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この春の桜の撮影を経て、自分にかけていた「呪い」が解けた話

随分noteを書けない日が続きましたが、それというのも良いことがあったからなんですね。そのことについて今日は書きます。めちゃくちゃ単純な話なんですが、写真がまた楽しくなりました。

いや、これでは語弊があります。まるで一定期間、楽しくなかったかのような印象を与えてしまう。できるだけニュアンスを正確に伝えるならば、「自分自身で無意識のうちにかけていた自己抑制が解けて、新しい気持ちでまた写真を撮れるようになった」という感じになります。今日はそういう話で、そしてこの話は写真に限ったことではなく、あらゆる自己対話が必要な行動に対して敷衍できる話ではないかと思っています。まず最初に、そんな風に思えるようになったきっかけの三枚の写真をお見せしますね。

この三枚、全て同じ桜を撮っています。撮影は時系列順です。この三枚の何がそんなに大事だったのか。それは、僕自身がこの一年半ほど設定していた、「自己規制」みたいなものが、撮っている間にポロッと破れ目が見えたからなんです。その「自己規制」とはなにか。一言で言ってしまえば「呪い」です。

例えば「もう定番構図は撮り尽くしたし、撮り尽くされてるからいいや」みたいなことは、最近よく言われます。「定番構図」っていうのは、例えばこういう写真です。

見た瞬間「ああー」ってみんながわかるような写真で、有名な構図で、同じポジションから撮った写真のことを「定番構図」ってよく言います。

もちろん、こういう写真も必要なんです。クライアントワークの中ではこういう写真が求められる場面も多いです。あるいは、カメラ初心者時代にはこういう写真を大量にとって、なぜこの構図が「定番」になったのかを勉強するためには必要なんです。でも、ある一定以上写真が撮れるようになったら、もうこういうのは自分の写真としては撮る必要ないんじゃないか、そんなことを数年前に思うようになりました。

そして二年前程からは積極的にそう考えるようになりました。トークショーでも「定番構図を脱するには」的な話をしたこともあります。そうやって最初は単に「他の撮り方にもチャレンジしたほうがいいよね」程度の軽い「努力目標」だったんです。ところが、二年ほどいろんなところで言い続けている内に、いつのまにか自分自身の発想さえ縛り付ける、無意識下の強固な鎖になっていたんです。言葉は祝福でもあり呪いでもあります、言い続けるうちに実体化するもんなんです。僕は講演や文章を経由して、いわば、自分に対して呪いをかけていたというわけです。そうしてその呪いの鎖はあまりにも強烈に僕に「新規性」や「生産性」を要求するために、写真を撮りに行くということが億劫になってしまいました。家を出る前から「ああ、新しい写真が撮れなかったらどうしよう」という想いを、おそらくは僕は自分に対して強烈に押し付けていたんだと思うんです。あるいは「どうせあそこに言っても、せいぜい同じ写真が撮れるだけだよね」と、家さえ出ずにカメラを保管庫に戻すような。家を出なきゃ、どんな写真も撮れないはずなのに!!

それがね、そんな呪いが、いきなり解けたんです。上の三枚を撮っている間に。不思議なもんです、僕自身、解けたあとに自分が自分自身によって強烈に縛られていたことにようやく気づきました。多分一枚目がすごくラッキーだったんですよね。現場に着いた瞬間、いきなり花吹雪が吹きました。僕は何気なくカメラを前に向けて、ほぼ無意識にシャッターを切った。そしたらいい場所に桜の花びらが入ってくれたんです。なんだか妙に嬉しかった。

で、その後は一切花吹雪なんて来ませんでした。一瞬の出来事です。こんな撮影、僕の普段の撮り方では全然ないんですね。僕はわりと現場に行くまでにイメージを固めて行って、その場に着くや否や、そのイメージをサクッと撮って撮影終了みたいなパターンが多かったんです。

でも一枚目でいきなり、無意識で撮った一枚がいい感じだった。ファインダーも背面液晶も見ずに、適当に切った一枚がいい感じだった。

そしたら妙に楽しくなっちゃったんですよね。ああでもないこうでもないと、現地でやってるうちに、なんか凝り固まった筋肉がほぐれるように、「これも撮りたい、あんな風に見せたい」というイメージやアイデアが吹き出てきました。二枚目は僕には珍しく、敢えて人が入っているカットを残しました。

三枚目は風景写真って言うには色も闇も強烈に後処理を入れていますが、そうまでして「見せたい」と思ったのは、桜へと至る一本の光る道でした。

特にこの写真は、おそらく「新しい見せ方」になってると思うんです。それこそ、この二年間追い求めていたような「定番写真ではない、新しい構図の写真」になっていると思うんですね。でもこれ、「定番写真はやめよう!」「誰も撮ったことのない写真撮ろう」とか事前に悲壮感漂わせてたら、多分その強烈な自己抑制によって、脳や感情や感性が萎縮しちゃって出てこなかった気がするんですね。

ていうようなことに気づいたこの春は、「何でもとにかく撮ってやろう」っていう方針に転換しました。今まで自分で撮ったような、あるいはすでに誰かが撮って有名になったような定番だって、恐れず堂々と撮ろうと。

一枚目は京都産寧坂の桜、誰もが知ってるあれですね。二枚目はスカイツリーと河津桜。そして三枚目は琵琶湖疏水。どれもこれも、いまさら敢えて撮る意味があるかと問われれば、無いような気がするとこれまでだったら答えたかもしれないです。でもね、やっぱりそれは違うんですよね。例えば三枚目を撮ってたときなんですが、これまでの僕だったら、多分真正面ど真ん中、F16くらいまで絞って可能な限り全体がボケないようにしてパンフォーカスで撮ったと思うんです。「定番の呪い」ってのは、つまりは「これが一番美しい見え方なんだ」という信仰だと思うんですが、なんのことはない、定番を避けろと人にいいながら、僕自身が一番その「呪い」に深くハマってたわけです。三枚目の写真は、横からずらして、F2.8で、後ろはなんとなくぼかして、少し暗めに撮りました。なんかそれがいい感じがしたんです。いつもと違うけど、なんかいい。多分この一枚は、いつか別のなにかにつながる。

こうして、自分のこれまで作ってきた「文法」を解体するのが、この春でした。その中から他にもお気に入りがたくさんでました。

技術的な面での発見や、構図的な直感、定番ポイントだけど見いだせた自分なりのこだわり。そういう撮影が本当に楽しいこの春になりました。

ただ、大事なのは、これをまた絶対的な教条にしないことなんですよね。写真のことは僕は未だによくわからないんですが、言葉のことはわりとよく知っていて、我々は自分自身に呪いをかける生物なんです。もちろんときに祝福にもなりえるんですが、たいてい自分の可能性を制限するのは自分自身です。この春の撮影を経て、僕は改めて「自分を縛る自分の言葉」の強さと怖さを実感しました。使う言葉には気をつけたいと思ったのです。

という意味において、これは「写真の話」というよりは、一般的な「自己決定」の話なんじゃないかなーと思いつつ、久しぶりのnoteを終えておきます。まだもうちょい桜撮りますよ―、楽しみだ!

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