小説『理想の兄』第2回目「豚には豚の血を。兄には…」

「ヘルプミー!!」バシャバシャ
「ヘルプミー!!!」バシャバシャ

溺れるふりをし続ける兄を眺めていた。何をしているのか、目的は何なのか。そもそもこの人に目的意識的な言動を求めることは不可能だった。

父はよく、目的意識的という言葉を使っていた。何事もきちんとやり、無駄なことはせず、合目的的に生きている。そういう硬派な父は僕に色々と話をしてくれたのだと思う。兄のことは理解を放棄していた。

父は、家の中ですらものを失くしていた兄を見るとイライラして、「徹底的に探さんといかん」「ほら、あったろうが!」とものを見つけ出していた。不機嫌な父は好きではなかった。また兄のせいで父が不機嫌になる。父が不機嫌になると…。

兄は、父が探し物を見つけると、よかった…としおらしくしていた。屁理屈言って父を激昂させることはなかった。一応防衛本能はあるらしい。あくまで運の良さや偶然の産物の類だが。

そこまで考えたが、目の前でまだ終わらない兄の茶番。一体…。

「バカたかし!いい加減にしろ!!こんなに汚してどうしてくれるんだよ!!疲れて帰ってきたらこんな…掃除したら出てけエ!」
「このシーン、知らないの!?あそっか、あんた子供の時に私と一緒にこれ観てたら怖くて逃げてしまったもんね。これは私の真の姿であるジェニファー・コネリーの初期の作品『フェノミナ』。監督がほんとにうじ虫浮いてるプールに彼女を」
「その作品、監督も娘も親子揃ってセクハラか何かで問題起こしてその映画はもう上映禁止になったろ!知ってるさ、それくらい。俺だって記者なんだから。キャンセルされたんだよ」
「あら、そうなの?キャンセルキャンセル!予定をキャンセール♪ってそんな歌あったわね誰の歌だっけ。本田美奈子?ちなみに、私の文化サロンのマルティ・バースではあれがキャンセルされたなんて初耳だわ」

もしかしたら上映禁止にはなっていなかったかも。あれは別のやつか。

「ああもう!いいけん掃除せろ!」
「あ、方言が出て来た!あんた…お里のことを忘れたふりしたって…それは、ずっとずっと…憑いてくる。イット・フォローズ…追いつかれたら…必ず…」

さすがにその映画は知っていたが、僕の人生にはこいつが憑いてくるのだ。家族は憑き物なんだ。そして既に追い付かれてしまった。死しかないのか。こんな死に方は嫌だ。いや、まだ死んではいない。

こいつに掃除をさせても、所謂、四角い部屋を丸くはわく…いや、それは方言だった、丸く掃くようなやり方に違いない。絶対僕が後始末しなきゃなんない。いつでもそうだったよ。毎日お皿洗ってもきれいにできないから、いつも後で僕がやり直したんだ。

いやいや、子供のころは子供のころ。大人なんだからここは冷静に。兄貴にバケツと雑巾を渡して風呂場を後にした。近所の銭湯に行くか。噂ではあの銭湯には男が好きな男が集まっているらしいが、本当だろうか。…まさかと思うが、兄みたいなオネエが『タイタニック』ごっことかしてたりして…男に手を出されるかもしれないという空想よりも、タイタニックごっこをしている中年男性の方に想像が働くというのもどこか病的だ。しかし背に腹は代えられぬ、銭湯に行った。

がらっ…

銭湯にはほとんど人もおらず、むろん奇矯な真似をする者もおらず、ゆっくり湯に浸かって出て来た。うん、今度また来よう。

家に帰ってみると、異臭も消え、ひっそりとしていた。風呂場をのぞく。電気が消され、きれいになっていた。

「ただいま。兄さん?掃除終わったの?」

声がしない。本当に出ていったんだろうか。歯磨きをしてベッドに入り、電気を消した。

どうしたんだろう。もう12時過ぎだ。あんな兄だけど見た目は男っぽいから外をほっつき歩いていて危ないってことはない。でもあいつ自体が迷惑条例に違反する可能性がある。ポイ捨て禁止にも該当するかもしれないし、動物愛護や産廃規制にも引っかかるかもしれない。何だってやりそうなのだ。

ところで、「久しぶりに日本に帰る」とか言っていたが、兄はどこ行ってたんだろう。饒舌なのに謎だらけだ。そんなところもイライラする。頭がぼんやりして来た。気が遠くなってきたのか。いや、段々眠くなってきたぞ。風呂にゆっくり浸かってよかったな。明日も仕事か。でも頑張らなきゃ。あの兄みたいになってはいけないんだから。

