クレイジー国家日本。

より

上記文抜粋
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No. 2026 いかにして日本は自ら中国に未来を譲ろうとしているのか

投稿日時: 2024年1月10日

How Japan is willingly ceding the future to China

積極的な金融緩和への10年間の依存が、イノベーション、リストラ、リスクを取るという責任をCEOから奪った

by William Pesek

東京: 日本人の精神に次に打撃を与えるのは、日本が経済大国としてドイツの次の4番目に落ちることだろう。しか日本は、12年経過した今も、国内総生産(GDP)で中国に追い越されたことに頭をかかえている。

2010年と2011年に、経済の生徒が教師よりも大きな力を得て、トップ交代を告げる見出しが躍った。中国{1}は、韓国や台湾、タイなど他のアジアの「虎」と同様に日本の発展モデルの一部を参考にしていた。

それなのに、誇り高い日本の政治エスタブリッシュメントはなぜ簡単に中国の前進を許したのだろうか?

多くの日本の評論家はこの議論の条件に強く異議を唱えている。従来の考え方では、GDPよりも一人当たりの所得の方が重要であるとされており、この点において日本が圧倒的に中国を上回っているという。

そして明らかに、中国の指導者である習近平は、経済の進歩を遅らせるのに十分なほど自国の足を撃ってきた。テクノロジーに対する破壊的な取り締まりから非人道的なコロナのロックダウンに至るまで、習近平は2020年以降、追い風よりも逆風を多く生み出している。

しかし多くの世界の投資家や学者は、アジア経済の時計が早まり、中国が勝負を仕掛けてくる中で、日本の岸田文雄首相の自民党は何を企んでいるのだろうかと思わずにはいられない。

2013年、自民党は日本経済の勢い{2}を取り戻すという大胆な計画を掲げて政権に返り咲いた。当時、安倍晋三首相はアジアが誰の大陸であるかを中国に思い出させることに言及した。

残念ながら、官僚主義の削減、技術革新と生産性の向上、労働市場の自由化、新興企業ブームの促進、女性の地位向上、外国人人材の誘致、アジアの金融センターとして上海に一石を投じる、といった彼の公約は道半ばに終わった。

安倍はコーポレート・ガバナンスの強化にはわずかながら成功したが、その他の改革が不十分だったため賃金の伸びは鈍化した。給料が増えて内需が急増するという好循環への期待は実現しなかった。

その理由は、安倍がほとんど全面的に積極的な金融緩和に頼ったからである。2013年以降の数年間で、30%の円安によって過去最高額の企業収益につながった。しかし問題は円安が日本の競争力も低下させたことである。

為替レートが円安に振れたことで企業のトップは技術革新やリストラ、リスクテイクをする必要がなくなった。政治家は1970年代のような輸出中心モデルから脱却し、内需主導の成長へとエンジンを再調整する必要はなかった。

アベノミクスは萎縮した経済システムに衝撃を与えるどころか、その欠陥を固定化させた。日本は中国との差を縮める絶好の機会であったこの10年間を事実上無駄にしたのである。そのため投資家や学者の間では、安倍の後継者の岸田が日本経済の底上げに関して何をしようとしているのか、混乱している。

故・安倍元首相とその子分の岸田現首相。写真 スクリーンショット / アルジャジーラ

2021年10月、岸田は十分に順調なスタートを切った。彼は中流階級の所得を引き上げるという、彼自身の野心的な「新しい資本主義」計画で首相の座についた。しかし彼の師匠の改革と同様に、キシダノミクス{3}も実際の再構築というより願望に近かった。

この2年余りは岸田にとってスタートアップの活動を奨励するために税制を変更する絶好の機会であった。実際、彼は日本の1.6兆ドルの政府年金積立金を活用してスタートアップに資金を提供するという大胆な計画を持っていた。

これは、日本のベンチャー・キャピタル業界の成長を加速させるために自民党がこれまでに打ち出した最も独創的なアイデアだ。しかしほとんど実現しなかった。岸田は構造改革よりも財政刺激策や日銀緩和を優先した。

未完の安倍改革を再活性化させたわけでもない。その間に中国の景気減速と過去17年間で最も高い米国債利回りが、パンデミック後の日本の回復に逆風を吹かせた。7-9月期の経済成長率は前期比2.9%減{4}となった。

最近のデータを見ても10-12月期の景気回復を示唆するものはほとんどない。このことは、岸田がいつも以上に忙しくなり、改革プロセスを復活させる可能性が低くなることを意味する。

このシフトダウンによって、日銀がすぐに「テーパリング」(量的緩和策による金融資産の買い入れ額を順次減らしていくこと)や金利政策の正常化を行う可能性も低くなる。もし植田日銀総裁が2023年に量的緩和{5}から脱却することに抵抗があったとすれば、不況が深刻化する中、その可能性はさらに低くなるかもしれない。

こうしたことはすべて日本の「機会費用」問題が続いていることを意味する。政府が成長率を高めるために安易な方法を選ぶということは、経済力を強化しないことを選ぶということだ。これは自民党が何十年も受け入れてきたトレードオフだが、特にこの10年間はそうだった。

もし安倍が円安に頼るのではなく、約8年間の任期をうまく使って経済を作り直していれば、日本は好景気に沸いていたかもしれない。もし安倍の後継者である菅義偉が就任から12カ月間で日本の野心的意欲を再生させていれば。あるいは岸田が26ヵ月間、大きなアップグレードをスコアボードにまったく書かずに放置していなければ。

支持率17%の今、岸田が経済に揺さぶりをかける政治資金はごくわずかしかない。スキャンダルが自民党を巻き込み、野党が襲いかかる中、岸田は2024年、そのポストを維持するのに必死で、それどころではないだろう。

改革への期待が薄れるにつれ、中国はアジアの将来をさらに自由に支配できるようになる。中国が抱える巨大な不動産危機を含むすべての課題にもかかわらず、日本の政治家が経済に与えている自己破壊行動は、まさに北京に利益を与えるものである。

岸田は不況に対処するために政府支出を増やそうとしている{6}。この最新の借金の急増は、ムーディーズ・インベスターズ・サービスのような格付け会社の興味をそそることはほぼ確実だ。ムーディーズは最近、米国と中国の格下げを予告した。

