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延藤安弘『こんなまちに住みたいナ』を読む|最期の著書、そのルーツとしての絹谷祐規

2015年 こんなまちに住みたいナ 

絵本のような小さなサイズでカバーイラストもかわいらしくあしらわれた延藤安弘(1940-2018)の著書『こんなまちに住みたいナ-絵本が育む暮らし・まちづくりの発想』(図1)。昨年おしまれつつ亡くなった延藤にとって最期の著書となりました。

図1 こんなまちに住みたいナ

延藤が長年にわたって収集してきた国内外の絵本たちを題材にして紡がれた、「自分らしい生き方と暮らし・まちづくりに向けての自らの思考の地平を取り戻す」ための「発想」の玉手箱といった内容に仕上がっています。

「人生の節々で絵本に触れて、おどろきや瞬発力や、物語のユニークさや、言葉の詩的表現と絵の美しさへのあこがれや、ユーモアを楽しむゆとりや、かくありたいと願う等の「絵本の力」を感じ、味わって」きたという延藤。

なんだか、ここで語られる絵本への思いは、延藤自身が(1940年生まれとは思えない行動力で)「生活者、住民が主人公となる住まい・まち育てのススメのための全国行脚」を展開し、繰り広げている「幻燈会」の魅力とソックリだと気づかされます。

全国各地、さらには海外にも出向き、まちづくりの現場へ自由な発想の風を吹き込む旺盛な行動力。

2台のスライドを駆使して絵本の一場面やまちづくりの現場の様子を映し出し、そこに著者独特の語りを加えることで、ひとりの心に幻をひろげ、別のひとりの心に燈をともす「幻燈会」。

その魅力は、まさに「おどろきや瞬発力や、物語のユニークさや、言葉の詩的表現と絵の美しさへのあこがれや、ユーモアを楽しむゆとりや、かくありたいと願う」気持ちが高まらずにはおれない体験では中廊下、と。

幻燈会での語りと同様、本書でも「天災、人災が続発し、多事多難が山積みする現代に生きる私たち大人は疲れて」いる現代、「新しい発想や考え方がもちにくい」時代だからこそ、「絵本」という「大人の心をほぐしてくれる秀れたメディア」へ目を向け「自由な発想と人生を楽しむ機会」を増やして欲しいと訴える延藤。

そうした思いにあふれるこの本は、数々の発想の種を契機に、「自分らしい生き方と暮らし・まちづくりに向けての自らの思考の地平を取り戻す」、いわば生きるための実践書。それは延藤が2013年に出版した『まち再生の術語集』(岩波新書)にも共通するスタイルです。

では、延藤がここ数年になって「発想やふるまいのキーワード」をとりまとめた著作を生み出したのはなぜでしょうか。そのナゾを解くためにも、時間を30年ほど巻き戻してみましょう。

1983年 こんな家に住みたいナ

本書のタイトル『こんなまちに住みたいナ』をみて、延藤の活動を以前から知る人たちが真っ先に思い出すのは、絵本を住宅・都市論にまで高めた名著『こんな家に住みたいナ-絵本にみる住宅と都市』(1983、晶文社)ではないでしょうか(図2)。

図2 こんな家に住みたいナ

約30年も前の本ですが、住み手を主人公に位置づけて、皆が協働して環境改善に参加する大切さを欧米の絵本に見いだす内容は、2015年の本書にまで問題意識がしっかり通底していて驚かされます。

京都大学大学院において西山夘三(1991-1994)に師事し、その後、西山の後継者・巽和夫(1929-2012)研究室の助手をつとめていた延藤は、『こんな家に住みたいナ』出版の2年後、1985年に熊本大学へと赴任します。

そんな状況にあった30年前の延藤は当時どんな問題意識を抱いていたのでしょうか。試しに『こんな家に住みたいナ』の前後に著された主だった著書・論考をならべてみると・・・。

