見出し画像

自然農法について思うこと

はじめに、単刀直入に言わせてもらうと俺は自然農法・自然栽培という言葉が"嫌い"なのである(これは良いか悪いか?という話ではなく単なる主観の話だ)。

では一体どういう面が嫌いなのか?ということだが、もはや便宜上「無農薬・無施肥の農法 = 自然農法」という括りが社会通念化しているので、名称を変えろ!とかは言わないにしても「無農薬・無施肥でやる = 自然である」という思想が背後に感じられ、そしてこの思想が嫌いなのである。

無農薬・無施肥だから自然だよね!?という考え方ほど傲慢な考え方は中々ないんじゃないか?と思っている。勘違いしないでほしいのは、だから自然農法はダメだと否定したい訳ではないということだ。人間が何かしらの農産物を育てようと思った時点で、既に人間の手は入っている。要は介入の程度が慣行,有機,自然では違うというだけで介入が無になることはない。また、これは俺の主観ではあるが社会通念的にも「自然農法 = 人間が余計なことをしない農法」で大体通る気がしているが、このイメージを前提に語るなら、植物は人間の手など1つも借りずに全体として結果としての調和を保っているのであり、人間の手どころか意図が加わっている時点で、植物からすれば"余計なお世話"なのである。にも関わらず、無農薬・無施肥だから自然農法だ!となる構図はあまりにも安直過ぎるのではないか?ということだ。

だから、結論として自然農法などクソだ!という話になるのではなく、こういったことをちゃんと"自覚"しとけという話なのだ。そして、この流れから俺が思う新たな自然農法の定義を勝手にするのだが、要は「育て方の違い」よりも、どれだけ「人間側が自然かどうか?」ということだ。思想的にヴィーガンや極度の糖質制限だったり、絶賛ただいま病気中の人間がどんなに無農薬・無施肥で農業をしていようが、俺からすれば自然栽培も自然農法もクソもないといったところ。

というか、もはや農業をしてる時点で自然ではないのに、より自然の在り方に近づけようとする意味なのか”自然”と銘打ってしまうのは人間の傲慢そのものであると思える。

たしかに人間も自然の一部であるのだろうが、今の人間は自然の一部として相応しい振舞いになっているだろうか?
どういう状態になろうとも、自然=動的平衡,因果律であるという説を自分なりには唱えているから、それが自然そのものなのだろう。そして人間という自分に都合の良いことしか見ない存在から見て、都合の良い自然か都合の悪い自然なら都合の良い自然を目指したいと思うのが、また人間という存在なのだろうか?そして、その都合の良い状態に持っていくためには、農業のやり方を自然に近づけようとするよりも、自分自身を自然に沿ったものにする方が、より本質的ではないだろうかということを言いたいのである。

ここまで述べてきて、現代での無農薬・無施肥といった物質的に無介入に近づけるという意味合いでの自然農法を『唯物的自然農法』と、俺の勝手な定義である人間がどれだけ自然であるかどうか?の意味合いでの自然農法を『観念的自然農法』と定義(造語)してみようと思う。

思えば、そもそもの自然農を提唱した福岡正信氏の「わら一本の革命」や、さらに自然農というものを極めた川口由一氏の「妙なる畑に立ちて」などを読んでみると、育て方のことなどほとんど書いておらず、ほとんど思想であり哲学が述べてある。そもそもの自然農法とは『観念的自然農法』に相当する方を述べていたのだ(その是非は置いておくとして)。そして、こうした生き方をしていれば、自ずと育て方も無農薬・無施肥になっていくよね?ということなのである。それが現代では思想は忘れ去られ、安易に無農薬・無肥料でも美味しい野菜が出来て健康になれる!的な面ばかり吹聴されている。そんな今の自然農法という言葉は俺はとても嫌いである。

最後に、いわゆる究極の自然農法なるものがあるとするならば、唯物的,観念的などちらかに偏っているものではなく、どちらもの姿勢を両立する、もしくはこの両極のイズムを超えたものになるのだろうと思える。そしてこの段階に人間如きが到達することなど不可能であるという自覚が大事になるであろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?