GDPの2倍以上の国家債務を抱える日本の財政的余裕は限られている。その結果、今後数年間で軍事費を50%増加させるという岸田の計画は複雑になるだろう。日本の安全保障への野心が逆風にさらされることは、習近平の中国にとっては朗報である。

アジアの投資家や学者が、なぜ日本が時間に余裕があると考えているのか、また岸田政権が何を考えているのかと問う時、その疑問はもっともである。東京がそれに答えるのに時間がかかればかかるほど、中国が将来を主導する能力を高めるのには都合がいい。

Links:

{1} https://asiatimes.com/2023/12/china-can-accelerate-surge-in-foreign-bond-inflows/

{2} https://asiatimes.com/2022/07/kishida-has-1-45-trillion-reasons-to-reboot-abenomics/

{3} https://asiatimes.com/2023/12/how-much-longer-can-kishida-last/

{4} https://www.reuters.com/world/asia-pacific/japan-q3-gdp-revised-down-29-annualised-contraction-2023-12-07/

{5} https://asiatimes.com/2023/12/bank-of-japans-ueda-cant-quit-qe-either/

{6} https://asiatimes.com/2023/09/world-isnt-ready-for-what-uedas-trying-to-say/

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抜粋終わり

人を粗末にする国は、落ちていく。

天皇は、最初から「民は草」なので、日本人など商売品に過ぎないのですよね。

被災地の避難所も、世界でもレベルが低い方ですは。

上記文抜粋
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 世界有数の「地震大国」というわりに、なぜこの分野はいつまでも進歩しないのか。

 1月1日に発生した「令和6年能登半島地震」による被災者の多くが、いまだ体育館に身を寄せて、冷たい床にマットを敷いて雑魚寝をするような形で過ごしていることだ。

●外国人から「クレイジー」と絶句される日本の避難所

 これは続発する地震で恐怖や不安のどん底に追いやられて、体やメンタルがボロボロになっている人々が過ごすにはあまりに過酷な環境だ。実際、避難所に身を寄せたことで「2次被害」ともいう経験をしている人が少なくない。

『地震後に近くの学校に避難した自営業の50代男性は「被災者で混み合い玄関で寝るしかなかった」と話す。一夜を明かした後は帰宅して発電機と備蓄していた水や食料でしのいでいる。「余震は怖いが、人の多い避難所では気持ちが落ち着かない」』(日本経済新聞 1月7日)

 気持ちが落ち着かないどころか最悪、命まで奪われてしまう。石川県が1月9日に発表したところによれば、珠洲市内で避難生活に伴う体調悪化などで亡くなる「災害関連死」が6人発生しているという。ただ、このような悲劇は起こるべくして起きている。

 実は以前より日本の避難所は、先進国の中でもかなり劣悪な環境だという指摘が多い。避難所の環境改善を訴えている新潟大学大学院 医歯学総合研究科 特任教授の榛沢和彦氏は、過去のインタビュー記事『「体育館を避難所にする先進国なんて存在しない」災害大国・日本の被災者ケアが劣悪である根本原因』(プレジデントオンライン 2022年3月10日)の中でこのように述べている。

『3.11の避難所を撮影した写真をアメリカやヨーロッパの支援者に見せたところ「クレイジー……」と絶句された経験があります』

 東日本大震災の震災関連死は令和5年3月31日時点で3794人だが、その原因の1つに「体育館で雑魚寝」というクレイジーな日本の避難所を挙げる専門家もいる。

 もちろん、このような厳しい指摘を受けて、「体育館の雑魚寝」を少しでも快適にしようという取り組みが進んでいる。今回も一部の体育館では、プライバシーを守るためのテントや段ボールベッドが設置されている。また、輪島市の避難所となっている輪島中学校の体育館には、名古屋工業大が開発し、断熱性などに優れた段ボール製の簡易住宅「インスタントハウス」が設営されたという。

 ただ、いくらテントやついたてをしたところで、「体育館の雑魚寝」という事実は変わりがない。日本の避難所の“クレイジー”さが劇的に改善されるわけではないのだ。

●プライバシーの問題だけではない

 筆者も実際にある被災地を取材していた時にプライバシーテントの中に入ったことがあるが、あそこで長時間過ごすのはかなり息苦しい。プライバシーの問題は解決されるが、やはり音の問題がある。避難所でよく聞くのは、子どもや乳幼児の声、周囲の人々のおしゃべりや生活音が常にあって、ただでさえ疲弊したメンタルがさらに追い詰められるといった悩みだ。

 つまり、これらのテントでは「体育館で雑魚寝」という状況を改善させているだけであって、心身を追い詰められた被災者の心身を守る点では不十分というわけだ。

 では、このように被災者を2次被害的に苦しめる「体育館で雑魚寝」という避難スタイルをどう解決すべきか。個人的には国が「ムービングハウス」の普及を加速させていくべきだと考えている。

●「ムービングハウス」とは

 ご存じの方も多いだろうが、ムービングハウスとは国際規格の海上輸送コンテナと同じサイズ(長さ12メートル、幅2.4メートル)の移動式木造住宅のことだ。コンテナと同サイズということで大型トレーラーに積載してそのまま輸送できるので、これまで多くの被災地で仮設住宅などとして活用されている。

 ムービングハウス最大の強みは「スピード」だ。完成されている住宅なので交通が確保できればすぐにトレーラーに乗せて被災地に行けるし、設置後は電気・上下水道、ガスに接続すれば、すぐに生活ができる。これが「体育館で雑魚寝」を強いられる被災者たちにとって、どれほどありがたいことかは説明の必要がないだろう。

 車中泊の継続や体育館での生活は災害関連死や健康被害のリスクを高めるといわれている。ムービングハウスを早急に被災地に送ることは、命を守ることでもあるのだ。

●自治体も注目

 ということで今、多くの自治体がムービングハウスに注目している。ムービングハウスの普及・推進を進めている日本ムービングハウス協会の公式Webサイトによれば現在、102の自治体が協定を結んでいる。残念ながら、石川県は協定を結んでいないが、以下のように声がけをしている。

『一般の被災者も入居する仮設住宅については、県はプレハブ協会やムービングハウス協会に協力を依頼。建設候補地は県有地の活用も含め検討する。今後、被災自治体側の要望を聞きながら戸数を決める方針だ』(北国新聞 1月5日)