「ハウジング論序説」(1974、『現代の生活空間論・上』)
『都市住宅供給に関する計画的研究』(1976、学位論文)
『計画的小集団開発』(1979)
「イギリスの環境教育の動向」(1982、『住教育』)
「人間的規模の共同性によるコーポラティブ・ハウジング」(1985、『市街地整備の人間的方法』)
「ハウジング序説」(1985、『新建築学大系一四』)
「ハウジング研究作法覚え書」(1986、『現代ハウジング論』)
『集まって住むことは楽しいナ』(1987)
「コーポラティブ住宅の計画研究としての方法的位置づけ」(1989)
などなど。

やけに目につく頻出語句「ハウジング」。このキーワードを延藤自身つぎのように定義しています。

ハウジングとは住み手が人間的居住に足る、かつ、都市的脈絡の中に位置づけられた、一定の質の住居・環境という空間的側面と、それを社会のあらゆる階層・地域において実現するための目的と手段の体系という社会的側面、および、住み手が居住しつつ住みよさを付加し、近隣関係を育てていくという生活的側面を統合した、有機的概念である。
(延藤安弘「ハウジング序説」)

やはりここにも「住み手」に温かなまなざしをむける延藤の姿勢が垣間みられます。

こうした「住み手」へのまなざしは、時代を経るにつれより豊かな表現に彩られ今に至ります。では、このまなざしは当時所属した巽研究室に共通した特徴だったのかというと、そうでもない。

西山研からの研究課題を継承・発展させて幅広いテーマを手がけていた巽研究室とはいえ、80年代後半の研究成果をとりまとめた、巽和夫編『行政建築家の構想』(1989、学芸出版社)では、「民間活動が旺盛であればあるほど、それとカウンターバランスをとるだけの力量を行政が備えなければいけない」との問題意識に立ち、建築行政の再編・強化を謳っており、著者のまなざしとはかなりの隔たりが認められます。

その隔たりを象徴するように『行政建築家の構想』が出版される2年前に『集まって住むことは楽しいナ』が、そして翌年には『まちづくり読本-「こんな町に住みたいナ」』が出版されます。

これはなんとも対照的なできごと。では、延藤のまなざしが突然変異ではないとしたらルーツはどこにあるのか。そのナゾを解くためには時間をさらに20年、今から半世紀前に時間を巻き戻してみたいと思います。

1964年 補助線としての「絹谷祐規」

延藤が京都大学大学院に入学した1964年は、西山研究室の歴史上、一大事件が起きた年として記憶されています。それは、西山の後継者として将来を嘱望された助教授・絹谷祐規(1927-1964)が不慮の事故により遥かオランダの地で客死した年として。

師・西山の「たとえようのない悲しみ」がいかほどであったかは、絹谷の遺稿集に収録された40頁を超える愛情と無念の思いが入り交じった「あとがき」から想像できます。

延藤の京大大学院入学が4月、絹谷の死が9月であることからも、両者の関係は薄いように思われかねませんが、当時の研究室を絹谷祐規の「喪失」が支配したであろうことを思うと、むしろより強い影響を延藤へ残したのかもしれません。

両者を結びつけることがあながち突飛な発想でないことは、翌年に刊行された遺稿集の収録論文「世帯構成およびその住宅との対応関係」の解説を延藤が担当したほか、今回紹介している本書『こんなまちに住みたいナ』の目次、「生き方篇/住まい・まち育て篇/コミュニティ篇」という三篇構成が、遺稿集『生活・住宅・地域計画』(1965、勁草書房)の書名と呼応していることからもわかります。

そんな「絹谷祐規」を補助線にして、本書『こんなまちに住みたいナ』の読解を試みたらどんな景色が見えてくるでしょうか。

絹谷の研究姿勢や人となりを遺稿集から拾い上げてみると、たとえば次のような表現がみられます。

単にいわゆる工学技術的・自然科学的アプローチのみでなく、しつような人間関係の追求にうらうちされた社会科学的な立場からのとりくみ、また単に現状の調査・分析、モデルの設定や計算におわることなく、そこで生活しつつある人々との交流を深めつつ、空間創造を任務とするアーキテクト・プランナーの創造的立場の自覚をもって、正しい政治の展開と共に要求されるであろう新しい科学と技術を創造しようとしていた。
(西山夘三「あとがき」、『生活・住宅・地域計画』1965)

