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【短編小説】左脳で味わう大トロ

「カレシとは気も合うし、見た目も好みですが、なんだか『深み』がないんですよね、、、この前、ご飯を一緒に食べていて、何を食べても『美味しい!』とかしか言わなくて、、、たまには違うことも言ってほしいなぁと思ったりしました。」

と、食もお酒も進んできた食事会の中盤でS子が言った。

S子は俺の8歳年下の仕事仲間で、今回は仕事の打上げでちょっと小洒落たカウンターの寿司屋に来ている。S子とはもう3年ぐらい一緒に働いているが、何事も先回りして動ける非常に仕事が出来る女性だ。

「そうなんだ。『深み』がなんなのかよくわからないけど、美味しいものを美味しいと表現するのは悪くないんじゃない?」

S子のカレシの話はどうでもよかったが、なんとなく流しちゃうのも気が引けたのでゆるく打ち返した。

「この前もカレシとお寿司を食べたのですが、マグロを食べても、中トロを食べても、大トロを食べても『美味しい』しか感想がなくてもう少し違う表現はないのかなぁとガッカリしちゃいました。」

その時、目の前で大将が小さめのマグロをさばき始めた。マグロの頭を落として、ハラワタを取り除き、血合いを洗い流してキレイにする。その後、上身と下身と骨の3枚におろし、腹骨と中骨を落として、皮を引き、キレイなサクに調理されていく。スーパーでよく見るマグロのサクが出来上がった。

「スゴイ、上手!マグロが綺麗!場所によってピンクだったり真っ赤だったりするんですね。」

「あのカマに近いお腹側の白っぽいピンクの部分が大トロだよ。あのサイズの魚でも大トロになるとちょっとしかとれないんだね。希少部位だから高いのも納得感があるなぁ。」

「大トロってマグロのお腹の部分のことだったんだ。知らなかった。じゃぁ、お腹でも尻尾に近づくと赤みが増してくけどあれは中トロかな。」

S子は今までよくわからずに食べていた大トロの正体がわかったことが純粋に嬉しかったようだ。確かに知ることは楽しい。

「そう。人間もお腹にたくさん脂肪がつくけど、背中はお腹ほどは脂肪つかないよね。魚も一緒。けど、人間は自分の身体だと脂肪は落としたいのに魚だと脂肪があったほうが良いって、矛盾しているのが人間っぽいよなぁ。

スミマセン、大将!今、さばいているマグロで大トロ一貫ずつお願いできますか。」

「今日、入荷したマグロだよ。へい、お待ち!」

寿司屋のラスボスと言えば大トロ。大トロ様はラスボスとしての神々しい輝きを放ちながら俺とS子の前に登場した。と言ってもお腹の脂肪ではあるのだが。

大トロを頬張ると脂がジワッと溶け始める。その溶け始めた脂は脳に強烈な刺激をもたらした。その後、時間をおいて胃にヘビー級ボクサーのパンチのような重さがズシッと来る。こいつは2つ食べると後で苦しむやつだ。

「食事って単純に『美味しい!』と直感で楽しむことはとっても大事。だけど、この大トロのようにどの魚のどの部分であって、なんで高級なのかがわかると直感的だけではなく、論理的にも楽しめる。直感だけでなく論理的な楽しみ方も出来ることがS子の言う『深み』の正体なんじゃないのかな。」

S子がうなずく。

「なるほどなー、直感だけでも十分美味しいけど、論理が加わると想像力のスパイスが追加されてもっと楽しめちゃいますね。」

「仕事だってなんとなく目の前のことをこなしている人よりも、全体像が見えて、重要度を判断しながら仕事をこなしている人の方が仕事ができそうだろ?」

「ありがとうございます。カレシに感じていた違和感の正体がわかってスッキリしました。『深み』とは大トロのように少ない情報でどれだけ多くのことを想像出来るかなんですね。食事1つでその人の視点や思考の深さまでわかるなんてスゴイ。勉強になりました。」

ラスボスの大トロを平らげたあとは、シメに巻物を食べ、あったかいお茶を飲んで食事は終盤を迎えた。

食事に満たされ、カレシの違和感も突き止めて満足気なS子はボソっと俺に聞こえるように言った。

「終電なくなっちゃったけどどうしよう」

このセリフを聞いて俺の脳内で右脳と左脳が直感と論理のバトルを開始するのであった。

そしてバトルは意外な結末であっさりと終えた。


☆☆☆



我に返った。今日は仕事の打上げで寿司屋に来ている。

隣のS子が言った。

「カレシとは気も合うし、見た目も好みですが、なんだか『深み』がないんですよね、、、この前、ご飯を一緒に食べていて、何を食べても『美味しい!』とかしか言わなくて、、、たまには違うことも言ってほしいなぁと思ったりしました。」と。

男の妄想は簡単に暴走するものだ。

終盤に食べた大トロの胸焼けを引きずりながら家路についた。

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