 プレハブ住宅は建てるのにどうしても時間がかかるし、多くの作業員や重機が入らなくてはいけない。ホテルや旅館を被災者の避難所として活用するには、休業補償をどうするのかなど、どうしても調整に時間がかかる。

 体育館などでの過酷な避難生活が長引けば長引くほど、被災者は心身を蝕(むしば)まれていく。つまり、災害関連死をこれ以上出さないためには「時間」との勝負なのだ。ムービングハウスは移動できるのだから学校の校庭や、自治体が管理する公園などに急いで設置すれば、どれほどの人々が助かるか。

 さて、こういう話をすると決まって、「莫大な数の被災者がでる中で被災地に大量にムービングハウスを運び込むなど現実的ではない」とか言う人がいるが、運び込むと思うからそういう結論になる。

 全国の自治体で「備蓄」をしておけばいいのだ。

●平時はホテル代わりに

 例えば、石川県が数千棟単位でムービングハウスを備蓄しておく。平時は県内の市町村に分散して、それそれの職員の研修や出張の宿泊施設として活用したり、県内で大型イベントがあった時などのホテル代わりにしたりすればいい。実際、ムービングハウスを活用したホテルもある。

 そして石川県内で何か災害が発生すれば、その地域にムービングハウスを集結させる。それだけでは足りないというのなら、近隣の都道府県のムービングハウスも持ってくる。そこで被災者に生活をしてもらうのだ。

 復興が進み“お役御免”になったムービングハウスは、それぞれの場所に戻って再びホテルや宿泊施設として活用する。このようにそれぞれの都道府県で「防災備蓄品」として大量に購入しておけば、移動は最小限で済むし、互いにムービングハウスの貸し借りもできる。

 「現実的ではない」としてムービングハウスの可能性から目を背けているうちは、われわれはいつまでもたっても先進国から「クレージー」と驚かれる「体育館で雑魚寝スタイル」の避難を続けるしかない。

●日本中にムービングハウスを

 日本では南海トラフ巨大地震が発生する可能性がある。多くの人が亡くなるし家も失う。そして、ボロボロに打ちひしがれた被災者は、体育館で冷たい床にマットを敷いて生活をしなくてはいけない。

 幸運にもテントが与えられて、その中で段ボールベッドで寝ることができる人もいるだろう。しかし狭い居住スペースと生活音に疲れて、避難生活が長引けば長引くほど、心身が疲弊していく。予測されている被害規模から考えても、東日本大震災の震災関連死3794人以上の「避難生活で亡くなる人」が出るのは確実だ。

 こんな「クレージー」な未来がすぐ近くに見えているのにわれわれは、「五輪だ、万博だ、過去最大の防衛費だ」と、国民の命を守ることと無縁なことに税金を使いすぎだ。

 今からでもまだ間に合う。「気の毒だけれど地震が起きたら被災者は体育館で雑魚寝するのは当たり前」などというクレイジーな考え方は捨てて、国をあげて日本中にムービングハウスを「備蓄」すべきではないか。

(窪田順生)


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抜粋終わり

今からでもまだ間に合う。「気の毒だけれど地震が起きたら被災者は体育館で雑魚寝するのは当たり前」などというクレイジーな考え方は捨てて、国をあげて日本中にムービングハウスを「備蓄」すべきではないか。

天皇が、そもそもクレイジーですから。

なんせ「唯一の統治権者」が「敗戦して国土を焦土に化しても、責任が無い」って発狂そのものです。

まあ、人の話を聞かないし、人を家畜化します。

 より

上記文抜粋
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オワコン化した従来教育、捨てられる教師の末路

平成の価値観が通用しないZ世代が親になる頃に危機

AI の浸透によって、教師は淘汰されてしまうのか、それとも生き残っていけるでしょうか。本稿では、学校改革プロデューサー・カリキュラムマネージャーである石川一郎氏の最新著書『捨てられる教師』より、教師の明暗をわける要素や、教師自身がこれからの世界を生き抜くうえで知っておくべきことをご紹介します。
いよいよ「大学全入時代」がやってくる
今、日本の学校教育は大きな変化の時を迎えています。特に2040年あたりまで、つまり今後20年弱の間に、いよいよ昭和・平成の名残は消失し、学校教育は真に新しい時代に突入することが予想されます。この変化のうねりの元となるのは、ある3つの事実です。

第1の事実は、少子化の加速です。もとより減少傾向にあった日本の出生数ですが、2015年では、まだ100万人を超えていました。

ところが2016年、統計を取り始めて以来初めて100万人を割ると、2019年には90万人を割り、2022年には80万人を割り……と、政府予想を超える速さで少子化が進んでいます。この急速な少子化の進行は、新型コロナウイルスのパンデミックで約3年もの間、他者との接触が忌避される日々が続いたことと無関係ではないでしょう。

ともあれ、子どもが減ることは教育事業が縮小することを意味します。特に大きな影響を受けるのは大学でしょう。2022年に生まれた子どもは77万0747人。大学への進学率は平均して60%ほどですから、単純計算で、2022年生まれの子どものうち大学進学するのは約46万人──。

さて、これが何を意味するか、おわかりでしょうか。出生数が100万人を超えていたころは60万人以上が大学進学していたものが、約46万人にまで落ち込む。

すると、医大などの一部の専科大学、東大・京大など難関国立大学、早慶上理、GMARCHの一部の学部までは入試による選抜が機能しても、それ以下の大学は「試験さえ受ければ誰でも入学できる」という事態になるでしょう。

つまり2022年生まれの子どもたちが17年後、高校を卒業する2040年、いわゆる「大学全入時代」が訪れると考えられるのです。それどころか定員割れを起こし、経営不振に陥った結果、自然淘汰される大学も出てくることが考えられます。

■学校は深刻な人材不足に陥っている

 第2に、学校教師になる人が激減しているという事実があります。学校は、よく「ブラック職場」といわれます。

 それもそのはずで、学校教師は、授業のほかに担任、生活指導や進路指導、保護者対応、職員会議、もろもろの書類作成、部活の顧問などなど、とにかく仕事が多いのです。その合間を縫って、担当教科の授業の準備をし、宿題を考え、テストを作り、採点するなどの仕事をこなさなくてはいけません。

 それでも、教育に関心がある人ならば教師になるだろう、と思われるかもしれませんが、受け皿は学校だけではありません。テストの点を取らせることに関心がある人には大手予備校や塾、教育の仕組みづくりに関心がある人には教育事業を展開する民間企業に就職するという道があります。