翌朝。

目覚まし時計が鳴っている…プルルルル…プルルルル…それに合わせて何かささやき声が聞こえる気がする…ぼそぼそぼそ…そほす…あぶれろそほす…あぶれろそほす…Abre los ojos…」

「…」

兄が耳元で囁いていた。笛は歌うよNHK。兄はささやく:Abre los ojos。スペイン語で目を開けなさいという意味だ。自慢じゃないが語学は強いんだぞ。バカ兄はいつもNHKの外国語講座のテキストの4月号を欲しがったくせに続いた試しが無かった。飽きっぽくて努力ができない。それを僕がもらって勉強した。こいつ本当にガイセンなのか。

「…目は開けたが何か」
「ぐぐっ…私のぉ…げほっげほっ…映画ネタぁ…かつスペイン語ネタをぉ…見破るとはぁああ…貴様なにやつ」

次の手を考えていなかった浅はかな愚兄の小芝居を無視してキッチンに行く。そこには兄が何かをしたとき特有のパノラマが広がっていた。卵の殻、パンの袋、砂糖の袋、インスタントコーヒーの袋、スプーン、何故かお茶碗、途中まで剥いたレタス…などがキッチンの色々なところに置いてあった。兄は昔から、何かをしようとしても気が散ってまとまらず、部屋の中をぐるぐる回りながら手にした物を置いて回る癖がある。頭の中では別の世界…マルティ・バースと言ったか…に行ってしまい、全てが、全部の場所で同時に起きているのだ。すごい知能の持ち主なのかもしれない。しかし現実適応性というものを思い出していただきたい。

薬缶のお湯の横に鍋が置かれていたが、電気ポットの下にコーヒーの粉の入ったコップが置かれていた。

この人間には、脈絡がない。僕はつとめて冷静でいよう。

「兄さんなんでここに鍋が置いてあるのかな、一応聞くけども」
「鍋でお湯を沸かそうしたら薬缶を見つけたあとに電気ポットからお湯が出て来てああよかったここにあって花*花。あるところにはあるものねえ」

何言ってるのか分からないけど、まあ、兄なりに、僕のことを考えて朝飯作ってくれたんだな。バスルームも掃除してくれたわけだし。

薄すぎるクノールのカップスープ(お湯の量を間違えた後にコンソメを入れたがいまいちだと説明された)に粉を足して飲み、トースト(「フライパンで焼く途中で『オープン・ユア・アイズ』やりにあんたの部屋行ったら忘れて片面が真っ黒になったところでトースターに気がついちゃった私!ばかねー」との由)と目玉焼きを食べて会社に向かった。不味くなかった。美味しくもなかったが。酷く愚かな兄だが悪い人間ではない。そう、自分なんかと違って善良と言えば善良だ。とりたてて生産性も無く、社会の役にも立たない兄だが、害はない。

「今日は険しい顔してませんでしたね。何かあったんですか」

仕事の後に呑みに行ったら、後輩に言われた。

「そうかあ?いつもどんな顔してるの、俺」
「最近、そう、インドに出張行く前は目が…怖かったですね。話しかけたら怒られるのかなと思って、相談しにくかったりして」
「そっか。気を付けるよこれから。今さ、兄さんがうちに泊まりに来てて、もう大変でさあ…」

相談しにくい上司。そんなものになりたくなかったのに、いつの間にかっそうなってしまった。そういえば、前に兄に会った頃は、職場の雰囲気に馴染めなくて、毎日怒鳴られて、ミスばっかりして、また怒鳴られて、会社行けなくなっていたっけな。人事部の配慮で異動になり、職場復帰する前の。あの頃の仕事場ってのは、怒鳴り合いの現場。仕事は盗むモノだからお前には教えない、と面と向かって先輩に言われたりしていた。真に受けてしまってつらかったな。ああいう上司や先輩にはなりたくないと思っていたのに。

バカ兄貴の所業について一通り話し終わった。

「へー。いいなー。僕は一人っ子だったからお兄ちゃん、欲しかったですよ」

こいつ、人の話聞いてないな…。

「もう大変だったよ昔は。みんなで父親の機嫌気にしていたときに、いきなりぐるぐる回って踊り出してガラスに頭ぶつけたらガラスにひびはいっちゃってさ。おやじがキれて大変だったよ。本当にあの頃はみんなビクビクしていたのに兄貴だけは…」
「お兄さんは、こう言ったら悪いですけど、面白いですね。うち、昔犬がいたんですけど、何一つ言うこと聞かない犬でしたし、隣の家とトラブルになったりしてましたけど、いつも楽しかったですよ。お兄さん、うちの犬みたいな感じだったのかも」
「兄貴は犬か…」
「あ、すいません」

