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珈琲が冷めきった後で

人生の中で忘れられない喫茶店がある。

残念ながら閉店してしまったのだが、私の人生の中で多分これ以上の素晴らしい喫茶店とは出会えないだろうな…と思ってしまう程の喫茶店だ。

その喫茶店は地下にあり、階段を下りていく過程で大量の古びた振り子時計に見守られながら辿り着く。

ドアを開けると、香ばしい珈琲の香りとほんの少し煙の香りがする。
そして「いらっしゃいませ」と言う、メガネをかけた知的な雰囲気が漂うマスターがいつも迎えてくれた。知的な雰囲気…に少し補足すると抽象的な表現だが、「映画に出てきそう」といった雰囲気である。

私の感覚では、「なんか映画に出てきそう」「なんか邦画感が強い」という表現が一番近い。

邦画だったら、どの監督の映画に出演しているだろう?そんなことをつい思い浮かんでしまうようなマスターだった。

「お一人様ですか?」
「空いてる席へどうぞ」

「はい」

マスターとは大体「はい」か軽い会釈ぐらいで会話という会話はしたことがなかったのだが、それでもこのマスターとこの喫茶店が大好きだった。

店内はマスターの趣味が全開で溢れていた。
カウンター付近にはお宝に近いクラシックカメラが大切そうに飾ってあり、ソファー席の向かいにある小さな本棚にはマスターの本で溢れていた。

本はその時々で入れ替えていたかも知れないが、私が訪れた時は「江戸川乱歩」「太宰治」「寺山修司」…と文学に溢れており、かなり貴重な本まで置いてあった。そしてその本棚の上には岡本太郎の「太陽の塔」のオブジェがあった。

また珈琲のカップもとても素敵だった。
私は喫茶店に行く時は大体アイスコーヒーをオーダーするので基本的にグラスばかりなのだが、一度珈琲をオーダーした際にレトロでお洒落な花柄が施された、とても素敵なカップが出てきてその可愛らしさに驚いてしまった。

その店は「○○さんぽ」や「○○ 純喫茶 レトロ」で検索すると必ずと言っていいほど名が挙がるお店だった。

…と、ここまでつらつら書いておきながら、大変言いづらいのだが私は「珈琲」のウンチクを語る程「珈琲」の知識は持ち合わせていない。

またこれと言って「純喫茶」を趣味にして語る程、「純喫茶好き」でもない。

純粋にこの空間とマスターが好きだったのである。

私にとってこのお店は「古き良き」とか「純喫茶」とかそんなありきたりのフレーズでまとめたくないそんなお店だった。

そして大変おこがましいのを承知の上で言うと、マスターと自分は感覚的にとても似ている気がしてならなかった。

「会話もしたこともないくせに?」

と思われても仕方ないのだが、自分の心の内ではそうなのである。

本棚の中身や趣味全開の店内もかなり自分の趣向なのだが、マスターのあの必要以上に人と関わらない感じが凄く好きだった。

冷たいともシャイとも違う絶妙な人との距離感。

別に人が嫌いじゃないんだけれども…っといったちょっと申し訳ない感じ。

そのくせ、サービスチケットとか色々こだわる。

あれだけこだわりにこだわった内装とマスターの世界観が全面的に構築されている空間なのにも関わらず、肝心なマスターはあまり表に出てこないのだ。

品を出したらヒュッと奥に行き、店内に私一人でも決して話かけない。
何度訪れても、週の大半に行っても決して余計な言葉をかけない。
とにかく私にとって最高な接客なのである。

決して人のことを言えた義理ではないが、正直あの店名だと確実に「その趣味」がある人が集ってくるであろうそんな店名だった。

また飾ってあるコレクション等を見る限り、食いついてくる人が絶えないような人を惹き付けるモノに溢れていた。

珈琲を愛しているマスターには申し訳ないが、珈琲は二の次…となってしまうような店内だった。だがそれ程、店内はマスターの趣味のインパクトの方が強いのである。

この自分と似た感覚…というのにひとつだけ決定づけたことがひとつある。
それはマスターのブログだ。

どうしてそこに辿り着いたのは、未だよく思い出せないのだが、私は一度だけマスターのブログをたまたま発見して読んだことがあるのだ。

そこには普段語ることのない、マスターの好きな映画や演劇、カメラについてつらつらと書かれていた。(気がする)

淡々と書かれていた文章だったが、マスターの並々ならぬ趣味の愛情が伝わる文章だった。

そして文章の最後にこう綴ってあった。

「ブログはブログですので、営業中は話かけないで頂けますと幸いです。」と。

記憶の中なのでもしかしたら文章に違いがあるかもしれないが、要は「あまり話かけないで欲しい」といった内容だった。
この文章を見た時に私は「分かるわ~」と酷く頷いてしまった。