 しかも、これらのなかには学校教師よりもずっと高給なところも多く見られます。というわけで、教育に関心があり、かつ就職戦線を勝ち抜ける優秀な人ほど学校教師にならない。

 こうして、本来ならば教育の中枢を担う機関であるはずの学校が、いわば人材のエアポケットになってしまっているのです。この事実はまた、日本の学校教育がなかなか根本的に変化しない理由にもなっています。

 教育に関心があり、新しいアイデアのある人ほど、「学校ではないところ」で教育に関わろうとする。裏を返せば、旧来の価値観や手法のままでいい、学校に変化など必要ないとする保守的な人たちが学校に集まる傾向があるというわけです。

 採用側である学校としても、今までの自分たちのやり方を否定されたくありません。となると熱い教育改革論をぶつけてくる人よりも、早々に自分たちの色に染まってくれそうな人のほうが好ましいので、いくら新しい人材を採用しても、一向に変化は起こらない。それどころか旧来の価値観や手法が固定化し、強化されやすいのです。

 かくして、世の中は刻一刻と変化しているというのに、学校だけは取り残されたまま日本国内のガラパゴスと化していることは否めません。

■あるべき「学びの形」が変わっている

 そして第3の事実として挙げなくてはいけないのが、優れたデジタルツールの登場により、学びの形が変化を求められていることです。こういうと、2022年に日本でもリリースされて話題をさらったChatGPTなど、生成AIを思い浮かべるかもしれませんが、デジタルツールが教育に与える影響は、今に始まったことではありません。Google検索、もっといえばパソコンとインターネットが普及したころから、ずっと起きてきたことです。

 かつては「知識があること」自体に価値がありました。ところが、その価値はパソコン、インターネット、Google検索の登場以来、どんどん薄れてきました。本から知識を得て記憶しておかなくても、キーワードひとつ打ち込むだけで知識を得られるからです。わからないことに出会ったら、Googleで検索すればいい。「あれって何だっけ?」と思うたびにGoogle検索で確認すればいい。

 この発想は、手のひらサイズのパソコンともいえるスマートフォンの普及によって、いっそう強く人々に根付きました。こうして「知識があること」自体の価値が薄れるのと引き換えに、価値が高まってきたのは思考力や想像力、創造性です。知識を蓄えることではなく、知識を使って考え、想像し、創造する能力が重んじられるようになりました。

 世の中のニーズが変われば、それに即して学校教育も変化しなくてはいけません。優れたデジタルツールの登場により、学びの形が変化を求められているという第3の事実とは、つまり、知識の詰め込みから脱し、生徒の思考力や想像力、創造性を伸ばす学校教育へと舵を切る必要性につながっているというわけです。

■Z世代が親になるとき、昭和の教育は終わる

 さて前項でお話しした3つの事実を並べてみると、従来の学校教育は、すでに詰んでいる、オワコン化しているという結論にならざるをえません。授業で知識を授ける。その知識の習熟度を計るためにテストをする。採点する。評価する。

 そんな昭和・平成時代にどっぷり浸かったままの学校教育では、これからの時代を生きていく生徒たちの能力を伸ばすことはできないでしょう。

 そして、生徒たちの能力を伸ばすことができない教師は、早晩、捨てられる──お役御免となって仕事を失うことになるのは目に見えています。この潮流は、おそらく2030年代から2040年代にひとつのピークを迎え、さらに現在の20代、「Z世代」と呼ばれる人たちが親になるころから、いっそう大きな渦になっていくでしょう。

 というのも、現在の30代前半の世代、いわゆる「ゆとり世代」ではまだ見られる昭和・平成の価値観の影響が、1990年代半ば以降に生まれ、今では10~20代中盤になっている世代、いわゆる「Z世代」にはまったく見られないからです。

 つまり昭和・平成の価値観が通用しない世代が親になるとき、長く続いてきた昭和・平成の学校教育は「本当の終わり」を迎えると考えられます。「終わり」と聞いてネガティブな印象を抱かれたかもしれません。

 しかし大学全入時代の到来によって受験戦争がなくなり、従来の定型的な教育から思考力や想像力、創造性を育む方向への変容が求められていること自体は、未来ある子どもたちにとって、非常に好ましい変化です。昭和・平成の学校教育の終焉は、長らく叫ばれつつも実現してこなかった「一人ひとりの個性を生かし、伸ばし、輝かせる教育」の始まりとなるチャンスなのです。

 では、そんな世代交代に伴う価値観の変化や社会的要請に応えるために、日本の学校教育は、どう具体的に変わっていったらいいのでしょうか。すでに詰んでいるに等しい状況でも、そこから立て直していく道はあるか。もちろん、道はあります。

■「ブルーム・タキソノミー」で考える教育の本質

 かつてはGoogle検索、昨今では生成AIと、テクノロジーの進化により便利なツールが登場するたびに、その是非が教育界では議論されてきました。教育に携わる者として最新テクノロジーの何たるかを知り、いかに活用するか、あるいはいかに警戒するかを議論することは、たしかに重要です。

 しかし、どれほどテクノロジーが発達しようとも、現代と未来の教育において本質的に重要なことは変わらないのではないでしょうか。

 それは、未来ある子どもたちが、それぞれの個性を損なわれることなく探究心旺盛に学び、それぞれの特質に基づいた能力を花開かせる手伝いをすることです。そんな学校教育を叶えるために、最新テクノロジーをどう活用していったらいいのか。そういう議論ならば大いに交わし、筋のよいアイデアは積極的に実装していくべきでしょう。そのために、ここではまず、先に述べた教育の本質についてもう少し深く考えておきたいと思います。

 学習指導要領の変遷にも見られるように、学校教育の目的は時代ごとに移り変わってきました。たとえば戦後間のないころには「基礎学力」が重んじられ、そこから、いわゆる画一的な「詰め込み教育」が始まりました。

 それが現代では、知識の詰め込みよりも「主体的・対話的で深い学び」が重んじられるようになっています。生徒たちの主体性に重きを置く「アクティブ・ラーニング」という概念も生まれました。

