うつ病人間が"普通"でありたいと願うことは難しい
普通にいられないからこそ、周りからの目が気になる
あ、僕のことです。
でも他の人も同じようなもんだと思ってます。違ったらごめんなさい(笑)
うつ病になってしまう人って、
①とにかく自分に自信がない
②他人の目が気になって仕方がない
の2つの特徴を併せ持ってるんじゃないかなーと思ってます。
例えば、頼まれた仕事ができなくて周りに迷惑なんかをかけたりした場合。「あー、僕なんか存在価値皆無じゃん」と自己嫌悪に陥るパターンはアルアルじゃないですかね。僕なんかコレばっかでした。
あとは過度に世間や人に恐怖して、何かにタッチする以前に引きこもってしまったりするパターンもあるかもしれません。
もう少し突っ込むと、僕らうつ病の人の多くは「普通でありたい」と思っているんじゃないでしょうか。大多数のマジョリティに身を置きたいと。
普通なる基準がこれまた人によって異なる定義でして、僕の場合は「周りに迷惑をかけないレベルの行動ができる」「他の人ができることを自分もこなせる」と認識しています。
これが出来ないから、自分は普通じゃないと思い込んで周りの目にビクビクしているんだと自分自身を評価しています。
なんで普通じゃないといけないのか
簡単に言ってしまえば、普通じゃないと村八分にあっていじめられるんじゃないかという恐怖です。
あいつはできない、あいつはどうしようもないという悪口を学校や会社で聞いたりすると、その誹りのターゲットが自分に向かった時の恐怖たるやかなりのプレッシャーがかかります。
そもそも日本の教育の根本には「他人に迷惑をかけない」という軸があります。これは普通に位置しない人間に対してなかなかのハードルを課しておりまして、人が出来ることが出来ないともなると、それがイコール「人に迷惑をかける」という思考に帰着します。
これらの恐怖政治たる世の中に対して、僕のようなヨワヨワのメンタリティ人間は他人の目を敏感に察知しながら、息を潜めています。
でも何をどうやっても上手くいかないことがあるんです。
自分が望まぬ形で露出して、時に怒られたりしたら地球崩壊のような感覚に陥ってテンションはマリアナ海溝へ一直線です。
普通になれない僕はどうしたか
僕の場合、物心がついてから何をやっても人より一歩二歩遅れてしまう人間だと認識していました。
周りができること、周りが考えられることが、僕にはできない。普通でいられないことによる村八分を避けたいと思い、小さい時から人と関わることは避けがちでした。
実はこの処世術は結構ちゃんと回りました。小学校の時は速攻図書室行ってました。おかげで学校の中で図書館の本を借りた数が全校第二位(かなりのマンモス校だったのに笑)になった実績があります。
ところが友達を作らなかった僕に親は激怒して「人と関わらなかったら生きていけない」という至極真っ当なことを言いました。そりゃおっしゃる通りなんですが、じゃあ僕はどうすりゃいいのって感じでした。
子供ながら考えに考えて帰着した結論、それが演じる事でした。親にも友達にも明るい人間を演じることにしたんです。まさに以下リンクの「アダルトチルドレンのピエロ役」が僕そのものです。
リンク先にはピエロ役かどうかのチェックリストが掲載されてます。
ビックリするほど全部当てはまります(笑)
ようは自分が普通のグループに属すためにヘラヘラ愛想を振りまく人間のことです。相手に嫌な気持ちにさせないように自分を演じました。
おかげ様で僕は人と良く喋るようになったし、一見友達は増えて親も安心したかもしれません。けれども自分自身を覆い隠すのに精いっぱいの僕は、以前より人の目をさらに気にするようになりました。
学生の時は運動も勉強もびっくりするほど出来なかったんですが、それでもまあまあ上手くやれたのは学校というコミュニティが人との付き合いでおおよそ成り立っていたからだと感じています。
だって勉強が出来なくてもハブられることってないじゃないですか。
