出たことがない人がほとんどだよね。

ここは普通を再体験しても、いまだ疑問が残るところ。
もう少し体感しつつ、普通に染まりきらないようにも気を付けないと。
それが怖くてどっか「社会復帰」を避けてきた部分もある気がしている。
現実の社会を生きている感じを忘れたくないな、という感覚。

普通、の再体験で思ったこと。普通に憧れなくてもいいよ、ってこと。

これ、いろいろ大変、のあとに、社会復帰したから感じたことだとおもうんだけど、復帰できないままだったら、今だに「普通にならねば」とどこかで義務に思ってた気がする。

若いころ、普通に普通ができていたころ(とはいってもパニックあったからいつもギリギリではあったのだけど特になにも社会構造など考えてなかった。学歴差別、その他差別もあったけど、そういうもんだ、と思ってたし、逆に普通でいたくない若さもあったから気にしてなかったけど、普通ができない長年を過ごしたあと。普通を再体験すると思うのは、今「普通にならなきゃ」って焦ってもやもや、苦しい人、普通に安定したい、という気持ちがあるなら別だけど、「しなきゃ、ならなきゃ」だけなら普通めざさなくていいと思うよ、っていいたい。

年が上になっているせいもあるけれど、キャリアだけ積み重なって(もちろん真面目でイイ人たちが多いのだけど)普通から出てないと、すごく深み二欠ける。
きちんとしたこと、確かに、って思うこと言ったり書いたりしてても、そこに深みや実感がないんだよ。論文みたいな、参考文献の寄せ集め、と感想みたいな。
自分の思考を通した論説じゃない。
だから、苦労が良いとも糧になるとも言われるのは自分も好きではないので、そうは言わないけど、圧倒的に普通枠、の外の人間が深い、ということだけは事実。(良い方面も悪い方面も)

ただ、普通、のなかの「安定」はマジで捨てがたい部分ではある(常になにかに追われている、心配するって疲弊するのよね)。

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