和と能から「日本的ウェルビーイング」について考える

  島根の神楽を取り入れた「古事記」など、能・音楽・朗読を融合させた舞台を数多く創作・出演し、シュメール語による神話『イナンナの冥界下り』のヨーロッパ公演を行った能楽師の安田登氏によれば、俳人の黛まどかさんがフランスのパリで大学生に俳句を教えた際に、最も苦労したのは学生の俳句の中から「私(je)」を取り除くことであったという。
 彼らの俳句にはどうしても「私」が入ってしまい、例えば、「雨」を詠めば、「その雨は私の心の象徴で」のような話になり、なかなか「私」という意識から離れられないというのである。
 では、日本での「私」はどうか。『源氏物語』のような平安文学は、文脈と敬語によって主語を推察することが期待されているために、主語の多くが省略される。

●主客融合の「共話」によって、「今は昔」が出現

 さらに中世の能になると、文脈からも敬語からも主語が特定しにくく作られるようになる。わざと主語がはぐらかされ、「私」も「あなた」もなくなり、主客が融合してしまうのである。
 能の中の主客の融合は、日本語に特徴的な「共話」という会話形態によって引き起こされる。例えば朝、ちょっと大きな地震があったとする。昼に会った2人のうち1人が「今日の地震ね…」というと、もう1人がすかさず「大きかったよね」と言って、2人で1つの文(「今日の地震、大きかったよね」)が作られる。
 このような会話形式を「共話」という。このような「共話」は、相手の発言を途中で遮ってしまうので、欧米圏ではあまりよくないこととされている。しかし、日本ではこれができない人の方がコミュニケーションの問題があると思われたりする。
 能という芸能には、この世の人間である「ワキ」という役と、この世ならざる存在である「シテ」という役が登場する。この両者は住んでいる世界だけでなく、住んでいる時間も異なる。
 ワキは過去から現在、そして未来へと進む「順行する時間」に住んでいるのに対し、シテは今の時間を過去へと引き戻そうとする「遡行する時間」の中に住んでいる。
 住む世界も、住んでいる時間も異なる2人の会話は当然噛み合わないが、あることをきっかけに2人の間に共有する≪何か≫が出現し、その≪何か≫をきっかけに2人の会話は「共話」となっていく。
 共話によって融合しはじめた2人の会話は、それが進むとお互いに発する語数が減ることによって、それはさらに促進され、ついにはどれが誰の発言なのか全く分からなくなる。
 自他の境界が溶け合い、そして最後には彼らすらも消えてしまったような感覚を観客に与える。2人は、彼らを取り巻く環境、すなわち景色と一体化するのである。
 そこまでいくと、「あなた」に対する「私」が消えるだけでなく、「私」そのものも消えてしまう。彼我の時間の差も越えて、現在と過去が統合される「今は昔」が出現するのである。相違よりも共有を見出す「共話」という方法によって、住む世界すらも全く異なる両者は融合していき、「私」は消滅していくのである。

●聖徳太子17条憲法と『論語』の「和」の捉え方

 この「私」の希薄性は、近代以降批判の対象となり、「個人」が確立せず付和雷同的な国民性として非難の的になった。聖徳太子の17条憲法には「和を以て貴しと為す」と書かれているが、「和を貴しと為す」と書かれた『論語』の前には「礼の用は」と書かれており、「和」を成立させるためには「礼」の作用が必要だというのが『論語』の考え方である。
 「和」の正漢字は「」で、様々な音の楽器を一緒に演奏するというのが原義である。そこから、様々な人が様々な意見を出したり行動したりすると混乱するが、それを統制するために「礼」、すなわち秩序が必要だというのが『論語』の考え方である。
 それを聖徳太子は「和」そのものが大事であるという思想に変化させ、「礼(秩序)」を導入しなくても、「私」を捨て、多様性の相違点よりも多様性を通底する共通点を見出す「共話」、すなわち「和の議論」が大事と考えたのである。
 まず「私」を捨て、「和の議論」を続けながら、個人では到達できなかった全く新たな知見を獲得し、「三人寄れば文殊の智慧」が出現するのをじっくり俟つのが「和の議論」、すなわち「対話」に他ならない。
 孔子は、「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」と喝破し、「和」に対する概念として「同」を提示した。「同」とは皆で同じことをすることで、これが「付和雷同」に他ならない。
 今日の日本の「和」の多くは孔子の言う小人の「同」即ち「付和雷同」になってしまっており、「同じて和せず」になってしまっていると言わざるを得ない。

和歌とは「和する歌」一返歌しなかった罰

 「和」は文学においても重視され、日本の伝統文化の核である「和歌」は、文字通り「和する歌」であった。誰かに歌いかけられたら、それに「和する(応える)」ことが求められた。歌の中に「和」の話法が内包されているのである。
 『卒都婆小町』という能があるが、絶世の美女と言われた小野小町がシテ(主人公)の能である。しかし、この能の中の小町は醜く年をとった乞食の老女である。老残の姿を晒して人々から軽蔑され、また彼女との思いを遂げられずに憤死した深草少将の亡霊に憑依されて狂気になったりする。
 彼女がそのようになってしまった理由は、深草少将から贈られた歌に返歌をしなかった罰であると能では語られる。歌を詠みかけられたら、和する(応える)ことが、和歌の基本ルールなのである。
 しかし、平安末期から鎌倉初期に活躍した歌人である藤原定家は、そのルールから美しく逸脱し、「和する歌」の伝統を破壊し、和歌から「和」の性質が失われていった。
 和歌が「和」の性質を失っていったがために、「和」の性質を引き継いだのが「連歌」であり、「俳諧の連歌(連句)」である。そして、それを行う場としての「座」が生まれた。座というシステムは、平安時代までの「和歌」が成立しなくなったために、「和」が含まれる歌を生み出そうとした試みであったといえる。
 私が提唱して全国に広がった「親守詩」も子供が作った上の句に「和する」下の句を親が作るという、「和歌の伝統の創造的再発見」の試みに他ならない。毎日新聞を中心に全国大会が毎年開催されてきたが、中断を余儀なくされ、今年度から「高知親学」が中核となって復活する!
 「私」の「所有」という概念を捨て、「私」にこだわらない昔の日本人の生き方を学び直し、「和」の精神に立ち返ることによって、日本的ウェルビーイングを取り戻す必要があるのではないか。
 


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