つい、声に出していたらしい。いかんいかん。

兄の理解不能な突発行動には、映画や漫画やアニメや、何かうかがい知れない秘密のコードが関係している。あの予想不可能性。父がキレていた気持ちも最近は分かる気がする。何事もきちんと予定通りに進む必要がある。それなのに兄貴にはとことん脈絡が無い。父とそりが合わないはずだ。僕はあの頃の親父の年齢に近づいている。父と同じく、酒は飲めないので、ウーロン茶を飲みほした。父親と似てしまったのかな。無理して仕事でお酒飲んで帰って来て、トイレで戻したり、母さんに愚痴ったりしていた。もし自分があの頃の父親に似ているなら…妻が去って行ったとしても仕方ないのかもしれないな。時代が変わってしまった。

兄貴は母方に似て、大酒飲みなのだろう。兄とお酒を飲んだのはたったの1回だけ。ぱかっぱかジョッキをあける兄に驚くやら呆れるやら。最近は飲んでいるところを見ていないが、そもそも素面のときがあるんだろうか。

家の前についた。ついつい警戒してしまう。今日は何が待っているんだろう。ガチャリ。ドアを開けた。
「おかえりー」
兄の声が聞こえる。とりあえず、玄関と廊下はクリア。トイレやふろ場、自分の寝室も大丈夫。リビングに行くと兄がいた。

「まあ座って。仕事、お疲れ様でした」
「あ、ああ、呑んで来たんだ。後輩と。」
「大丈夫、私もキムチ漬けながら待っていただけだし準備万端」

そう言えばなんかニンニク臭い…。何の準備をしたんだ?

「お疲れ様でしたービール飲めないから私が代わりにかんぱーい」

青汁ジュースを渡されて飲んだ。配慮するにも一貫性が無い兄。なぜ青汁なのだろう。買ってきたのかな。部屋もまあまあ片付いて(兄にしては上出来)いて、ちょっとリラックスできた。こうやって誰かがいる生活もたまにはいいのかな。兄に厳しくいいすぎかもしれない。

まあ僕はこんな頑張って来て、それなりの地位に立っているし、もう少し寛容さを学んだ方がいいのかもしれない。多様性を認めようと皆言っている。会社でもそんな研修があった。

僕が甘かった。

何かしら聞いたことのあるような音楽が流れて来て、兄が気取った声で言った。

「今年のプロムクイーンは…キャリエッタ・ホワイトと、トミー・ロス!」

おやこの流れはまさか?

ばっしゃああああああん…

頭から何か赤く臭い液体を浴びた。兄も一緒に頭から浴びて、真っ赤に染まって震えている。何か言おうとしたら、頭に何かが当たった。結構痛い。何だこれは。拾ってみると、バケツだった。中は、何か赤い液体らしきものと、何か細かい組織みたいなものがこびりついている。嫌悪感が湧いて来た。と同時に顔や目がひりひりし始めた。まさか・・・これって・・・

兄は頭から赤い液体を浴びたまま悲鳴を上げている。目が痛いらしい。僕も目が痛い。ひどく痛い。これで僕の人生も終わりなのか。「They will laugh at you!…They will laugh at you…」スマホから女性の声が聞こえる…ああこれは映画なんだ…兄は無理に目を見開き、這ってゆっくりコンロの方に行った。そこには紙の箱が置いてあって、兄の汚い文字で体育館と書いてあった。まさか…やめてくれ…兄は火をつけ、「体育館」を燃やし始めた。

時間が止まっていた。アタマの中で、何か低い音がずーーーーーーんと鳴っている。と思ったら、兄貴がスマホでそういう音を流していただけだった。『CARRIE Prom night scene』という文字が動画画面の上に浮いていた。

不意にコンロの火を消した後、顔を洗ってすっきりして戻って来た兄。どうやら終わったらしい。中途半端だ。ちゃんと終わり位作れよ。

僕は硬直していた。

「…本当は、頭にバケツが落ちて来たあんたは気絶してそのまんま火事で死ぬ役なんだけど気絶しなかったからよかったね!どう?『キャリー』よ!!苛め抜かれた超能力少女の悲しみが悲劇を引き起こ」

「あのさ!…ふふ…もうな、何言っているのか、何をしたいのか…全然分からない…アッハ、それはいいんだ…この赤いものは何か。それだけ教えてくれないか、シー〇ルセッ〇、フ〇ッキン、ファンクーロバカたかし兄さん?」

