見出し画像

異文化パワーに圧倒されていよう ~『バジュランギおじさんと小さな迷子』の再上映に寄せて~

乗れなくて困った『バジュランギおじさん』

私が観たのは、2019年の最初の方、インド人の彼氏と一緒に観に行った。彼は既に母国で観ていて好きだと言っていて、やっぱり見た後彼の目からは涙が出ていた。

私はこの映画観ても泣けなかった。何故なのか未だに分からないが、きっと、びっくりするようなことが一つも起こらない映画だったからではないかと思う。老け込んだものだ。

現地の人ですらひどく心を動かされているというのに…。

そして時は流れ、インドに住み付いた。

最近のボリウッドがこういう映画を作らないと言われて久しい。一昨年には、近いテイストと思える(後述)アーミル・カーン主演で、あの愛国映画『フォレストガンプ』のリメイク作『Laal Singh Chaddha』が興行的に失敗した。同作についてワカモノ達に聞いてみると俯いてしまい反応が得られなかった。またインテリと思っていた知人からアーミル・カーンについての薄っぺらい文句も耳にし、そこそこ驚いた。

そういう経緯があるので、以下の懸念も理解できる。

私は基本的にひねくれ者だから、英米メディアや日本のインド映画ファンから「インドの右傾化を憂う」という情報発信があるたびに、「右傾化」とは何によって計測可能なのかという疑問を感じる。

「ジャイ・シュリー・ラム」という言葉は、映画『Adipurush』の印象的な主題歌の中で繰り返し繰り返し出て来るのだが、同作は一方でヒンドゥー主義側からひどく非難されボイコットまでされた。なぜ彼らは同作を支持しなかったのだろう。おそらく「その都度の気分」なのだと思う。

インドにおいて社会の「右傾化」を計測することはひどく難しいのだろう。右傾化の前に、もともとそういう人たちなんじゃないか?という疑念がわくからだ。私達の見たくないものが烈しく可視化されているだけなのではあるまいか。

我々が聞いていたい解説

10年前の私なら、「モディ=極悪人」「タミル映画こそ正義」「良心的ならばマジョリティは自省すべき」云々というモノの見方に賛同したと思う。ちなみに、これら3つは「モノの見方」であって、事実とは言えない、と今の私は考えている。

事実とは…インド政府はカシミール地方の自治権をはく奪した、であるとか、非ヒンドゥーの難民から国籍だか永住権だかを取り上げる?ような法が施行されるであるとか、カリスタン独立(パンジャーブ州の独立)の運動家を北米で暗殺したらしいとか、ラーマ寺院ができて盛大に祝われたとか、野党政治家が逮捕されたとか、ボリウッド映画がスパイ工作や戦闘機による交戦を映画化したらヒットした…そういうことだ。

上記の羅列にあるような、「良心的である我々」にとって好ましくないものが次々に目に入って来たとき、我々は「こんなものは正道ではない」と感じたり、逆に「これが本音なのか」とがっかりしたりする。そして「解説をしてほしい」という気持ちになるのだと思う。

でも、「解説」が次の2つに該当する場合、どうしたらいいのだろう。
①必ずしもその解説が、「良心的な我々」を満足させてくれるものでない場合。
②反対に、「良心的な我々」が傷つかないような配慮のなされた虚構である場合。

日本では予定調和が愛されるため、概ね皆は②を求めているのではないかと思う。①は好かれないようだ。

私は、②はもう散々やって来たし聞いてもきたし今もやってるかもしれないので敢えてやりたくない(虚構が絶対悪とは思わない)。

しかもガイジンとしてインドに住んでいる以上、「良心的な我々」だけでは自分が保てないのが正直なところ。現状について、日本語で発信する以上、現政権に批判的な意見を述べるか、あるいは一切言及しない方が読み手も傷つかないし、書き手としては無難だと思うが、できなくなってしまった。

