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教#043|何かに夢中になって、本気で取り組めば、必ず、人生の次のステージは見えて来ます。~ブルーピリオドを読んで⑭~(たかやんnote)

 大葉先生に、好きな絵を写メしてと言われて、八虎はゴッホの「ローヌ川の星月夜」の絵を写真に撮ります。本番の受験の一次試験で、「自画像を描け」と云う課題が出て、ゴッホがオーヴェールで描いた、最後の自画像を即座に思い浮かべます。

 去年の11月、都美術館で開催されていたコートールド美術館展を見に行きました。平日の雨の午前中に行ったので、そう人も多くなくて、落ち着いて見て回ることができました。展示作品は、少なかったんですが、著名な名画が並んでいました。ゴッホの桃畑の絵を見ました。アルルに行って、2年目の春を迎えた時に、描いた作品です。例の耳切り事件の後の絵ですが、南仏のおだやかな春の農園を、広々とした視野で捉えて描いています。ゴッホは、アルルは日本の風景に似ていると、勝手に思い込んでいましたが、確かに、山梨とか長野とかに行けば、こういう風景が、どっかにありそうな気はします。色彩は、ものすごくaboutに言ってしまうと、印象派風です。

 印象派の影響を受けたのは、フランスに来てからです。母国のオランダやベルギーでは、音楽で言えば、ブルースと言ってもいいような、もっと地味な絵を描いていました。代表作は、「馬鈴薯を食べる人びと」です。家族五人が、夕食のジャガイモを食べている絵です。ジャガイモを、どういう風に調理しているのかは、解りませんが、角切りにしてジャガイモのみを食べています。他の副食物は一切ありません。お母さんが、薬缶に入ったコーヒーをカップに注いでいます。テーマが「貧しさ」なのか「日常」なのか、あるいは「生きる歓び」なのか解りません。天井にはランプが吊されていて、手前を向いている4人には、それぞれ、a little、光が当たっています。が、ハイライトと言えるほどの効果は、発揮してません。全体として、暗い絵です。が、一度見たら、まずそう簡単には、脳裏から消え去らない、すぐれた作品です。

 同じ年に聖書の絵を描いています。どこかのページを開けてあります。挿絵が入っているように見えます。解説を読むと、イザヤ書だと書いてあります。そう言われて見ると、右ページの上部に、アルファベットで、「イザヤ」と表記されているような気もします。聖書の手前には、ゾラの「生の歓び」の小説が置かれています。ゾラの本の表紙は、レモンイエローで、暗い絵ではありません。

 イザヤ書と云うのは旧約聖書の中でも、重要な書だと言えます。モーセをまあ、別格として、旧約聖書の中では、No1の預言者だと言えます。第一イザヤ、第二イザヤ、第三イザヤと云った問題があるのかもしれませんが、だったら第一イザヤです。

 八虎は、ゴッホが好きで、あとゴーギャンの絵のタイトルの一部を引用していましたから、ゴーギャンが好きな若者もいます。私は、倫理を6年間、教えていました。倫理の教科書の青年期の課題の章には、「われわれはどこから来たか、われわれは何か、われわれはどこに行くのか」の絵が掲載されていました。

 ゴーギャンは、宗教画を描いています。ゴッホは、聖書の絵ぐらいしか描いてません。が、ゴッホは若い頃、牧師見習いとして、ボリナージュの炭鉱町で、苦労しています。ゴーギャンは、敬虔なカトリック教徒で、ゴッホは、カルバン派のプロティスタントです。二人とも神を信じています。神を信じているか、否かは、大問題です。こんな大問題をさておいて、ヨーロッパの文学や絵を学ぶのは、正直、相当、無理があると思います。日本人が、印象派を好むのは、取り敢えず、キリスト教をさておいて、絵の美しさを鑑賞できるからだと、私は想像しています。

 ジャガイモや聖書をモチーフに取り上げた翌年、ゴッホは、靴をテーマにした絵を描きます。労働者の履くドタ靴です。ただ、パリに出て来たので、ドタ靴も、ドタ靴の周辺にも、光があふれています。印象派の影響を、ストレートに受けています。が、ドタ靴であっても、明るい方が見栄えがします。これが、マーティンの長靴の使い古しだと言われても、信じられます。とにかくパリ時代は、まんま印象派と云った風な絵を描いています。ゴッホの真価が発揮されるのは、アルルに行ってからです。

 アルルでゴーギャンと二ヶ月、一緒に暮らします。二人は、一緒に住む前に、自画像を交換し合います。どちらの自画像も、私は好きです。二人とも、到底、普通の人には見えないし(現実、普通の人ではありません)普通のまともな生活が、送れる人たちだとも思えません。ゴッホは、37年の生涯のどの時期も、普通の人ではありません。ゴーギャンは、23歳で、株式仲買人になって、35歳までの12年間は、普通の人として暮らしています。絵は描いていましたが、日曜画家でした。絵だって、趣味に止めておけば、リスクは、限らなく逓減します。佐伯先生は「好きなことは、趣味でいい。これは、大人の発想だと思います」と語っていました。そんな大人の発想で本当にいいのかと、八虎を煽って、発憤させたと言えます。ですが、高校の美術の先生と云う安定した経済生活を送っていて、敢えて人生を棒に振るような、絵画のプロを目指させるのは、言ってることと、やってることが、違うかなとは、私も同業者ですから、思ってしまいます。

 私は長年、高校生バンドの指導をして来ました。音楽のプロを目指せと言ったことは、かつて一度もありません。音楽を人生の伴侶にして、生きて行って欲しいと願っていますが、音楽は趣味でいいと思っています。音楽でプロを目指すのは、目指さざるを得ない人たちだけが、突き進んで行く荊(いばら)の道だと、確信してます。ですから、音楽のプロを目指す教え子がいたら(そんなに多くはいませんが)「まあ、こいつはしょうがないかな」と心の中で呟きながら、ぬるっと背中を押しています。

 ゴッホやゴーギャンは、画家にしかなれなかった人たちです。ゴーギャンは、株式仲買人として、生活できる人だったのかもしれませんが、ゴーギャンの人生をトータルで見ると、やっぱりそれはないなと、理解できます。

「何がどうであっても、絵に向かって行く」と、一生涯、これを貫くことは難しいし、普通の人の場合、その必要もありません。大学受験のために画塾に通っている時期と、あと大学の4年間、ひたむきになれば、それで充分です。何かに夢中になって、本気で取り組めば、必ず、人生の次のステージは見えて来ます。

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