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一筋の光になる前に


孤独になると辺りが真っ暗になり、とても寒くなる。
こころもからだもまた同じように冷えていく。怖くなって、ずっとかけがえのなかったものに縋り付く。

それが無意味だとまるで告げられているようでもう嫌になる。
周りが見えていない者は周りから嫌われる。
嫌われないように必死に縋り付いて生きていくことになる。
縋り付くとみっともなくてまた嫌われる。

だから一人になる。
そして寂しくなって、辺りは暗くなる。


暗くなってたあとで、そこに一筋の光のように差し込む。


それが本当にやりたいことなんだと気づく。


賑やかでわいわいとはしゃいでいた頃には気づかなかった光が今ここにある。
いろいろなもので惑わせて、幻覚を見て幻聴に浸っていた過去を懐かしむ。
過去は置いてきたんじゃない、ちゃんと連れてきたんだと知る。
果たして自分に、どのような過去があって、どれだけ縋り付いてきて、どれだけ寂しさをごまかしてきたのかも曖昧になる。


自分を見失った分だけ朝帰りをして休日を無駄にする。
家になって横になって、ふと考える。

なんのためにこんなにもはしゃいでいるんだっけ?

そんな疑問も全てがお祭り騒ぎの闇の中にスーッと消えていく。
とたんに胃がムカついてきて、ごまかしのためにラーメンを啜って、水を飲んで、あれ、俺なんで生きているんだっけなと、また疑問が募っていく。
また胃のムカつきを助長させる。

あれ、俺なんで生きているんだっけなとまた。


生きている理由なんて一生わからない。

だからこそ走り続けるしかない。
周りに笑われてヘタをこいてもう散々になって死にたくなっても、多分生きたいのだと思う。なんで生きているんだっけと擬音が募れば募るほどに生きるしかなくなる。
いくら辺りに吐瀉物を撒き散らしても、自分の中を探っていけばそこには真っ白でかわいかった頃の幼い心が眠っている。
なんで生きているのかは、その眠っている心にしかわからない。
だからそっと揺り起こすしかない。


都会の喧騒では、本当の寂しさは見えてこない。
揺り起こしたい本当の心も見えてこない。
すれ違う人みんなが持ち得ているひとつひとつの心。
その全部がまるで見えない。

でも確かにそれは輝いている。
それは事実だ。
見えていないのに、それぞれは輝き合って、交錯して、ぶつかって喧嘩して、調和して、平和を願っている。


気づいてあげた方がいいのかどうかは、その本人にしかわからない。
気づかないで一生を終える人だっているだろう。
なんら不思議はない。
気づいた方が優っているなんてことはない。
どのような人生を全うしようとも、全うしたことだけがあとに残るのだから。
残り続けて、微弱にも輝いている。
その一筋の光が、時には誰か別の孤独の一人の目の前に差し込んでくる場合だってある。
誰かの遺したものは、残された誰かが拾ってくれたりもする。


自分の遺したものを誰かが拾ったとしても、自分の孤独は消えないだろう。
孤独は全部足跡として残り続けているから、ただの生きた証なのだ。
もはや消えなくってもいい。
孤独が教えてくれることを見つめたいから。
自分が死んだ後も、ずっと孤独は孤独として、ただ一筋の光を探すための空間づくりを演出してくれるのだ。


それはとても素敵だと思う。
綺麗なものを作るのならば、自分と向き合い続けなければならない。
自分の汚い部分にもしっかりと光を当てなければならない。
弱い部分を見捨ててはならない。
強い部分だけ振りかざして押し通してはならない。
なんという徒労だろうかと嘆いてはならない。嘆くことさえ、忘れなければならない。


繰り返し繰り返し、それでも違う日常が続いていく。
こんな世の中で綺麗になることすらも危ういのは、あらゆるものが加工されて綺麗だからだ。

汚いものは全て加工されて、お金を使って無菌室の中に移動される。
自然は淘汰されて、そこには機械だけが残る。いずれはヒトのヒトたる部分も滅菌されてしまうと思う。
何もかもを許したおかげで、何もかもを通してやらねばならず、おかげ何もかもを検閲する。失敗しないように、常に失敗が滞っている。
それでも日常だけは違う世界を流動させている。


たくさん嘆きたい。
たくさん泣き喚きたいし、たくさん叫びたい。笑いたい。
怒鳴りつけて、そのあとに頬擦りしてたくさん謝りたい。
そうすることで、日常の本当の連続性のなさを実感するのだと思う。
人間らしい苦しみを神様から恵んでもらうことで、計算の呪縛から逃れ、規律の束縛から解放され、自由という意味の真の強さを感じる。
私たちはいつでも自由であり、いつでも不自由に怯える。
不自由に怯えることこそが、真の不自由だ。


自由でも不自由でも、人は一生の時間を定められて、誰もが天に召される瞬間を未来に預けている。
だから今この瞬間も、過去に誰かが預けたものが反映された結果になる。
私たちは結果を授かり、慮り、また同じように未来に預ける。


そうしてずっと歴史が重なり合っている。
自分がその中の一つであるとするならば、本当に小さい存在だ。
所詮は未来につなげるための、一筋の光に過ぎない。
この光が価値あるものになるかは、周りの人たちが決めることだろう。
未来の人たちが決めることだろう。
自分が決めることでは決してない。

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