見出し画像

戦国時代カレンダー 今日は何の日? 【4月19日~25日】

戦国時代の今日の日付にはどんなことがあったのか? 1週間ごとにお伝えします。ぜひ「ああ、今日はそんなことがあった日なんだな」と思いを馳せてください。毎週日曜日に更新する予定です。
なお、日付はすべて旧暦ですので、現在とは約1ヵ月のズレがあります。

4月19日 「鬼義重」こと佐竹義重没

慶長17年(1612)4月19日(旧暦)、佐竹義重(さたけよししげ)没「鬼義重」の異名(いみょう)で知られ、常陸(ひたち、現、茨城県)から奥州、関東に勢力を広げました。豊臣秀吉(とよとみひでよし)より常陸54万石の支配を認められますが、関ヶ原では西軍につくことを主張する息子義宣(よしのぶ)と対立。戦後、佐竹家の態度が不鮮明であったとして出羽久保田(現、秋田県)20万石に減転封(げんてんぽう)となります。狩猟中に死去しました。

4月20日 「美濃のマムシ」斎藤道三、討死

弘治2年(1556)4月20日(旧暦)、斎藤道三(さいとうどうさん)没。美濃(現、岐阜県)長良川の戦いで息子斎藤義龍(よしたつ、当時は范可〈はんか〉)に討たれました。家督は譲っても実権を握り続ける道三に義龍は疑心暗鬼となり、反道三勢力の後押しを受けて挙兵したといわれます。道三は圧倒的兵力差ながら逃げず、息子の軍勢と戦い、長良川河畔で討死します。

画像1

4月21日 賤ヶ岳合戦で羽柴軍が柴田軍を破る

天正11年(1583)4月21日(旧暦)、賤ヶ岳(しずがたけ)合戦羽柴秀吉(はしばひでよし)が勝利。美濃から大返しした羽柴軍は、激戦の末に近江(現、滋賀県)賤ヶ岳砦付近で佐久間盛政(さくまもりまさ)を破りました。また柴田(しばた)軍の前田利家(まえだとしいえ)らの戦線離脱もあり、主将の柴田勝家(かついえ)はやむなく戦場から退却。羽柴軍の賤ヶ岳七本槍(しちほんやり)の追撃はこの時のことです。

画像2

4月22日 細川藤孝が誕生

天文3年(1534)4月22日(旧暦)、細川藤孝(ほそかわふじたか)誕生。肥後(現、熊本県)細川家初代忠興(ただおき)の父で文武に秀で、明智光秀(あけちみつひで)と親交がありました。幕臣三淵晴員(みつぶちはるかず)の次男で、細川家の養子に。兄三淵藤英(ふじひで)とともに将軍足利義輝(あしかがよしてる)に仕え、義輝亡き後は弟の義昭(よしあき)擁立(ようりつ)を図り、その後、織田信長(おだのぶなが)に仕えます。

4月23日 細川藤孝と石田三成、島津義弘の戦功を賞す

天正16年(1588)4月23日(旧暦)、細川藤孝石田三成(いしだみつなり)が島津(しまづ)家の新納忠元(にいろただもと)に通達。肥後国一揆における島津義弘(よしひろ)の戦功を賞しました。また、義弘の進軍を阻(はば)んだ人吉(ひとよし)の相良頼房(さがらよりふさ)に逆心のあったことを認めています。しかし相良の行動は、義弘が一揆に味方すると誤解した佐々成政(さっさなりまさ)の要請を受けたものでした。

4月24日 北ノ庄城落城、柴田勝家とお市自刃

天正11年(1583)4月24日(旧暦)、柴田勝家没。賤ヶ岳で敗れた勝家は越前(現、福井県)北ノ庄(きたのしょう)城に戻りますが、羽柴秀吉軍に包囲され、城内に攻め込まれます。勝家は正室お市(いち)の3人の娘を城外に逃がし、お市とともに天守最上階で自刃(じじん)。家臣80余人もこれに従いました。

画像3

4月25日 豊臣秀吉、肥前名護屋城に到着

天正20年(1592)4月25日(旧暦)、豊臣(とよとみ)秀吉が肥前名護屋(なごや)城(現、佐賀県)に到着。唐入(からい)り(朝鮮出兵)の本営で、城の規模は大坂城に次ぐ巨大なものでした。文禄(ぶんろく)の役では西国衆を中心に20万人以上が渡海、名護屋城周辺には東国衆及び秀吉の旗本約10万人が待機しています。

画像4

【4月の戦国武将生没日】

4月7日・徳川秀忠誕生
4月7日・浅野長政没
4月8日・結城秀康没
4月9日・木下利匡没
4月9日・池田恒興没
4月9日・池田元助没
4月9日・森長可没
4月10日・後藤又兵衛誕生
4月12日・武田信玄没
4月16日・丹羽長秀没
4月17日・徳川家康没
4月18日・丹羽長重誕生
4月19日・佐竹義重没
4月20日・斎藤道三没
4月20日・中川清秀没
4月21日・石川一光没
4月21日・毛受勝照没
4月22日・細川藤孝誕生
4月24日・柴田勝家没
4月27日・毛利輝元没
4月29日・松平広忠誕生

いただいたサポートは参考資料の購入、取材費にあて、少しでも心に残る記事をお届けできるよう、努力したいと思います。