 かつては日本の社会・経済復興を支える人材創出のため、足並み揃えてテストで点数を取らせることに重きが置かれていました。

 しかし今では、社会がより多様化するなかで、一人ひとりの特性や得意分野を伸ばすことが重視されるようになってきている、そう言ってもいいでしょう。そこで近年、教育のプロセスの指標として「ブルーム・タキソノミー」という分類法が注目されています。

■「思考で遊べる授業」へ

 ブルーム・タキソノミーとは、1973年にアメリカの認知心理学者ベンジャミン・ブルームの研究チームによって作成されました。その改訂版(2001年版)では図のように、「知識」「理解」に始まり「評価」に至る教育のプロセスが分類されています。

 日本の従来の学校教育は、「知識」「理解」「応用」までをカバーしてきました。授けられた知識を正確に理解し、それを応用して物事を推測する能力を身につけさせるところまでが学校教育の役割だった。「右に倣え、前に倣え」式で経済を発展させていた一昔前ならば、それで十分でした。

 しかし今は違います。「知識」「理解」「応用」のうえで物事を分類、構造的に理解し、予測を立てる「分析」の能力。そのうえで物事のさまざまな要素を集めてきて編集し、そこから仮説を立てて新しいことを構想し、自分なりの価値観や哲学、信念をもって自己決定を下す「評価」の能力。さらに何かを生み出す「創造」の能力──。

 「知識」「理解」「応用」までは正解のある低次思考である一方、「分析」「評価」「創造」は正解のない高次思考です。正解のない問いについて、知識を基に論理的、多角的に迫り、個別・具体的な認知とメタ的・俯瞰的認知を行き来しながら、最終的には自分軸に従って決定を下し、新しい価値などを創造する。

 こんなふうに、思考を自由に遊ばせ、新しい価値を創造する能力がなくては、これからの世の中、社会の一員として各々の個性や才能を発揮しながら生き抜いていくことはできないでしょう。

 つまり学校教育は、もはや「知識」「理解」「応用」にとどまらず、生徒たちが「分析」「評価」「創造」という基礎体力を身につける手伝いができるよう変化する必要があるのです。

 知識を詰め込むだけでなく、知識を基に自由に思考する。低次思考を高次思考につなげ、自分なりに決定を下したり創造したりできる術を教えるということです。

 ところが現状、多くの学校教育はいまだに「知識」「理解」「応用」止まりにもかかわらず、社会に出たとたん「分析」「評価」「創造」の能力が求められます。若い人たちからすれば、今までほとんど訓練してこなかったことを急に求められるという理不尽な状況が生まれているわけです。この学校教育と実社会のギャップを、早く埋めなくてはいけません。

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抜粋終わり

まともな「思考」をし出すと「無条件にいうことを聴け」という「天皇」やそれを頂点にする「官僚制国家」など、「詐欺師の犯罪者集団」って日本人がわかるようになるよね。

だから「教育」の段階で「詰め込み教育」と称した「読み書きそろばんの教育と思考力を奪う調教」を兼ねて行っているのですよな、天皇カルト日本は。

「思考で遊べる」と「思考で戦える・働ける」となり、ブラック労働も「上官の命令責任が無い・アホ国家~天皇」も、存在できない

わかる人は、わかっている、、わかっている人は、「会社」でも生き残る・・・。

より

上記文抜粋
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「人の話をよく聞く」トップが大企業で増えた必然
「人本主義的な経営」が見直されている

「資本主義の終焉」「資本主義は限界を迎えている」としばしば言われるようになりましたが、資本主義の「魔力」は強力で、なかなか脱することができません。しかし、マッキンゼーなどで活躍し、現在は京都先端科学大学教授を務める名和高司氏は、日本型経営にこそヒントがあると指摘します。

※本記事は名和高司著『パーパス経営入門』(PHP研究所)の内容を一部抜粋したものです。

地球からの警告

1972年、スイスに拠点を置くシンクタンクのローマクラブが「成長の限界」というレポートを発表し、大きな反響を呼びました。システムダイナミクスというシミュレーション手法を用いたところ、次のような結論が導き出されたのです。

「人口増加や環境汚染などの現在の傾向が続けば、100年以内に地球上の成長は限界に達する」

そして2009年、リーマン・ショックによる世界金融危機の最中に、ローマクラブが「ファクター5」というレポートで次のような試算を公表しました。

「地球上の70億人全員がアメリカ人と同レベルの資源消費性向を持つと、地球が5つ必要となる」

「ファクター5」では、資源消費を5分の1以下に抑えるためには、豊かさを経済(GDP)ではなく、生活の質(QOL)に求めるべきだと主張しています。つまり、Efficiency(物質的効率)からSufficiency(精神的充足)へのパラダイムシフトの重要性を唱えたのです。

「成長の限界」から50年、「ファクター5」から十数年。世界はやっと「このままでは地球が危ない」という指摘に耳を貸すようになってきました。

それでも変われない世界のトップたち

しかし、世界の資本主義社会のリーダーたちは、資本を基軸とする発想からいまだに抜け出すことができていません。

毎年1月にスイスのスキーリゾート「ダボス」で開催される「世界経済フォーラム年次総会(通称・ダボス会議)」には、世界トップクラスの知性を持つとされる人々が集まります。ここでここ数年、中心テーマとなっているのが「資本主義の終焉」です。

しかし、そこで飛び交っているのは「知識資本主義」や「マルチ・ステークホルダー資本主義」などという言葉で、実態は資本主義を再定義して、未来に向けて何とか延命しようという本音が痛ましいほど透けて見えます。

ここに集まっている人たちは世界中の資本主義社会の頂点に立つリーダーたちである以上、当然のこととも言えますが、「世界トップクラスの知性」と呼ばれる人であっても、意識変革はなかなか難しいということを物語っています。

なぜ人は「資本」の魔力から抜け出せないのか。それは、資本家や企業人そのものが、資本の自己増殖の奴隷になってしまっているからです。

資本の本質は、カール・マルクスが指摘したように「自己増殖する価値の運動体」です。そして資本主義とは、資本が主体として再生産を繰り返すことで、社会の成長を目指すことです。

資本主義の「魔力」

1976年、イギリスの動物行動学者リチャード・ドーキンス氏は「利己的な遺伝子」論を唱えました。

生物の遺伝子は生き残るために手段を選びません。遺伝子は自己の成功率(生存と繁殖率)を他者よりも高めることを考え、寄生している生物さえもたやすく乗り換えます。遺伝子にとっては、生物は自らの複製を残すための「乗り物」にすぎません。利己的な遺伝子論とは、簡単に言えばそういうことになります。

