『作品のリアリティについて』真実を知ることではなく、真実にゐようとする素朴な要求
この論文は昭和二十二年に発表された。福田は文学におけるリアリティとは何かを問う。
福田の考察は、ヨーロッパ十九世紀文学に始まり、ヨーロッパ二十世紀文学、日本の近代演劇、日本の私小説へと移っていく。が、この場では、ヨーロッパ十九世紀文学におけるリアリティの問題に話を絞りたい。
冒頭の引用。
文学におけるリアリズムという手法は十九世紀に興隆した。それは実証主義という科学の方法に基づいて誕生した技法である。人間が認識という一機能に絶対的優位性を与え始めたのもこの十九世紀である。実証主義の勝利が、認識優位の傾向を促進したとも言える。
近代以降、目的化された認識それ自体は、自らの自律性の確立を目指してきた。近代科学の方法は、認識そのものを目的とし、その影響はあらゆる学問の上に及んだ。人間は近代科学の方法を用いて、自然を認識の対象と見なすにとどまらず、社会を、また人間までをも認識の対象と見なし、認識を拡大してきた。
けれどもこの点に、留意を必要とすることがある。それは、人間の科学的精神ないしは科学的態度というものは、その発生においても本質においても、必ずしも認識を目的としてきたわけではないということである。本来、科学における認識とは、あくまで手段であり前提であるに過ぎなかった。目的とはもちろん、自然のうちに、あるいは現実のうちに正しく生きることであった。
すなわち忘れてはならぬことは、「真実を知ること」と「真実にゐること」は別のことだということである。
福田は言う。
近代科学の洗礼を受けた今日のほとんどの学問的探究は、認識を目的としている。人間の生き方にじかに関わる倫理や心理の領域、また哲学の領域までもが、たんなる認識の対象になっている。
すなわち、人間の営みの探究までもが「自分から離れたものとして真実を設定しようといふ」営みと化してしまった。科学や哲学はそのような性格のものになってしまった。
しかしながら、それを行う科学者や哲学者が人間である限り、やはり彼らのうちには「真実にゐようといふ」要求が未だに残っているはずである。況んや芸術家や文学者のうちにおいてをやである。福田は言う。リアリズム文学とは、手段としての認識を武器とする文学形式であると。
作者は、また登場人物は、自己を否定してくる現実を認識し、描き、否定し、その果てに敗北する。自己を否定してくるものを否定するが、最終的には敗れ去る。それがリアリズムの技法だ。要するにリアリズムとは否定の技法である。
では、リアリズム文学の文学的価値はどこにかかっているかというと、それは作品の背後で苦渋する作者の姿にかかっているのである。たとえば『ボヴァリー夫人』のリアリティとは、その背後で敗北したフローベールの夢想のリアリティを意味する。
作者の苦渋こそが、作品を背後から支えているリアリティだ。逆に言えば、それなくしてリアリズム文学は成り立たない。
ありのままの現実や社会を描くこと自体はリアリズムの技法でしかない。
現実と格闘し尽くした果てに、敗れる作者の夢想の後姿がリアリズムの本質なのである。
夢の存在せぬところには真実も、またリアリティも存在しない。
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