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読書感想文『An Unsuitable Boy』(不似合いな少年)Karan Johar, Poonam Saxena著2017年

ボリウッドにはネポティズム(身内びいき)が蔓延っている、という話はしばしば聞かれる。テルグ映画界を見ればもっといろいろなことを考えてしまうが、そんな不名誉なインド映画界の評判をものともしない、ボリウッドのサラブレッドの1人が、Karan Johar(カラン・ジョハル)氏。

1972年生まれで、父に著名な映画プロデューサーのヤシュ・ジョハル氏を持ち、20代後半から映画界に進出。初監督作品『Kuch Kuch Hota Hai』(1998年)ではシャー・ルク・カーンとカジョルという当時のスター二人を迎えた上、大ヒットまでさせてしまったという実力者。『Coffee with Karan』という自分の名前を冠したトークショーも好評。

NETFLIXでは半分リアリティーショーのような番組のホストを務めた。そこで同性愛者であることを前提に会話を進めているエピソードは画期的だと(私は)感じた。まあ、それはみんな知ってたよってことなんでしょうけれども。

今、第一人者として。

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今回紹介するのは、氏が2017年の時点で出した自伝。生まれから幼少期のこと、映画界に入ってからのこと、交友関係、そしてしつこく言っているのは、「セクシュアリティについては、自分が話したいときに話しますッ」という趣旨のことを2回ほど強く言っているので、言わないことが一種の証明になっている。わざとだろう。

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著書近影。←7/20追記。古本市で買いました。

彼はこう書いている。

皆は、私がステレオタイプ的なホモセクシュアルを笑いものにしていると言う。でも私は「いいえ、私はホモセクシュアリティを夕食での話題に持ち込んだんです。私は、同性愛の少年少女から、「ドスタナ」(彼の出演したトークショーでの出し物で、男性と踊ったことと思われる)を作ったことに感謝する趣旨のメールや手紙をたくさん受け取りました。理由は、今や少なくとも皆がその概念が何であるかを理解しているということについて。私は、『ボンベイ・トーキー』を作り、社会的な圧力、そして親からの圧力によって、隠れて自らを抑え込んでいる既婚のゲイを扱いました。それが同作のバックストーリーです。」
 私はホモセクシュアリティを笑いものにしたことはなく、ユーモアを以て取り組んできましたしたが、全ては理由があってのこと。
国の道徳警察の方には、この国で一つの考えを貫き通すことができる唯一の方法が、ユーモアを交えることなのだということが分からないんでしょうか。(190ページ)

 こんなことも堂々と書いてしまえる程、彼の自負もプレゼンスも大きいのだと思う。確かに、少なくとも中産階級以上で彼より若い都会のインド人にとって、同性愛者というのはそこらにいるんだろうな、くらいの存在にはなっていると肌で感じる。

 しかしインド人話法なんだろうか、同じことを2回か3回くらい繰り返して若干くどいので、何を言いたいのかは実によく頭に入って来る。特に、シャー・ルク・カーンとの関係については一章を割いており、かなりウェットだ。彼と一時仕事上で関係が遠のいていた時期について、寂しく思いつつも恨めしかった模様。遂にあるパーティで再会して普通に話しかけ、やっとお互いに音信が途絶えていたことで二人共寂しかったのだと確認しあって(そういう風に落としどころを作って)、あーよかった(花*花)。

でも、シャー・ルクと一緒に大ヒット作も作り、ずっと個人的にも仲が良かったというカジョルについては冷たい。公に彼女の夫とカラン・ジョハル(の利害?)が衝突した件について、カジョルがツイッターに書いた一言「ショックよ!」でほぼ絶交状態になったとの由。多分…

彼女が私じゃなくて夫の肩を持ったのが許せなかったの!

この反応の違い。しかも当てつけのようにシャー・ルクについての章の次で書いているw。

ボリウッドの名優の一人、カリーナ・カプールについての記述も納得。彼女はカランジョハル監督の名作(木下恵介みのある家族ドラマなの。歌も好き)『家族の四季 愛すれど遠く離れて』(2001年)で、既にスターだったカジョルの妹役に抜擢。

インドの古典の翻案とされる同作は、当時の時点で考えられる最も豪華なオールスターキャスト映画+新人売出し事例だったのだと思われる。カランがカリーナをパーティで初めて見たとき、まだ18歳でデビューして間もないというのに、既に何作も大ヒット作を持っている女優のようにふるまっていたので気に入ったと書いている。そして演じた役が、天真爛漫なプージャの役。