私には、資本もまた、遺伝子のように自己増殖しているように思われてなりません。

資本は放っておくと果てしなく自己増殖を求め、その増殖運動に振り回され、人間は資本の奴隷として働かされます。かつてマルクスは、そのことを「労使の対立構造」ととらえました。

世界に広がる富の偏在は、資本家の野望の結果というよりは、資本家や企業人をこのような行動に駆り立てる資本そのものの遺伝子の仕業ではないでしょうか。

それが、世界最高の知性と言われるような人々ですら、この資本主義の魔力から抜け出せない理由なのではないかと思います。

では、どうしたら我々は「資本」から主権を奪い返すことができるのか。

一般に、経済活動を構成する要素は「ヒト・モノ・カネ」とされます。このうち、モノやカネにばかり軸足を置いた経営が限界を迎えているのは、ここまで述べてきた通りです。そうなると、残るは「ヒト」しかありません。

パーパス経営とはまさに「人を中心に据えた」経営論。だからこそ今、注目されているのです。

日本では当たり前だった「人本主義的な経営」

ここまで読まれた読者の方は、「人を中心にする経営とは、日本が昔からやってきたことに他ならないのでは?」と思われたかもしれません。

その通りです。

日本では、ヒトが経済や企業活動の主体だという考え方は、ずっと以前から当然のこととしてとらえられてきました。古くは江戸時代にもその萌芽がありましたし、明治時代の産業の発展、戦後の経済成長の根幹にも、ヒトを中心とした経済活動がありました。

経営学者の伊丹敬之氏が著書『人本主義企業―変わる経営変わらぬ原理』(筑摩書房、1987年)の中で「人本主義」を唱えたのは、三十数年前のことです。日本企業の成長の原動力はヒトを基軸とした日本型システムにあると述べており、まさにパーパス経営の原点と言えます。

しかし残念なことに、その直後、バブルが崩壊し、日本経済は急激に悪化しました。そのため、人本主義はバブル崩壊を引き起こしたさまざまな問題と同一視され、時代遅れのものとされてしまったのです。

そして、その間隙を埋めることとなったのが、前述の「市場原理」だったということです。

バブル崩壊後、日本企業を取り巻く状況は大きく変わりました。しかしその間、人本主義が滅んでしまったわけではありません。いや、むしろ市場原理主義に日本が席巻される中、人本主義を貫き通した企業こそが高い業績を上げている。そんな時代が到来しています。

2016年、私は21世紀に入ってから成長した世界の大企業100社を研究し、売上高、収益、企業価値の3つの成長率が高い順にランキングづけをしました。その結果、ベスト100に日本企業が10社ランクインしていました。

世界レベルで戦っている日本企業の「ある特徴」

その結果を見て、我が意を得たりの思いがしました。やはり「人本主義」を貫き通してきた企業がランクインしていたからです。

具体的には、以下の10社です。

ファーストリテイリング(20位)、ダイキン工業(55位)、アステラス製薬(58位)、コマツ(88位)、アサヒグループホールディングス(93位)、キリンホールディングス(95位)、ブリヂストン(96位)、デンソー(97位)、トヨタ自動車(99位)、本田技研工業(100位)。

これらの日本企業に共通する点としては、「人に基軸を置いた経営に定評がある」(人本主義)の他、

・海外企業と比較すると超成長はしていないが、しっかりと成長を続けている

・地方出身の企業が多い

ということがあります。

とはいえ、会社が株主のものであることは厳然たる事実です。「人を大事にする」というだけで、株主に納得してもらえるのかという疑問を持つ人もいるかもしれません。

「人本主義」は株主資本主義と両立するのか?

これについては、人本主義を唱えた伊丹氏自身が、『日経ビジネス』の「人本主義は死んだのか?」というインタビューの中で、こう答えています(「『人本主義』は死んだのか 伊丹敬之・東京理科大学教授に聞く」、日経ビジネス電子版、2015年7月31日)。

「少なくとも日本電産[現ニデック:引用者注]や京セラでは生きているよね。どちらも社員に厳しい会社だけど、情がある。ついていけない人は自発的に辞めているんだろうけど、残った人たちは頑張るでしょ。両社に共通しているのは管理会計をきちんとやっていること。自分たちが頑張った成果がきちんと数字で表れる。これは大事です。会社は株主のものか、それとも社員のものか、と言うけれど、人本主義をちゃんとやれば、株主にもメリットがあります」

つまり、人を大事にすることが結局は株主のメリットにもなるということです。ニデックや京セラは、どちらもまさに「パーパス」を大事にすることで成長してきた企業です。

さらに言えば、世界規模でも、こうした「人を大事にする経営」が主流になりつつあります。アップルやグーグルといったリーディングカンパニーも、「人の話をよく聞く」タイプのトップが率いるようになっています。

破綻しつつある株主主権の資本主義をいまだ「グローバルスタンダード」と崇めている日本企業は、速やかに目を覚ますべきでしょう。

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抜粋終わり

世界レベルで戦っている日本企業の「ある特徴」
その結果を見て、我が意を得たりの思いがしました。やはり「人本主義」を貫き通してきた企業がランクインしていたからです。

ファーストリテイリング(20位)、ダイキン工業(55位)、アステラス製薬(58位)、コマツ(88位)、アサヒグループホールディングス(93位)、キリンホールディングス(95位)、ブリヂストン(96位)、デンソー(97位)、トヨタ自動車(99位)、本田技研工業(100位)。

まあ、まだ「話を聞く耳がある」のが、生き延びている。

日本の学校教育など「ブラック校則」「潜在的体罰賛美者」とかだらけなので、そもそも「聴く耳が無い」
て、これは教師個々人レベルでなく「学校」「教育行政」レベルですけど。まあ日本の「集団に従属するのが唯一の善」って傾向が強い社会では、個々の教師に聴く耳がある人が居ても、「みんな意見」と称して、抹殺されるしね。

キングクレイジーの天皇を崇拝する社会・国家である限りに、日本人に明日は無いのは、確定です。

なんせ「民は草」で草に聴く耳など持たないし「天皇は日本人になんにも責務が無い」無責任が元首也象徴の「天皇家と米英の植民地」なのが、「日本列島」ですから。

まあ「天皇」は、「現実を直視」すると存在できない「吸血鬼」です。


上記文抜粋
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真実から目を背けるよう訓練された社会〜失われたもの、二度と見つからないもの⚡️アラステア・クルーク

