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売れませんよ、これは——『HHhH』の場合、その3。

 たしかに爆発的に売れたわけではない。でも、たくさんの書評が出たし、話題にもなったし、本屋大賞の翻訳部門で第一位を頂戴したし、映画にもなった。
 そして何より、着実に売れつづけ、つまり読まれつづけていること、これが大きい。本は読まれなくなったとき、絶命する。じつはそんな本のほうが圧倒的に多い。図書館の保存庫でひっそりと眠っている本たち。地下納骨堂のようでもある。
 本が売れつづけ、読まれつづける理由は様々だろう。その本自体が圧倒的におもしろいとか、永遠不滅の古典的名著であるとか、そういうのはわかりやすい。でも、作家がまだ若く、本のテーマもセンセーショナルなものではないのに、市場から——つまりは書店の棚から——消滅しない本。そういう本はこと現代フランス文学においては少ないのである。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。昔は——戦争が終わってから七〇年代くらいまで、そう、たった半世紀ほど前までは——フランスで流行っているものに日本の若者は敏感に反応した。サルトル、ボーヴォワールの実存主義、アルベール・カミュの不条理の文学、各種のシャンソン、演劇、映画、フランスの現代はカッコよく見えた。構造主義、ヌーヴォーロマン(アンチロマン)、ポストモダンとか、そのあたりから読者離れが生じてきた。小難しくなり、敬遠する人が増えた。
 今では事情がまったく違う。
 空前絶後のジャポニスム。スシを代表とする和食ブームばかりじゃない。かつては書店の奥の暗がりに、谷崎や川端や三島がひっそりと並んでいるだけだったのが、今では日本で出たばかりの若手作家たちの作品がレジ横の平置き台に堂々と並んでいる。日本文学はけっしてオリエンタルなものでも、エキゾチックなものでもない。村上龍と村上春樹の出現が大きかった。日本の現代文学は、中上健二のところで大きな亀裂が入っている。そのことでいちばんもがき苦しんだのは、中上健次自身だろう。
 いつのまにか日本のマンガやアニメがグローバルな市場を席巻するようになった。そのことも大きい。フランスの全国規模の大書店だと、日本のマンガが占めるスペースは、個人経営の小さな書店くらいある。書棚も十や二十はあって、それぞれShonen、Shojo、Seinen など、日本語そのままのプレートが貼ってあったりする。通路に腰を下ろして読み耽っている高校生(たぶん)、大胆にも寝そべって読んでいるやつもいる。
 日本のマンガに相当するフランスのバンド・デシネ(bande dessinée)は、日本では売れない。ほとんど別物扱いになる(実際クリエーターたちの作品に向かう姿勢がまったく異なっているし、見た目の印象もまったく違う)。
 フランス文学もそれに近いかもしれない。
 フランス語を流暢に喋る人は増えたかもしれない。でも、本を読まない。
 このnote のページのレイアウトやら実務を担当しているわが娘によると、文学部って、もうオワコンだよね、という。
 父である私もうなずく。
 いや、大学の文学部の実情は知らない。当事者じゃないので。
 でも、大学の先生たちとは袖触れ合う機会もあるから、いろいろ話は聞く。一様にその表情は暗い。
 分析はしない。話が面倒になるだけだから。
 言いたいことはただ一つ、こんな状況にもかかわらず、ローラン・ビネの本は日本で読まれつづけている。『HHhH』が生きているいるおかげで第二作目も出版することができた。
『言語の七番目の機能』。
 またまた、なんじゃこれはというようなタイトルである。小説のタイトルとはとても思えない。言語論のエッセイか、と思わせるようなタイトルである。
 そして、内容がもう飛んでいるというか、読んでいて開いた口が塞がらないというようなものだった。
 一九八〇年の三月にパリの路上で交通事故に遭って死亡した世界的に著名な文芸評論家ロラン・バルトをめぐる物語なのだが、じつはこれはたんなる交通事故などではなく、入念に仕組まれた暗殺事件だったというのが、この小説のあっと驚く筋立てなのである。
 詳しい作品紹介は別の機会に譲るが、バルトの死の謎を追う若き大学の非常勤講師とパリ警視庁の刑事以外は、すべて実在の人物、それも著名な思想家、作家、政治家ばかり——たとえばミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ミッテラン大統領などなど——、でも、すべての登場人物が想像を絶する行動に出たり、事実に反する非業の死を遂げたりするのである。
 これって本人、もしくは親戚縁者から名誉毀損で訴えられるんじゃないかと本気で心配したほどだった。だから、この本についても入念なレジュメを書いた。そうしないと正しい評価が下せないと思ったから。そして、担当編集者にはこう言い添えた。
 これはやめたほうがいいと思う、やばいですよ。
 しかし、わが担当編集者は決行した(決断したというべきか)。
 するとけっこうな部数を初版で刷ったにもかかわらず、すぐに重版がかかった。たくさん書評も出たし、話題にもなった。
 つまり、『HHhH』の場合も、『言語の七番目の機能』の場合も、編集者の判断が正しかったわけである。でも、その判断は私の書いたレジュメに基づいている。ただたんにバクチを打っているのとは違う。そこに翻訳者と編集者の信頼関係がある。そう思って、毎度えんえんと事細かなレジュメを書いているのである。

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