最近もこのプージャ役のときのセリフがデリー警察によって拾われている。

「立ち止まってあたしを見なかったあいつは誰なのよ!!」

みたいなことを、交通マナー広告に使われている。

プージャはファッションもぶっ飛んでるし、それ以上に表情がおかしい。高慢ちきのはずなんだけど全体的に抜けており、とてもオネエ的な言動をする。彼女、将来はホラーコメディーで悪役の魔女とかやるべきね。

ちなみにプージャをイライラさせた男子を演じたのはリティク・ローシャン。ちなみに彼が演じたシャールクの弟役は、子供時代には太っている設定だが、これはカラン先生が自分のことを反映したと述べている。でも太っていたあの子が大人になったらリティクになるって…wwどちらかと言えば、カランがすくすく育ったらプージャみたいな子になるんじゃないかと思ったのだが。

ちなみにリティク・サーについては、あんまり外向きの人付き合いがうまくなかったけど今はだいぶよくなった、みたいなことを書いていた。確かに彼ってちょっと内面が分からないもんね。演技もダンスも顔もいいけれど、ちょっと冷たい感じ。ちなみに広告では、ジャンクフード、ペットフード、フィットネスから浄水器まで何でも出ているしどこでも会えるよ!ジェネリティクです!!

カランは商業的成功を収めることには大成功しているし、監督としても評価を受けているものの、一方でどこか自分の作風に自信が持てないのかもしれない。上記『家族の四季』は大ヒットしたにも関わらず、同じ年にアーミル・カーン(ちなみに、アーミルの方が最初カランにいい印象を持っていなかったが会ってからはそれが変わったと言われた旨、カランは書いている。ほんと?)主演の『ラガーン』が同じ年(2001年)に公開され高評価を受け、アメリカのアカデミー賞外国語映画賞候補作にまでなる。カランは、『ラガーン』の出来の良さにショックを受けて、ロンドンに逃げていたらしい。

ところで、カラン自身は新しい世代としての自負を語っているものの、やはり、同性愛者だからこそ目がいくポイントがあるのだなと思わずにいられない。彼は子供時代に太っており、さほどスポーツにも興味を持たなかった模様。ファッションデザインに興味があったらしいし、衣装デザインをした映画もある。学校では勉強がよくでき、演技や朗読などで才能を発揮したらしい。

あの世代のインド男性としては周囲から浮いていたと思われる(実際、「おとこおんな」的な嫌な言葉をいっぱい言われたらしい)が、彼の育った環境は、かなり開放的な価値観を持つ中流以上の家庭だったし、また家族関係がよかった。彼の作る作品は、その都度の新しい価値観を描いたことで、不可避的にお金持ちの話ばかりになっているのだと思う。当人はそれも多少気にしている様子。でも映画は、普段見られないものが観たいという欲望をスクリーンに映し出すものであるからして、「少し上の人達への憧れ」も当然投影される。そして、その中には「自由」や「変化」へのメッセージが託されてもいる…というのが、ハリウッド的な映画史の考え方だが、カランも実際そういう意識でいるように見える。

インドの男性や女性をスクリーン上に如何に映し出すかは、本当に、一つのシーンの中で我々の社会のDNAを変え得る。私はゾヤ(筆者註『ガリー・ボーイ』監督のゾヤ・アクタル)と一緒にある映画を観た。ゾヤは、ヒーローがヒロインをストーキングしているねと言いながら出て行った。彼女は言う:「ストーキングは求愛行動じゃないし、愛にはなり得ない。皆はここから1ページ取ってきて女性をストーキングするでしょうね。そしてそれは時にレイプに繋がる」(142ページ)

この点は、私が『バーフバリ』にハマったときからのインド映画全体に対する疑問とも共通する。ちなみにカランは、『バーフバリ』のヒンディー語圏配給を決めた人物らしく、二度言及があり、自身の先見性について自負している。しかし、これ作者の問題かな、S. Rajamouliって書いている。S.S.でしょう…

『バーフバリ』第1作中のアヴァンティカがシヴドゥと結ばれる音楽シーンについては、ツイッター上で意見が割れていた。果たして、アヴァンティカは自分の意思であの形に至ったのか、男によるファンタジーの一方的な押し付けなのだろうか。ラージャマウリ映画の女たちは、自分の運命の激変を即座に受け入れる大胆さを見せることで、この問題をカバーしているかのように見える。

『R.R.R.』でのあまりに薄いヒロイン描写は、若干上記のようなことを意識した結果なのかどうか、改めて皆さんに観て考えて欲しい。『K.G.F.:Chapter 2』の女性は、美女か母親か労働者しか存在しない。また、そもそもあのような、社会改革任侠映画が、今インド人のどの層にアピールするのか、「ほぼ、バーフバリ」と評された内容を現代劇でやる意義とは何か、などを考える上でも、同二作が描いたものは、今後のインド映画の行方を占うものなのかもしれない。