アラステア・クルーク

Something Lost, Never to Be Found Again — Strategic Culture

アラステア・クルーク著:08/01/2024

ウクライナでの敗北は、西側の「敗北」の積み重ねの一部にすぎないかもしれない。イスラエルでの敗北は、米国の政治的存在の核心を突くだろう。


奇妙な倦怠感と注意散漫が今日の西洋を包んでいる。

シンプリシウスの『Bones of Tomorrow(明日の骨)』には脱帽だ。その中で彼は、堕落してしまった文化について考察している。かつて我々を「西洋の神話」に陥れた誘惑は、明らかに偽りの偶像として枯れ果てている。薄れゆく炎は、堕落した西洋の「魔法」の感覚、あるいは「失われたもの」を取り戻す希望の感覚を消し去ってしまった。それは、神話が二度と永続的な価値を提供することはないだろうという悲痛な実感である。

かつて約束されたユートピア的な未来の形象は、それでもなお、私たちの精神に魅惑的な支配力を持ち続けているが、それは注意を引きつける、催眠術のようなタッチスクリーンの中だけである。文化的な試金石は、朽ち果てた建物のように私たちの周りで次々と崩れていく。しかし、私たちは注意散漫で、その重要性に気づくことも、吸収することもできない。陰の「潮流」は嬉々として拍手を送っている。

今、私たちが立っている場所は、私たちがいつも立っている場所である。ひとつの世界が衰退し、ゆっくりと衰退し、燃え尽きる段階に入り、衰退と再生の自然なプロセスを辿りながら、次の、まだ芽の出ていない緑の芽に向かって前進していく。何かが失われ、二度と見つからないという感覚。

しかし、「選民」たちは意図的に賭け金を上げている。彼らは「手放したくない」のだ。西側の列車が自らの文化的な「壁」で大破したことで、共通の未来に収束するという「時の終わり」の物語も「終わった」と彼らは判断したのだ。

そしてそれとともに、「進むべき方向」を指示する西洋の使命も終わったのだ。

プラトンからNATOに至るまで、古代ギリシャを起源とする優れた思想と実践が時代を超えて受け継がれ、今日の西洋人は優れた文化的DNAを受け継ぐ幸運な人々である」という西洋のメタ物語は、色あせた中身のない物語にすぎないことが明らかになった。

これが西側の政治指導者たちの深い恐怖である。彼らは「物語」が虚構であることを知っている。それにもかかわらず、私たちの時代がますます危険なメタ神話に依存していることを知っているにもかかわらず、彼らは自分自身にそれを語り続ける。神話がなければ、西洋のプロジェクトも西洋の繁栄も完全に崩壊しかねないと彼らは感じている。

選民」は、掘り起こされた物質的繁栄と西洋のサヴォアフェールというキメラのような夢が、神話をまだ「高み」に支えてくれることを期待した。正しい物語がすべてだった。敵対勢力の「陳腐な物語」を凌駕し、凌駕しなければならなかった。この欺瞞に満ちた契約は、神話の見せかけのベニヤが剥がれ落ちないように、何としても耐えなければならなかった。

そこで、物語の「工場」は懸命に働かされる。ウクライナでの運動論的戦争は、明白かつ圧倒的なロシアの勝利で決着した。もちろんそうではない: ウクライナは、「リムランド」(大西洋主義世界)に、「ハートランド」(ロシア、中国、アジアの深部)との間に合意されたフロンティアを受け入れさせ、世界の未来を決定する上で例外であるという主張を潔く放棄させようとする、より広い闘争の中のひとつの戦場に過ぎない。

そのため、MSMメディアは「西側の勝利」をどう定義するかという分析で盛り上がっている: ウクライナの物語を「ひっくり返して」、西側の「もうひとつの」勝利にすることは可能なのだろうか?ウクライナの物語を「ひっくり返す」ことは可能なのだろうか?「完全勝利以外に道はない--プーチンを排除するために......そのためにはあらゆるリスクを負わなければならない。妥協は許されない。

ウクライナ紛争を「膠着状態」と呼び、ロシアがウクライナ全土を掌握できなかったことから、プーチンにとっては「敗北」であり、バイデンにとっては「勝利」であると主張する(これが最初からモスクワの目的だったと偽っている)。このアプローチは、西側のアナリストにはむしろ「クール」だと思われている: 勝利」という物語を作り上げ、社会の上から下まで、全員がその正しい物語に従うようにする。

しかし、これはYouTubeの「インフルエンサー」文化からの単純な投影に過ぎず、不特定多数の個人が、ファッションであれ政治的な出来事であれ、巧みな物語をキュレートすることで「ストリート・クレジット」(そして多額の現金)を獲得している。西洋の大衆が関心を持つ限りではうまくいくかもしれないが、西洋の文化圏を超えた牽引力には限界がある。

しかし、「フリップ・ナラティブ」が地政学的に武器化される場合の欠点は、明白な現実からあまりにもかけ離れたプロパガンダは、(最も刹那的な方法を除いて)勝利の物語にはならないということだ。平たく言えば、それは作者の自己孤立につながる。

明白な西側の「逆転」が、物語を支持するために嘘八百を宣伝する諜報機関の「リーク」によって、物語的に「ひっくり返される」かのように見える喜びは、西側の諜報機関の間で伝染している。しかし、むしろこの「欺瞞の契約」は毒入り聖杯である。

もし西側に少しでも分別が残っていれば、ウクライナでまた腐敗した「勝利の物語」を広めるよりも、「西側の敗北の物語」を設定することに集中するだろう。

それはなぜか。

賢明な指導者なら、国民に敗北を覚悟させるからだ。戦場でのありもしない偽りの栄光物語は、(比喩的に言えば)負傷者や死者が勝利の物語を目に見える形で否定するために戻ってくるので、加害者に噛み付くことになる。

これとは対照的に、西側諸国はいまだに、西側のリーダーシップ、選挙、生来の資質、例外主義といった物語に踊らされている。端的に言えば、この "インフルエンサー "の流行は、世界中で起こっている地殻変動に西洋人が対処するのを助けるのに役立っていない。その国民は「来るべき冬」への備えがまったくできていない。

