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急激に中国生活が愛おしくなってきた

人生を終えようとしているとき、過去のことを悔やんだりやっておけばよかった、大切にしておけばよかったことなどが出てきてようやく自分に素直になっていくらしい。

それが今の自分の中国生活に対しても似たような気持ちが表れてきている。当たり前にそれがあるときには何も感じずに無為に日々を浪費しているにもかかわらず、終わりが見えてくると急に味わうひとつひとつが大事になってくる。

西红柿炒鸡蛋とか、今になってようやくひと口ひと口を味わいながら食べている。日本に帰ったら、この動画見ながら自分でつくろう。


最近、急にもっと中国語をちゃんと勉強したくなって通訳養成講座というのに申し込んだ。これまでほぼ独学でしかやってこなかったのに。いきなり思い立って申し込んだ。それも「もっとちゃんとやっておけばよかった」という気持ちの表れ。

それに加えて、これまで1度しか行ったことのなかった国家大劇場に、今月オペラを見に行くことになった。オペラなんてこれまでの人生でお金払ってまで見たことなかったのに。いや、オペラどころかクラシックコンサートにお金払って見に行くこと自体が初めてだ。

たった12年生活していただけの、人生の4分の1しか過ごしていないところを離れるだけでこのありさま。

ホントに人生を去るとき、逝くときにはどうなってしまうのだろうか。昨年交通事故で重傷を負い、丸一日以上意識不明だった。目が覚めてしばらくしてからは生きていて良かったと思ったが、それもホンの2~3か月の話。そのあとはひたすら厳しい現実しかなかったから

「あのときに死んでいればこんな苦しむことはなかったから、やっぱり事故でそのまま死んでいてくれてた方が良かったのかも」

とながらく思っていた。

でも、ただただ長く住んでいただけで深く知ろうともしていなかった中国・北京から離れようとしただけで、こうも未練がましく色々やっておこうと思い始めている。

人生残りあと数か月とか言われたら、俺は何をしておきたくなるのだろうか?

北京生活に限らず、常にこの気持ちで何事にも取り組むことが出来ていたら、もう少し苦労の少ない人生を送れていたかもしれない。

「もし明日死ぬとしたら今日をどう生きるか」みたいなことは自己啓発の世界ではよく言われているけど、実際にそんなことを考えながら生きている人は少ない。

しかし、事故で死にかけた経験と、北京を離れるさみしさへの味わいを掛け合わせたうえで「もし明日死ぬとしたら今日をどう生きるか」を想像したら、イメージできるし、行動にもつなげているようにも感じた。

だから
「もし明日死ぬとしたら今日をどう生きるか」
「もし来月には死ぬとしたら今月をどう生きるか」
このブレインダンプをやってみることにする。

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