評価軸がどちらかというと人間性だったからこそ、何か変にみられることはなかったかと思うんです。
学力が底辺を這う僕に対して学歴志向の親との関係は最悪でしたけど(笑)
このアダルトチルドレンの問題が顕在化したのは働きだしてからでした。
社会人になって自分の評価が仕事の実績というものに現れるようになったからです。人間関係だけでは全然乗り切れなくて、成績が評価に繋がり、その評価によって僕の運命が変わるという現実があります。
僕は平均点をとりたい人間でした。でもどうしても出来ない。周りが出来ることが僕にはなぜか出来ない。やがて人の目が気になって「普通の社会人ではいられないんだ」と落ち込んでいきます。
長らくやってきた「普通の自分」が社会で通用しなくなり、思い悩むようになったのだと感じています。
多分永遠に僕は"普通"にたどり着かない
長らく語ってまいりました。ここで結論を申し上げます。もう僕は普通ではいられないんです。人よりどんくさいし、頭が悪いのは避けられない運命です。
普通という評価軸は人それぞれでしょうし、学校、会社、家庭など置かれている立場によっても色々でしょう。その中で僕は自己評価が低すぎる可能性もあれば、普通の基準が高すぎるのかもしれません。
でもどんなことがあってもこの数十年付き合ってきた自分という人間は、自分が望む普通に達しないんだなと感じています。
さて、そんな普通じゃない自分がどうやって生きていくかを考えました。
「他人と比較しても仕方ない、人と比べないようにする」とか「他人の目は気にしない」とか、いろんな本を読むとそれらしい言葉をいただきました。
わからんでもないし理解も出来る。けど、それだけじゃだめです。だって、そんなもんどうやって起きちゃうんだから。自分が生きていれば他人と比較しちゃうし、比較したうえで自分が普通の人生を送れているかと再確認するのが今までの生業だったんですから。
そして、長らくうつ病で休職したのち、たどり着いた結論がこちらでした。
「自分が出来る範囲のものだけでいいから、一つのことに取り組む」
「継続してその仕事に打ち込む」
「苦手なことはしない。自分の世界を作る」
仕事は定型業務でもなんでもいいです。これをやれば職場で最低限認められるという仕事に従事することで、極度のマイナス評価を避けられるんじゃないかと考えたんです。
いいじゃないか、馬鹿みたいに一つのことに打ち込んだって。それで自分自身が保てるのであれば。
出来る範囲を意図的に狭くすることで、自分の自信を維持できる世界を用意しようとしました。
これが僕の「普通」の世界です。
ハードルをあげない。僕の標準にマッチしていればとにかくそれで良しとするんです。
この普通は、世間から高く評価されることはないというのは十分理解しています。これが今の僕の処世術なんです。
だからこそ転職は上手くいかないんだけど(笑)
こういう人間って転職は合ってないんですよね。たどり着くのがちょっと遅かったです。でもまあ、仕方ない。
転職活動において、いい年こいてマネジメントを拒否してプレイヤーを希望しているのは、自分の標準世界を転職先に求めてるからに他ならないです。
自分はエンジニアでも極一部の仕事しか出来ない人間でして、人をマネジメントするなんてとんでもないです。給料は上がらないし、生きていくだけでも精いっぱいです。
僕の場合、世の中の素晴らしい人生というやつを求められる位置にはおりません。「可哀そうな人間だね」と感じる人もいるでしょう。親からも言われました。仰る通り、残念ではあります。
しかし、死ぬという行為に及ばずに自分が自分で留められるのであれば、それはそれでいいじゃんって思うようにしてます。それが自分らしさなんかなーとそれっぽいことにたどり着いた次第です。
こんな僕が、いつか幸せという高次元の感情にたどり着くことができるのか?と思うとまだまだ未知だなぁとしみじみ思います。まー、もー、生きるのに精いっぱいですわ。ええ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?