インドの人の頭に流れる物語

私は一応、『The Kerala Story』も観て感想を書いた。「ISとそのシンパ(ムスリムのインド人)がインドで非ムスリムの女の子たちを洗脳して性奴隷として中東に送っている!」という上記映画は、センセーショナルで、プロパガンダ然としているし、「マイノリティで弱者のイスラム教徒」に寄り添っているかに見えた一時期のボリウッド映画に対するオルタナ・ファクトの香りもぷんぷんする。

しかし、主演女優がAwarenessの映画だと意気込んでいた割には、インド・マジョリティにとって特に驚くようなところは一つもないと感じた。作中に出て来た男性から女性に対する悲惨な暴力の大半は、宗教関係なくインドで頻繁に起きていることなのだという視点を持たない観客ならば義憤に燃えることもできようが、あまりの暴力描写と理不尽さに、平日にも関わらず客席を埋めていた(恐らく動員された)若い男性観客たちは意気消沈していた。

初めてこう考えるに至ったが、プロパガンダ映画がその機能を十分に発揮し得ない状況というのがあるらしい。あの内容なら噂話の方が効果絶大であろう。映画はヒットしたそうだが。

ラブ・ジハード扇動よりプロパガンダ的なボリウッド映画

プロパガンダは、皆の頭の中にあるイメージに新しいものを付け足して人々を新しい思考に導いてこそ意義がある。そう考えると、『RRR』ブームに冷水をかけた夏目深雪さんも非難しなかったボリウッドスパイ映画『パターン』の方が、フィクションと現実の混ぜ具合から言って危険ではなかろうか。我々は、カリスタン運動家殺害みたいなことをする国家組織を肯定する映画を娯楽として受け入れ、結局のところ「インド国家主義」に呑まれているのではあるまいか。

同作も、最近の新作『Fighter』も、「パキスタン政府はテロを支援してインドを挑発している」という認識に立っている。彼氏にも聞いたが、「だって事実だよ!」と怒り始めたくらいだった。インディアの側にとってその認識は「真実」なのだろう。

「真実」は人の数だけ存在する。ジョニー・デップとアンバー・ライリーは、法廷でどちらの「真実」を採用してもらえるかを大金かけて争った。私達は勝手に「私の真実」に近い方を応援しただけだ。どちらかを嘘つきだと非難したり、不公平な裁判だったとか評してみたところで、法廷の結果が全てである。

異文化パワーに圧倒されていよう

私には、インドの人が本当は何を考えてるのかちっとも分からない。その都度その都度の興奮や熱狂や暴力の集合的プロミネンスが強烈な割に、一貫した考え方が読めないのだ。そもそも一貫した集合的意志や価値観などというものはないのかもしれない。

皆が押し付けられた多様性に困っている国で、ある正義を追求することは、ときに全く理不尽だが激しい(そして意図の読めない)反発に出くわす。であれば、現政権のような、その都度のマジョリティのガス抜きを怠らない政権でも必要なのではあるまいか。どうせ皆熱狂はすぐ忘れてしまう。人々の生活を向上させ社会を安定させることに成功する政治には価値がある。インドに住むことを選んだガイジンとしてはこれを否定することはできない。

『バジュランギ』の中のRSSの暴動シーン等にも、あの父親が激しくパキスタンを憎む描写も違和感がなさ過ぎて、インド人の頭の中では「スルー」されているのではあるまいか。自分の所属する社会の醜い部分を無視しながら、別の美しいものや面白いものに反応するメンタリティは、インドでならば、充分にあり得るのだと思うようになってきた。元々、いいことも悪いことも大して隠されていないからだ。

そういうインドについて、数多くの先人が一生懸命積み上げてくださった研究成果を読んだり聞いたりして、「こんな感じなのかなあ」とオープンな疑問形にしておき、時折イメージを訂正しながら眺める。

私にとって気に食わないものでも、ある現象や事物に意義を感じている人達がたくさんいるという現実は、まず受け止める必要がある。

受け止められないならそれは「パワーに圧倒された」と言い換えればいい。異文化理解とはそういうところから始まるし、例え圧倒されてしまって何も言えなくなっても、自分の中に「良心」が無いということではないし、時間をかけて知っていったらいいのではないかと思う。そのほうが絶対楽しい。

この記事が参加している募集

映画が好き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?