気難しいと思われるかもしれないが、世の中には全面的に趣味や世界観を表現しているのにも関わらず、その趣味や世界観についていきなりガッーと話かけられるのが苦手な人もいる。

またそんな人間に知識マウントなんてもってのほかで、そのようなことをする人間が近づいてきた際にはすぐ様、「逃げる」のコマンドが浮かんでしまう。「戦う」というコマンドというよりもとにかくそのテの人が苦手なのだ。

知識マウントを取る人間に対して、「趣味の知識に溢れた会話」をするというよりもそのテの人に対してどうしても「面倒くさい」が先にきてしまう。

マスターと自分を擁護する訳ではないが、マスターも自分もこれと言って決して愛想がない訳ではない。特別に人間嫌いという訳でもない。

満面のサービス精神溢れる笑顔は苦手にせよ、せめてへへっと笑うことは出来る。だが、それ以上のコミュニケーションや人としての過剰なサービスを求められるのは苦手なのだ。特に私の場合は期待される程、プレッシャーも酷い。

マスターも私も趣味は趣味で確固たるものがあるが、それについて特に人と深く語りたくない、また多くを語らなくても平気なのだ。
言い換えれば、人と対面して語るのがちょっと苦手なのかもしれない。

過剰なくらい色々発信するくせに…といったところだが、少なからずそういった人もいる。

この一文を見た時、瞬時にマスターの普段の気苦労が分かってしまった。

この喫茶店を発見して通い始めたのは私が「平成ガールズカルチャー論」を始めるずっとずっと前の20代前半からだ。

それから30代に突入してもその喫茶店は気が向いた時に度々よく訪れた。

頼むメニューはいつも変えることなく、アイスコーヒーとチーズケーキ。
変わらないシンプルな味がいつも安定で美味しい。たまにマスターとは正反対のとても愛想の良いバイトらしき清楚で可愛らしいお嬢さんがいた。

そして、私が30代に突入してから客層も徐々に変わっていたって気がする。

前は読書をしたり、煙を燻らしたりのんびりと時間を過ごすお一人様が多かったが、複数人の来店でスマホでやたら店内やメニュー写真を撮ってる人が多くなった。

ガラケーからスマホに移行し、SNSが普及したのもあると思う。

皆、多分「レトロ」や「純喫茶」のイメージをそのままピュアに抱いてやってきた一見様のような感じだ。

時代が徐々に変わっていく中で、何故かいつもマスターが気掛かりだった。

「あの店のマスター、淡白だからいつかネットで叩かれるんじゃないか」

「自分ですら、やれイメージと違ったとか、やれなんやかんや言われることがあるのだからマスターもきっと…」

今思えば本当に失礼過ぎる話なのだが、それがいつも心配だったのだ。

もしマスターとお店の評価に誤解があったらいつでも擁護する気満々だった。
(そういったことが本来とても苦手なくせに)

だがそんな心配とは裏腹に当然だがお店は飄々ひょうひょうと営業しており、通常運転の高評価で安心していた。

私はお店が閉店した後も、喫茶店でアイスコーヒーをオーダーする度、暫くあの店とマスターのことを思い出していた。

インスタを開けば、「#純喫茶」で検索するとたくさんの純喫茶が出てくる。

「#純喫茶  #閉店」で検索するとたくさんの♡の数とともに私が大好きだったあの喫茶店も出てくる。

「映え」と♡の数だけ気にした写真を眺めていたら、私が好きだったあの店もどこか違う店に見える。

ふと。
ふとなんとなく、思い付いたシンプルな言葉でそのまま検索をかけた。

なんと!
マスターがインスタをやっていたのだ!

「えっ!インスタとか一番やらなそうなのに!」という思いと「どちらかいうとnoteとかやりそうなのに!」という思いと「どうしよう…ちょっとウケる…」といった失礼過ぎる思いがブワッと込み上げた。

マスターのインスタはとてもマスターらしい素敵な写真で溢れていた。

私が慣れ親しんだあの景色達。
そしてお店のあの珈琲。また意外すぎるお茶目なマスター自身の謎の写真。

どの写真も大体コメントが一文ぐらいで
「# 」の後がシンプルなのもとてもマスターらしい。マスターはマスターでゆるゆるとインスタを楽しんでいるようだ。

そして、つい最近の写真を見てドキリとしてしまった。

マスターと全く同じ場所の同じ構図、同じぐらいの時刻で私も写真を撮っていたのである。そして、同じく私もインスタでストーリーに上げていたのだ。

写真のコメント文はいたってシンプル、場所と撮影の時刻のみだ。余計なことは一切書かない。

言葉がなくてもよく伝わる。
マスターは今も変わらずあの時のマスターのままだった。

もう二度と会えることはないのかもしれない。

私はそんな寂しさに少し包まれながら、冷たいアイスコーヒーを一口飲んだ。






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