しかし、「勝ち組」の支持者たちは、彼らの「ひっくり返った」妄想が従順なMSMを通じて伝えられると、大喜びで自らを抱きしめている。

しかし、幼稚なプロパガンダと嘘は、新しい時代をより辛いものにするだけだ。それとは対照的に、誠実に語られる「敗北の物語」は、特定の危機がどのようにして発生し、自分たちを苦しめるようになったのかを民衆が理解する助けとなるものだ。それはまた、進むべき道を示すものでもある。イランではこのことが理解されていた。「アシュラ」は、イラン人が耐えてきた苦痛と危機を理解するための鍵となり、マフディーは目前の危機を超えた未来を示すものだった。

虚偽の物語で、ある逆転を修復しようとする試み、つまり、仮定の「勝利」を達成するために現実を逆転させようとする試みは、さらなる損失をもたらすだけである。

欺瞞は一瞬で露呈する。信頼を築くには10年かかる。西側諸国は、このような方法で取り戻せると本当に信じているのだろうか?ウクライナ以後、西側のインテリジェンスのシナリオを信じる者は、その作者以外にはいない。彼らは今や、長い目で見れば汚染されている。結局のところ、軍事的な事実は政治的なうわさ話よりも強力なのだ。

ここにも別の要因がある。EUのピーター・スターノ外務報道官は今月、ロシアの都市ベルゴロドへのウクライナのミサイル攻撃についてタス通信から質問され、20数名の民間人の死傷者を出したが、次のように答えた: 「ベルゴロドで起きた具体的な事件に関して、ロシアからもたらされるいかなる情報も信頼に足ると考えることはできない」と同報道官は付け加え、モスクワの「絶え間ない嘘、操作、プロパガンダ」を非難した。

ここに、現地の事実から切り離された「勝利の物語」の暗い裏側がある: EUのスポークスマンは、ウクライナの「侵略から......自国を守る権利」という強制的な物語を肯定せざるを得ないが、ロシアの言うことは何でもかんでも否定する。

わかりやすく言えば、「勝利の物語」は共感を殺し、積極的な傾聴と理解を奪う。外交官は深い傾聴を実践するはずだ。もし聞いたことが、自分たちが期待すること、あるいは聞きたいことと食い違うなら、もっと耳を澄ませ、聞いたことの背後にある見えないものが何なのかを突き止めようとする。欧米は今、これを実践していない。

人々はよく、なぜ現代では共感が希薄なのか?なぜ国家は互いを素通りするのか?なぜコミュニケーションのチャンネルが詰まっているのか?それが理由だ: 簡単に暴露される真実に基づかない物語が反転しているのだ。

しかし、ウクライナにおける西側の敗北は、西側の「敗北」の積み重ねの一部にすぎないかもしれない。イスラエルでの敗北は、米国の政治的存在の核心を突くものである。そして、中東ではさらなる打撃が待ち受けているかもしれない。

はっきりさせておきたいのは、その下に潜むきめ細かな真実に対して不誠実な妄想の布を紡ぐことは、最終的にその作者を傷つけるということだ。人々を混乱させ、不安に陥れ、過去の緩い砂利を蹴飛ばし、全く準備のないまま、崩壊する敗北を理解しようとあさる。

そして、「共に勝利しよう」(今日、イスラエル全土で聞かれる)というような「勝利」のスローガンのロマンによって、国家が究極の破局へとコースを外されてしまう危険性がある: 「ドイツの歴史を研究し、ゲッペルスの経歴を見れば、プロパガンダがいかに危険な道具であるか、国家の道を(破滅的な)喪失に導きかねないものであるかがわかる。

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抜粋終わり


天皇 が、前の戦争の「唯一の責任者」=「唯一の統治権者」であり、

前の敗戦は「アジアの解放に寄与したけど、アジア人に恨まれるほどの悪行もした、自衛戦争のわりに、戦後植民地になった」

て恥ずかしくみじめな、惨い有様の戦争で、それを「指導」したことを、天皇はじめ国家の指導層は、一切国民に謝罪しない。

なんせ「情報」は庶民・国民よりも多く握り、「終戦」を鶴の一声で決めれるほどの権力を天皇とその閨閥の指導者が持ちながら、国民を守らず、国土を領空を切り売りして
「天皇」の地位を保全したのも、事実ですしね。


ウクライナや、今のイスラエルの「プロバガンダ」を、150年続けて、放射能でワクチンで、今は日本人を殺し続けているのが

「天皇家とその閨閥」

まあ順当に行くと日本人は死滅します、「天皇」有る限りに。

「万世一系の天皇」自体が「現実を見ない、プロバガンダ」の妄想でカルト宗教ですから。

上記文抜粋
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意志を持たざる国


今 日本で起きていること / 2024-01-09 19:46:59


HIROMI1961さん

なんということ 瓦礫の下でしばらくは生きていた がれきの隙間から見えた妻と息子、救助間に合わず…男性「必死で居場所を知らせてくれたのに」 : 読売新聞オンライン


yomiuri.co.jp/national/20240…


故カダフィ大佐「日本は意思を持った国とは思えない。米軍が駐留し植民地のよう。侮辱的な事で通常の国のあり方ではない。米国に追随してばかりいる。もっと自由な意思を持たないといけない」


プーチンも同じことを言っていた.....


そうだね  敗戦国 植民地だから 国民のいのちも守れない。

日本人の 敗戦は ずっと ずっと 続いていた。

脅しが続いていた。屈辱は続いていた。

そして 皇室も 総理大臣も 元勲と いわれる ひとたちも 宗主国のスパイだった。

メディアも よってたかって 国民を騙していた。

宗教団体も こぞって 国民を 騙していた。

今は イタクても それを知らなければ

日本人は 誇りを 持って 生きることが できない。

子どもたちに 顔向けできない。


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抜粋終わり

天皇は、「国民が意思を持つと、存在できない」

過剰なムラ社会は「個々人が意見を持つと、簡単に団結が壊れるので、異論は許さない」

なら、誰も考えなくなる。

その上に自己責任論・通俗道徳で、「助け合いは、自助に反する」で助け合わない。

順当に滅亡する「天皇日本」と「天皇を崇拝する日本人っていう似非ニホンザル」


天皇を根絶して 日本人を救おう

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みの富む社会になりますように。

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