また、「すぐれた聴覚型の人」であり「音として読み、人の心を聞き分け、自らしゃべることを感じる中で考えを練り、構想を発展させるというタイプの人」、「すぐれた研究者・書斎人であったが都市の街頭や雑踏の中で、裏町や長屋で、車中や駅頭で、あるいは草深い農家の庭や漁村の浜で、イキイキとした調査マンであった」といいます。

ほかにも学部生を喫茶店に連れてミックスジュースを初体験させたなんてお茶目な一面も持ち合わせたそう(西村一朗氏ブログ)。

このような人となりの絹谷が思い描いた都市ヴィジョン「四次元の都市計画」はどのようなものだったのか。

絹谷はいいます。固定されたイメージに現実を合わせるのではなく、「そこに住む人たち-労働者やオッサン、オバハンたち-が自らをかえつつ都市をかえていくもの」だと(論考中、唐突にオッサン、オバハンという語句があわられるあたり、ニヤリとさせられます)。

それは「そこに住む人たち」を主役に据え、調査研究と設計デザインをつなぐ提案であり、西山研究室が探究し続けてきた「国民的建築学」の模索に連なるものであったのはいうまでもありません。

ふたたび、2015年 こんなまちに住みたいナ

約30年のときを隔てて出版された『こんなまちに住みたいナ』と『こんな家に住みたいナ』を二つの点に見立て、その点を通過する「絹谷祐規」という補助線を描き込んでみると、その直線上に、西山夘三の「国民的建築学」から綿々と続く「住み手」主体の生活空間創造が浮かび上がってきました。

それと同時に、延藤の取り組みが「住み手」主体論を継承しつつ、さらに「住み手」が主体となるための「発想」や「ふるまい」「方向感」の設計デザインへと発展してきたことも見えてきます。

この展開が近年になって『まち再生の術語集』や『こんなまちに住みたいナ』といった「発想やふるまいのキーワード」へと結実したのはなぜでしょうか。それは、両著が、幻燈会=対面では出会うことのない、これからを生きる若者や子どもたちへと「自由な発想」の種子を拡散するメディア(あいだのデザイン)として役割づけられたのではないでしょうか。

現代社会は硬直し閉塞した発想に縛られてしまっています。でも、「笑い」を突破口に、「楽しさ」を旨とし、「あいだ」づくりを大切にすれば「まだまだイケル」。西山・絹谷から引き継いだ「住み手」主体へのまなざしは、絵本を介して本書に結実しました。

国民の住宅をよりよくするためには(中略)国民自身の住宅をよくしようとするうごきと一体となることがなによりも大切である。

これは絹谷の遺稿集に収められた文章です。

ほかにも次のような一節も。

歴史は教える。市民は都市計画に発言することによってのみ、その環境を確保しうることを。

絹谷のこうした言葉たちは、著者が本のタイトルに用いた「住みたいナ」という思い、意思、発言、うごきが結実した表現とも呼応しています。そういえば、延藤の博士論文タイトルは「都市住宅供給の計画的研究」(1975)(図3)。

図3 都市住宅供給の計画的研究

『こんなまちに住みたいナ』(2015)との40年という歳月を経て、都市住宅はまちへ、供給視点から住まい手視点へと180度の展開をみせています。でもそれは転向ではなく発展・深化。

最期の著書『こんなまちに住みたいナ』が持つ可能性を、絵本を題材にしたまちづくりの愉快な手引き書にとどめてしまわないためにも、「住み手」が主役の社会実現へ向けた、半世紀以上にわたる試行錯誤の歴史に位置づけて読み込んでほしいナ。

この半世紀で最大の「住み手」主役の危機に直面しているいまだからこそ。歴史は教える。「まだまだイケル」と発想しつづけることによってのみ、わたしたちの社会は持続しうることを。

(おわり)

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