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『小説の運命 Ⅰ』すなわち近代の運命

 『小説の運命 Ⅰ』は昭和二十二年に発表された。小説の運命 —— それは小説家であると批評家であるとに関わらず、およそ文学に関わるすべての者がよそに見ては避けられない問題であると福田は言う。

なぜなら小説の運命を考えるとは、散文の運命を考えることに他ならず、散文の運命を考えるとは、そのはじまりとしてのルネサンスを、すなわち近代について考えることに他ならないからである。自分の生きる時代について考えない文学者がいようか。

昭和二十二年。戦後まもなくの日本を眼前に見据えて、福田にはあらゆる問題が混乱した形をとって映っていたことであろう。しかし福田が求めるものは常に問題の所在であり、楽天的な見取り図でも解決法でもない。

「ぼくたちが今日において直面してゐるのは、小説の限界といふ問題そのものであり、なにより重要なことはその解決法ではなくて、各自がその限界を個性の履歴の必然性においていかに深く実感してゐるかといふこと、そのことにほかならない。」

『小説の運命 Ⅰ』福田恆存全集第一巻

私は上の文中の「小説の限界」を「近代の限界」と読み替える。すると福田の問題意識の本質がより明瞭に浮かび上がってくるように思うからだ。要するに、福田にとって重要なことは、各自が近代の限界を個性の履歴の必然性においていかに深く実感しているか、ということにあったのではないか。

ここでさらに重要なことは、限界を実感できる者はそれを経た者だけであるということである。近代小説の限界を実感できる者は近代小説を経た者だけであり、近代の限界を実感できる者は近代を経た者だけである、ところが日本は、、、ここまでくれば、福田の言いたいことは明確だろう。

「今日の日本の文学が小説の限界を口にすることは、いつてしまへば、浮薄なたはごととしかおもはれない。なぜか —— いふまでもなく日本の近代文学は本質的な形相において小説の限界などにつきあたつてはをらぬ。」

『小説の運命 Ⅰ』福田恆存全集第一巻

「個人主義をつひに自分のものとなしえなかつた日本がヨーロッパの個人主義小説とその技法を輸入し、第一次大戦後には自意識の文学、不安の文学をまね、敗戦後の今日は、その限界に個人心理の平面的な追求を絶望してサルトルの実存主義に色眼をつかふといふありさまである。が、個人主義を経験しない国民が個人の限界を口にするといふことは言語道断でないとすればいつたいなにを意味するものであらうか。」

『小説の運命 Ⅰ』福田恆存全集第一巻

福田は言う。日本の小説は未だ限界などにはつきあたってはいない。少なくともヨーロッパの小説と同じ限界にはつきあたってなどいない。なぜなら、両者は「ふしぎなほどたくみに韻のあつた近代文学史」を保持しているだけなのであって、本質的には似て非なる歴史的必然性の中にあるからである。

我々があくまで日本の近代の宿命に堪えようとするならば —— すなわち西欧近代化への適応異常が引き起こした歪みを一身に引き受けようとするならば —— 「ぼくたちにいまもつとも必要なことは、今日ただいまからぼくたち自身の問題にヨーロッパ的解釈や、その解決法を適用しないといふ覚悟である」。(『小説の運命 Ⅰ』福田恆存全集第一巻)

小説があくまで「個人の表現形式であり、存在形式」である限り、我々は「作家の数だけの小説形式を手にしうる」。そのことだけは洋の東西を問わず不変である。我々はそこから出発すればよい。



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