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たけしと生活研究会 ヒアリングを終えて


2017年夏、夫が体調を崩したけしの介護ができなくなった。家族介護の崩壊である。
もともと、夫と私だけの介護は脆弱だった。なかなか入ることができないシショートステイ、使うことができないヘルパー。月曜日から土曜日の日中通える「アルス・ノヴァ」だけが頼りだった。(それも自分が立ち上げた事業所!)

その後、支援会議が開かれ、何とかヘルパーさんに入っていただき、どうにかこうにか生活が回るようになった。しかしやはり苦しい。毎日綱渡りのような生活だった。


2018年11月に完成した「たけし文化センター連尺町」の3階にシェアハウスとゲストハウスを設けた。それは十分に熟考したわけではない。運よく、3階の整備にも日本財団さんの英断とサポートがあったから。「エイ、ヤッ」と作ってしまった。とにかくこの状況を変えていくためには、「親以外の人と集まって住む」しかない。

その後、浜松市の英断で、たけしは重度訪問介護が受けられるようになった。浜松で知的障害で重度訪問介護を受けれたのは第1号目である。つまり前例がほとんどない。まして、自前のシェアハウスとゲストハウスがあるところでの自立生活??まったく実例がない。


とにかく、このスペシャルな障害のあるたけしやアルス・ノヴァの面々が、彼ららしく生きていく。そのことしか考えていない。
それがたけしの尊厳を死に物狂いに守ってきた親(夫は本当に亡くなってしまったが)の願いなのだ。

今回ヒアリングを行った。
思った以上に重度知的障害者の自立は考えられていないのだなということがよく分かった。自立のイメージが入所施設やグループホームといった施設型以外にはないに等しい。これは衝撃である。


それに比べて、身体障害の人たちの自立は長年の工夫や個人の考え方をもとにある程度カスタマイズされているように思う。それはほとんど本人が自分で作り上げていく。そこには濃淡はあるとはいえ、「自立する」ということは本人を中心に、ヘルパーや支援者をクリエーションしていくことなのだと思う。
スキルの蓄積や、介助の統一、効率など、細かなところまで本人が行っていかなければいけない。それはそれでかなりしんどいことだろうなと想像するし、みんながみんなできるとも思えない。かなり強固な意志と、明晰な頭脳と、愛されるパーソナリティーとを兼ね備えている人。

一方、支援者はどうだろうか。
ここも濃淡があるのだと思うが、まさに過渡期だと感じる。つまり思いだけでは長続きはしないし、自分たちのしんどさをどう解決していくのか。そういうことにはあまり大ぴらには言えない環境だということはよくわかった。

私が施設を運営するときに、親の深刻さやしんどさをスタッフに求めてはいない。時々叫ぶことはあっても、親のしんどさなんか共有したことろで辛いだけ。それよりも、親のほうを見るのではなくて、障害のある彼らと楽しいこと、面白いことを共感しあえる関係を築いてほしいと願う。その延長線上に、トイレ介助、食事介助、服薬があればいい。たけしだったら、音楽が好きなのだから、2人で一日中、音楽を聴きまくったり、演奏していることが支援で、そのお互いの楽しみの上に、生活を支える食事、トイレ、服薬などの介助があればいいのではないかと考えている。
つまり時々遊ぶのではなく、ずっと遊んでいるような生活であってもいい。(知的障害者はそれができる人たち)

それは、一方で彼との生活に煮詰まり、どうにもならなくなった家族という密室の、ほとんど構成メンバーが変わらない支援の大きな反省に基づいている。


私は「たけしの支援的生活様式」ができることをむしろ恐れている。
それは文化的ではないからだ。
ものが言えない、明確な意思がわからないたけしの、生活を支えるところだけのプロフェッショナルができてしまえば、むしろ彼は時間で決まりきった生活に簡単に押し込むことが可能だ。そのほうがコントロールしやすい。
しかし文化的生活とは、よくわからない、無駄のことでも、誰かに少し迷惑でも、思い付きでその時にやりたいことができる、楽しいことがある生活だと思っている。自分の意思を表明できないたけしの文化的な生活は、多様な人たちがフランクにたけしと何をやったら楽しいかを出し合い、実行していくことだと思う。
こんなもの食べたら、こんなことろに行ったら、こんな音楽聞いたら、「たのしいんじゃね?!」と言い合い、やっちまうこと。
たけしを出汁に支援者や周りの人が自分たちも楽しんじゃう。

これは妄想ではなく、ある程度私の裏付けされている考え方だ。10年近くアルス・ノヴァという通所施設を運営してみて「世話する人、される人」の関係だけではアルス・ノヴァは長続きしないと思っている。お互いがお互いを尊重するということはどういうことかといえば、相手の状況も認めつつお互いがその時間を楽しむことだと思う。
みんなが守るべき決まりもルールもなく、かかわる人によっていかようにも創造できる。
重度知的障害者の支援とは、本当に対等なコラボレーションなんだろう。

今回、ヒアリングでは、重度知的障害者の自立支援の在り方は残念ながら見つからなかった。それには事例がまだ少なすぎる。
しかし、主に身体障害の人たちが作り上げてきた制度の所以がよく見えた。そして重度訪問介護というこの制度は万全ではなく、もっといろいろな障害の人が気楽につかえて、多様な生き方を支える制度に作り替えていかないといけないと考える。その中に一人暮らしだろうが、集まって住むだろうが、家族と住むであろうが、どうにでも使える(それでいて障害のない人たちにとってもいいことがあるみたいな)制度に作り替える必要があるのだと思った。

とはいえ、レッツは政策提言の上手な団体ではない。
我々のできることは、自分たちが楽しいと思ったこと、これだと思ったことをとにかく実装して、記録に取っておくことだろう。そして時々、有識者の皆さんと共有して、それぞれに考えていただく。それが明日の制度につながるかもしれない。
同時に自分たち(利用者だけでなくスタッフも、私も)心地よい、生き方、暮らし方、地域を模索していくことだと思う。
これはたけしの生活だけではなく、スタッフ、支援者一人一人の生活についても考えていく作業なんだと思う。

2020年12月18日 久保田翠


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