カラン・ジョハルの悩み事

カラン・ジョハルが古い世代になってしまうことはあるのだろうか。彼はパートナーはいない、お母さんとほぼ同居で満足だと言いつつも、最後の章で、こう言う。自分は今まで車いすに乗った人を見ても何とも思わなかったが、自分がそういう年齢になったとき、誰が車いすを押してくれるのだろうか、と。そこで、最後のページでは、子供が欲しいということを述べ、以下のように書いて終わっている。

私は、一人老いていくことが怖いから、自分の面倒を見てくれる子供が欲しいのだ。そのことは私が最も恐れていること。死は怖くないが、ときに人生は怖い。(216ページ)

カラン自身はホラーはやらないと言っており、実際長編では撮っていない。しかしどうだ、この最後の3文の怖いこと!本人が、父親も家族で見取り、母親の世話をしながら、映画製作とエンターテインメントの第一線で活動し続けている。精神科医にもかかっていると書いており、年齢、キャリアの大きさ、あまりに多くの人に自分が知られ過ぎていること、など色々とつらいのだと思われる(高級デートあっせんサービスに登録したら、「あなたに合う人は東京にいます」と言われて、東京には行けないしなぁ…と思ったと書いている)。

自分が年老いたら子供が世話してくれたらいいなぁ…などと言おうものなら、今の日本のネットでは炎上間違いなしであろう。彼は、同性愛者であることが大きなマイナスになる文化圏で、そのことをひた隠しにもせず、公にし過ぎもせず、うまいバランスで乗り切った。女性と結婚して子供を持つことははっきり否定。その一方で、家族に支えられ、親からの愛情もたっぷりもらって育った人であるし、闘病した父親を最期まで支え、今も闊達な一方で父親の逝去により精神的に弱った母親を支える。カラン・ジョハルがインドにおいて支持される理由は(支持されているという前提でいるのだが汗)、自由を讃える同性愛者としてよりは、保守的な価値観と相反する部分が少ない人物だということなのかもしれない。

ここでやっぱり、木下恵介を思い出す。彼自身はカムアウトしなかったが、他の人の本の中で「ゲイ」と書かれていることもあったし、そうなのだという前提で、彼もまた、ご両親の愛情をたっぷりもらって育った人で、親に見せられないようなものは撮らない人だったと思う。それ故に、日本人の生活水準が上がり、社会構造が変わったとき、彼の作った作品世界の放つ光は古びてしまい、昭和後期以降の我々の目には見えにくくなってしまった。カラン・ジョハルに関してはどうだろう。インド社会は彼に追いつかないかもしれない。ロンドンやニューヨークにひょいっと遊びに行ける人は少ないからである。

答え合わせがしたくなる本

ちなみに…こういう本に一切名前が出て来ないボリウッドスターとはどういう関係にあるのだろうか。例えば、絶対出て来そうなアニル・カプールの名が出て来ない。邪推してしまう。本当に関わりが無かったのかもしれないが…。非主流系のナワズディーン・シディキも全く無いが、それは何か納得。

他方、彼の番組中(!)やネットで、カランに対する対決姿勢を崩さない命知らずのカンガナ・ラーナーウトのことは(もしかしたら執筆後に関係がこじれたのかもしれないが)、ブランディングの成功者として一目置いているように見える。

彼自身はエンタメ業界に骨をうずめる覚悟は持っている人だと思う。彼は、若い世代に三大カーンに続くような大スターがいないことについて言及し、若い世代は、もっと自分について語り、ファンに自分のことを見せたほうがいいと書いている。おそらくカラン自身がそうやって来たと自負しているのだと思う。

彼が名前を挙げた若手スターの一人、ランヴィール・シンは、私には、内面が複雑に歪んだ変人(『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』のジンガロ)なんだろうなと見えるし、それはもう皆に見えていると思うけど、カランから見れば、まだまだ出し切っていないらしい。自分の言葉で語れってことなんだろうね。でも彼の内面を皆が好きになるような形でブランディングするのは難しい。だからNetflixで野山に放たれたのか…。ちょっと修行して来いやと。

本書からは、ボリウッドの力関係も感じられる。プロデューサーや監督は役者に対して圧倒的な力を持っていること、親が大物俳優または大物監督・プロデューサーであることは大きな力になること等。そしてカラン・ジョハルは今の若手(例えばアーリア・バット)を子供の頃から知っている。

その一方で、配信サービスの普及によって、南インド映画が観客を獲得して力を伸ばしてきていることや、ボリウッドが描く映画や配信ドラマの欧米化などを考えると、カラン・ジョハルがフレッシュでいられるかどうか、見ものだ。

むろん、オネエさんたるもの、いつまでも芸能界のご意見番ではいると思うが。

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