思いつく限りの罵倒語をつけて静かに兄に話しかけた。

「キムチのヤンニョムだよ!これ今日キムチをつけながらふと思いついたの。人生最高の瞬間を迎えたヒロインとヒーローが、まあ、ここにヒロインはいないんだけどさ、頭っから豚の血ぶっかけられて。でもここ日本だしヤンニョムの方がアジア的だろう。スローモーションで一度はやってみたいだろ映画ファンな」
「兄さん、もう掃除はいいからさ、今すぐいなくなってくれないか…昔っからさ、兄さんがやらかしたこと、全部俺が片付けて来たんだよ。知ってた?兄さんがバカだから、俺が勉強もスポーツも頑張ったの。父さんを怒らせないために。そういうの、知ってた?母さん、何て言っていたか。全部忘れたかったのに。あのままいなくなってくれてよかったのに!何で戻って来たの?消えろよ。死んでくれないか今すぐでも」

涙が溢れて来た。赤い顔に涙の筋が流れてさぞや面白い…いやいや兄に影響されてどうするんだ、ひどいご面相だろうな。

「あ、そ。」

涙が乾いた。

「あの、本当に嫌なんで」

「あ、そ」

「死んでくれよ」

「あ、そ…これ誰の真似か分かる??昭和天皇だよ!!!懐かしくなーい亡くなっちゃったけどね、あの頃さ、家で言ってたじゃん、天皇が亡くなったら新聞に何て出るかってさ」

「知らねえよ。もういいから出てけ!!」

再び涙が出て来た。何だよこいつは。モンスターだ。悪夢だ。バケツを兄貴に投げつけた。兄は「ほっ」とか言いながら生意気にもバケツをよけた!

「ドッヂボールで鍛えた私を…ボールを投げつけられるだけだった私を…おなめでないよ!!パンパンを…なめるんじゃないよッ!!!」

「うるせえおまえパンパン当事者でもねえくせに黙れ黙れ出ていけよ!しかもそういうのをエクスプロ…何とかと言うんだ!!!」

「えくすぷろいてーしょんでしょ。知ってるわよそのくらい。搾取ぅ。搾り取られて干からびた豆の搾りかすって肥料になるよね。私は肥料か受ける。まぁな、あんまり映画ファンを馬鹿にすんな。でも私の好きなのはむーん・ひーりーんぐうううううえすかれーーーしょおおおおおぐえっ」

某アニメの技名を最後まで言わせず、兄の薄汚いかばん(洗濯したことあるのか)を掴んで兄に押し付け(こいつに触れたくない)廊下にきゅるるるるると押し出した。キムチ汁のおかげで滑りがよい。きゅるるるるるる。いつまで走っても玄関につかない。きゅるるるるるるる。何か廊下が100m位あるような気がして来た。いつまで押しても玄関につかないような錯覚が?でも頑張ったら玄関について、やつを追い出した。バタン。ドアの向こうからうっすら「ばったーーーん!!バターン。バターンしのこうしん」とかなんか聞こえて来た。何と不謹慎な…!前途明るい海外特派員記者である俺の周りには、こんな政治的に不適切な人間は必要ない。ツイッターで何書かれるか分かったもんじゃないぞ。

あとには、キムチ臭いリビングと、キムチ臭い自分の身体と、廊下の足跡(キムチ)と、無様で惨めな弟としての自意識が残った。玄関を開けたらもう誰もいなかった。兄貴の赤い足跡がうっすら残っていて非常に気分が悪い。

銭湯に行って全部洗い流した。番頭さんがびっくりしていたが無視して洗い場に向かった。洗い流しても流してもまだ臭う。銭湯のタイルの床が赤く染まっていた。『キャリー』って映画でも、こういうシーンがあったんじゃなかったか…くそっバカ兄の思うつぼだッ。ちきしょう!!脳が侵食されている!!!!平和な日常を返してくれ。あいつはノーマリティを侵食するモンスターなんだ!!!!!

家に帰り、掃除を始めた。午前2時、やっと終わって、牛乳でも飲むかと冷蔵庫を開けたら山のような白菜キムチが入っていた。5分ほどキムチと向き合った。結局、捨てるわけにもかず、翌日スーパーでジップロックの袋を買い込み、キムチを小分けにした。そして、会社の同僚や後輩にキムチを配った。好評だった。

しばらく兄貴は戻って来なかった。ちょっとは気にしたか。いや、もちろん全部忘れて戻って来るだろう。あの兄は憑き物であり呪いだ。多様性を受けとめるとは何か。奇矯な兄と過ごすことだ。四六時中訳の分からない空想話をされ、風呂場でフェノミナごっこをやられ、キャリーごっこでキムチ汁を浴び(韓流ドラマのキムチビンタ母さんも真っ青)、キッチンを散らかす。それでいて、まだやられていないことがあるのが信じられない。まだ思いつく自分が怖い。豚には豚の血を。じゃあ、愚兄には何を与えればいいのだろう。夜が明けて来た。無駄なことを考えるのはやめよう。

続く。

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